□ セカンド・チャンス □
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「出るか」
そう言って、カップに残っていたコーヒーを飲み干し、兄が席をたつ。
「あ、うん」
と、タケルも既に空になって手の中に包むようにして持っていたカップを置くと、兄を追って慌てて立ち上がる。
タケルが追いついてくるのを店の扉の前で待って、ヤマトは包み込むように微笑むと、先にたって歩き出した。

店の外に出ると、もう夕闇が押し寄せていて、タケルは何とはなしに不安な気持ちになった。
夕暮れは、あまり好きじゃない。
暮れていく様が、なんだか淋しくてもの哀しい感じがするのと、点灯し始める車のヘッドライトに時折、足をすくわれそうな軽い眩暈がおそわれるから。

どこか頼りなげに危なっかしい足取りでいたのか、少し前を歩いていた兄が、立ち止まって振り返る。
「わ・・・!」
いきなりだったから、思わずつんのめってその背にぶつかって、タケルは驚いたような顔でヤマトを見上げた。
「あ、悪い」
「び、びっくりした・・。いきなり止まるから」
「あ、いや・・・。ついてきてんのかどうか、不安になっちまって」
「・・黙って、帰ったりしないでしょ?」
特に、こんな状況なんだし。
少し上目使いになる弟に、ヤマトが困ったように笑んだ。
「や、逃げられたりしたら、カッコつかねーしな」
「・・・・今さら、そんなこと」
「しないか?」
「・・・わかんないけど」
「わかんねえのかよ?」
「あ、わかんないっていうのは、そういうのじゃなくて、あの・・」
しどろもどろになるタケルに、それを可愛いと思いつつも、ちょっとイジメたい気にもなる。
せっかく合格祝いをくれるというのだから、それを逆手にとって、いろいろからかってみるのも悪くない。
そうは思うのだが。
少し、気迷いがちなのがどうも・・気になる。
ヤマトはそう思うと、うつむき加減の弟に、景気づけに、めいっぱい明るく言ってみた。
「んじゃ、行くか。ラブホ!」
「うん・・・。えっ?!」
「どーいうのがいい?」
言いながら、タケルの腕を掴むようにして足早になる兄に、タケルがぎょっとしたような顔でヤマトを見上げる。
「ちょ、ちょっと、待っ・・・! どういうのって、に、兄さん・・!」
「二人の時は、おにーちゃんでいいって」
「お、お兄ちゃん!」
「ん?」
「ねえ、ま、待ってよ! ちょっとあの、お兄ちゃんのとこ泊まるって、と、泊まるって、そう言ったじゃない・・!」
「言ったけど?」
「じゃあ、何で、ホ、ホ、ホ、ホテ・・・」
「悪いか?」
「え、だって、ど、どうしてそうなるの?」
「後始末に楽じゃん」
「・・・・へ・・?」
「シーツとか洗うの面倒だし、その点、気兼ねなくデキるもんな!」
「・・・・・・・あ・・・」
兄の言っている言葉の意味を一瞬で理解して、タケルがかあぁぁっと頬を染める。
そういえば、初めての夜の、その次の朝から、ヤマトは何かと忙しかった。
余韻どころではなかった気がする。
申し訳ないと思いつつも、ベッドで、とても動ける状態じゃなかった自分は、ただ恥ずかしくて布団に潜っているしか出来なかったけど。
確かに、兄の言うとおりだ。
それに、痕跡を残すことは、出来うる限り避けなければ。
こんな風にやっと想いを通わせることができたのに、それが全て壊れてしまうようなことにでもなったら・・。
でも、かと言って、そういうトコに行くってことは、いかにもそのためだけって感じで・・。
けど、マンションに行ったところで、することに変わりはないのだったら、いっそそういう所の方が、両親に対する後ろめたさも少しはマシかもしれない。
でも・・・。
でも、やっぱり。
兄の腕に引きずられるようにして歩きながら、タケルは静かに混乱していた。
気持ちの整理はとうについているのに、頭の中が、まだ散らかり放題の部屋のように、何もかもがまだゴチャゴチャしていて考えがまとまらない。
ここのとこ、ずっとこうだ。
以前のように、胸が疼くように痛むことはもうなくなったけれど、こんな風に静かにパニックを起こすことがしばしばある。
それも、決まって、誰かといる時に。
けれど、やっぱりそれは兄といる時ですら、あまり顔に出なかったようで、ヤマトは「コイツ、本気かな?」とちょっと首を捻ったりもしていた。
当然、嫌がるだろうと予測して言ったのだが。
兄は兄で、困惑していたのだ。
からかったつもりだったけど、大人しくついてくるようなら、マジで行っちまっていいものか?
しかし、親父が帰ってきた時にいなかったらヤバイしな。
待てよ、泊まれるくらい、金あったっけ?
あ、別に泊まらなくてもいいわけか。
でも、やっぱり、その後で歩いて帰るってのは、タケルにはキツそうだし。
どうせだったら、泊まってやった方がいいと思うけど。
いや、でも。
よく考えたら、コイツまだ小学生じゃん。
それって、激しくヤバくないか?
中学生の兄が、いたいけな小学生の弟を、ラブホテルに連れ込んでってのは。
いや、場所がラブホじゃなくても、することは一緒だけど。
ヤバイことにも変わりはないけど。
でも何か・・。
よく考えたら、俺、1人で舞い上がってないか・・?
振り返って、うつむき加減になっている弟に、何かいつもと違うものを見て、それを問いつめようとした途端。
人混みに紛れて交差点を横切ったところで、ふいにタケルがピタリと歩を止めた。
「・・・タケル?」
「お・・・お兄ちゃん、僕、は・・・」
いきなり人の流れの中で立ち止まったものだから、後ろから来た人にタケルは肩をぶつけられ、ヤマトに腕を取られたままで少しばかりよろめく。
それでも人の波は途切れなかったので、タケルは俯いたまま、幾度か「じゃまだ」というように通行人にぶつかられた。
ヤマトがそれを咎めるように睨み付け、腕に庇うように弟の身体を引き寄せて、人の流れの外に出て喫茶店の白い壁にタケルを匿う。
「どうした?」
「・・うん」
「大丈夫か?」
「ん・・」
「いきなり止まったら、あぶねーだろ?」
「お兄ちゃん・・」
「ん?」
「ぼ、僕、あの・・」
「なんだよ?」
「あ、あの・・」
赤く染めた頬をして、見下ろして覗き込むようにする兄から視線をそらせて、タケルが言う。
「僕、そういうとこは・・・・。やっぱり・・・」
なんだか、怖いよ・・と言おうとしたが、あまりにもコドモっぽい気もして、唇をちょっと噛んで、さすがにもう一度言葉を選ぶ。
イマドキそんなこと、中学生くらいならオンナのコだって言わない気がする。
それよりも、悶々とそんなことを考えながら歩いていたせいで、少し頭痛がしていた。
もともと人混みを歩くのは、どうも苦手で。
誰かと話しながらだと大丈夫なのだが、何か1人考えコトをしながら歩いている時は、どうも真っ直ぐ歩けていないらしく、右から左から人にぶつかられ、ふらふらしているうちに、乗り物酔いのような状態になってしまう。
特に夕暮れの人混みは、2つ苦手なものが重なるから、タケルにとっては、結構歩いているだけでもつらいものがあるのだ。
「どうした? 顔色悪いぜ?」
「あ。うん。ちょっと人に酔っちゃって・・」
「休んでくか?」
「あ! だから、ホテルとかそういうのは・・!」
「じゃなくて、喫茶店とかで休んでくかって意味なんだけど」
「あ・・・!」
自分のトンデモナイ間違いに気づいて、タケルが耳まで真っ赤になる。
そりゃあ、そんなのぼせた頭でフラフラ歩いていたら、人に酔ってしまうのもいたしかたないだろう。
もっとも、自分が、妙なからかい方をしたせいだけど。
「悪かった・・」
「え? 何・・?」
「からかいが過ぎたよな・・?」
「あ・・・・。もしかして、冗談、だった・・?」
「当たり前だろ?」
いや、半分本気になりかけてたけど。 
ちょっと怯えたような目で見上げられては、そんなことはとても言えないなと思う。
「そ、か。な、なんだ、僕・・」
真っ赤な耳とは対照的に、唇が少し白い。
タケルが具合が悪い時は、そういう小さな変化が身体に出るのに、本人はそれさえも少しも気がつかない。
そればかりか、回りにもそれをまったく感じさせないから、タケルはいつも何があっても平気そうにへらへらしているなんて、口の悪いトモダチに言われたりする。
コドモの頃から、母親にさえ気づかない弟の体調の変化を、いつも一早く気がついたのはヤマトだった。
だから、なおのこと、俺がちゃんと見ていてやらないといけないのに。

