―― 消えない オモイ ―― 冬木士度を花月らに任せ、一緒にトラックを降りたヘヴンや卑弥呼とも別れ、蛮は銀次をおぶさったまま、近くのホテルを目指した。 先に修理中のてんとう虫を引き取りに行くことも考えたが、銀次が起きてから一緒に行った方が喜ぶだろうと、明日に回す。 心配している波児ら待つホンキートンクも、明日、銀次が目覚めてからでいい。 ついでに言うなら、新しいシャツや下着やらも買い物も明日だ。 とにかく、固いベッドでもいいから、疲れ切った相棒を横たわらせてやるのが先決だと、蛮はそう考えていた。 夏の風は、谷に向かう前はまだ存分に熱気を孕んでいたのに、僅か数日の間に少し変わった。 ふいに見上げる空も、どこか秋を意識させる色だ。 ビルの谷間を過ぎる風が、銀次の伸びきった金の髪を揺らす。 それが首筋に当たって、少しくすぐったい。 蛮は目を細めると、自分の肩でまだくーくーと小さなイビキをかいている相棒を振り返った。 疲労しきっていながらも、自分の肩で眠るその顔は、少し微笑んでいるようにやわらいだ表情をしている。 蛮の瞳が、フ…とやさしく笑んだ。 背中にかかる体重と体温が、ひどくいとしい。 いつまでもこうしていてやりたいと、そう思うほど。 いや、こうしていたいのは、むしろこっちの方か。 心中でごちる。 今回ばかりは。 もう報酬も何もなくていい。 この温もりがここに還ってきた。 もう、それだけでいい。 蛮は、少々ずり落ちてきた背中の銀次の身体を”よっと”と背負い直すと、また人混みの中を歩き始めた。 いきつけのホテルのフロントでさえ、蛮の散々たるいで立ちに、さすがにぎょっとされてしまったが、それでも顔見知りの支配人は、何くわぬ顔で部屋の鍵を渡してくれた。 裏通りにある素泊まり用の安ホテルのため、ベッドは固いし、部屋の窓から覗く景色も、当たりが悪いと隣のビルの壁しか見えない。 それでも一応、今日は南向きの眺めのいい方の部屋をあてがわれた。 どうもぼろぼろの蛮の姿に、これは奪還屋の仕事の終了後だろうと懐具合を探られたらしい。 さあて、報酬ねえ―。 今度ばかりは、マジで期待しちゃいねえが。 もとより、金のために動いたってワケじゃねえからな。 蛮が思い、片手で銀次の尻を支えながら、部屋の鍵を開ける。 室内は多少カビくさいものの、確かにいつもよりはマシな部屋のようだ。 エアコンのスイッチを入れると、派手な音をたてて年式の古いエアコンが働き出す。 その音に眉を顰めながらベッドを開くと、蛮は背中の銀次を下ろして横たわらせようと、おぶさったまま共にそこに腰掛けた。 瞬時、躊躇う。 背中の体温がなくなるのが、寒い。 そう感じている自分に気づいて、苦笑する。 まだ秋にも早い。 季節は、終わりに向かっているとはいえ、まだ夏の後半だ。 それでも寒いか。 銀次が、離れるだけで。 自嘲気味の自分への問いかけに、おうよ、と答える。 銀次を失うのかと思ったその瞬間には、もっと獰猛な寒さが心を過ぎった。 その感覚は、まだ自身の中に新しい。 だから殊更。 背中に銀次をおぶさって、ベッドに腰掛けた状態のまま、蛮はしばらく動けなかった。 首もとを、甘い息がくすぐる。 埃っぽい金色の髪から漂うのは、いつもの銀次の髪の匂いだ。 甘え掛かるように顎を自分の肩にのせ、ぺったりとその背に体重を預けて懐いている。 ずっとこのまま眼がさめるまで― そんな馬鹿げたことまで思いついて、蛮は苦笑してそれを否定した。 いつまでもこの体勢では、あまりに銀次が辛すぎる。 思い直して、銀次の両の腕を取り、自分の身をその狭間で反転させるようにして、銀次の身体を己から離させ、不安定になったところを腕でささえて、そっとベッドに横たわらせる。 「ん」 銀次が、小さく身じろいだ。 身体の前にぴたりと密着していた蛮の体温が離れ、不快さと不安を露にして、眉がぎゅっと寄せられる。 指先が、離れたくないとばかりに宙を引っ掻いた。 それを取り、自分の手の中で安心させるように包むと、とたんにほっとしたような顔になる。 それをやさしい眼で見下ろして、子供のようにあどけない顔で眠っている相棒の、その髪に空いている方の五指を伸ばした。 宥めるように、金のやわらかいそれに指を絡めると、くすぐったかったのか、銀次が口元に小さな笑みを浮かべる。 それに微笑み返して、蛮は心から安堵の溜息をついた。 同時に、蛮の全身がやっと、長い緊迫から解放される。 ―生きた心地がしなかった。 まさしくそんなところだったろう。 銀次に、「死の予言」があると聞かされてから、それが翻される予感はあったものの、決して確信ではなかったから。 もしも― そう思った。 もしも、銀次が―と。 だが、 その想像は、蛮の脳裏には現れなかった。 「………」 ベッドに腰掛けたまま、銀次の髪を撫でていた左手がふいに止まる。 手の甲で、そっとやわらかな頬にふれてみた。 蟲宮城で眠りに入った時は、まさしく蒼白な顔色をしていた。 それが今は、少し赤みがかっている。 相当なストレスだったんだろう。 肉体を、あんなおぞましい虫の魂の乗っ取られるなどということは。 そして、冬木士度の目覚めの嫡羅に呼び覚まされ覚醒した雷帝と、兜がその中で肉体を奪い合った。 その時。いったい。 銀次の心はどこにあったんだろう。 肉体を占拠する2つの巨大な力は、どれほどコイツの心を苦しめたんだろう。 アーカイバに死を予言され、一方では、魔里人と鬼里人の取引の道具にされて、その狭間で電撃という自身の力を失い、本当の”力”とは何かと葛藤して藻掻き苦しんで。 それなのに最終的には、外的な力により、無理矢理”雷帝”にナらされた。 冬木士度と無限城の力によって、そこに銀次の意志がないことなど気にもとめず、何ら関係なく。 まるで濁流に翻弄される、一枚の木の葉だ。 暴れる水に飲み込まれ、捻られ、岩に叩きつけられ、ただ流されて。 否、それでも。 最後には自らの意志で、辿り着くべき岸にきっちり辿り付いたのだ。 苦しみながらも、溺れながらも、蛮が辿り着いたと同じその岸まで必死に泳ぎきったのだ。 ―よく頑張ったな、銀次…。 髪をくしゃくしゃと撫で、胸の奥で呟いた。 本当なら、事の顛末まで、テメーにゃしっかり見届けさせてやりたかったが。 口惜しさに、蛮が心中でごちる。 それでも、どれだけ揺さぶっても、頬を叩いても、くたびれきった銀次の身体は眠りを貪り続ける方を選んだのだ。 それは間違いなく、危険サインを意味していた。 銀次は、とうに限界点を越えていたのだ。 そして、その事はなぜかいつも、銀次本人よりも蛮の方が先に悟る。 もういいだろう。これ以上。 こいつに何をさせるっていうんだ。 …過保護かもしれないが。 蛮はそれ以上もう、銀次に無理はさせたくなかった。 だから。 リングの外からタオルを投げたのだ。 苦闘の末の結果をその眼で確かめられなかったことの苛立ちを、銀次は蛮にぶつけるだろうか。 口惜しいと、悔しいと、もしかしたら泣くかもしれないが。 考えると、胸が痛い。 それでも、仕方ない。 恨むんなら、恨んでいい。 それで、気がすむのなら。 蛮の眼が、苦しそうに澱む。 むしろ。銀次が、そういうヤツなら。 オレもちったぁ楽だろうに。 思い、瞳を臥せかける。 銀次は、いつだって、自分の感情で人を責めたりは出来ないのだ。 怒りは、他者ではなく、内に向かう。 自分の力が足りなかったからとか、自分が何もできなかったせいだとか。 いつもそうやって、自分を虐める。 たとえ、自分に万に一つの非さえなくても。 …そんな生き方を、ずっと強いられ、求められてきたのだろう。 それが殊更、蛮にはつらい。 ベッドに腰掛けつつ、静かに銀次の髪を梳いていた蛮の手がふいに止まった。 蛮のその苦悩を感じたのか、枕に片頬を埋め込むようにして深く眠っていた銀次の顔が、くっと不快に歪んだ。 小さく呻きを漏らし、瞼が震える。 そして、ゆっくりと、とても重そうに睫を持ち上げた。 琥珀がその下から徐々に覗き、その表情に、蛮の眼が微かな緊張を帯びた。 novelニモドル >2へ |