ここのとこ、自分は何かと自分のことで手いっぱいで、やっとタケルをもう一度抱きしめられるということにも実はかなり浮き足立っていて、あまり細かい所まで弟を気遣ってやれていなかった。
小5の頃から、こういうところは、基本的にあまり成長していない気がする。
自分のことに手一杯になると、相手のことが見えなくなる。
俺は、駄目だな。いつまでも。
思いながら、そっと手を差し伸べる。

「少し、冷やすか? 頭。・・ついでに、俺も」
「え?」
「海の方まで遠回りして」
「・・・・うん」
頷くタケルの、自分よりも小さめの手を、ヤマトは自分の手の中にそっと握った。





海風は、まだ冷たい。
春は、まだまだ遠い先だ。
前を行く兄の後ろについて、手を繋いだまま、海沿いの砂浜をゆっくりと歩く。
いつもは、さっさと早足な兄も、タケルに合わせてゆっくり歩いてくれている。
そんなことが、とても嬉しい。
兄の背中を見上げて、ずっとこの背中に恋をしてきたんだ・・とタケルは思った。
いつも、ヤマトを想う時、一番最初に思い出すのはこの背だ。
たぶん、あれは、初めてのデジタルワールドの旅のさなか、デビモンの魔の手に自分が捕らわれようとした時。
ガルルモンの背から飛び降りた兄が、まだ幼い背中で懸命に自分を庇ってくれた。
きっと、あの時から。
この想いは始まったのだと思う。
少しずつ、時が経って、少しずつ互いの間も変わっていったけど、その年月の間に想いも一緒に成長してしまった。
それでも自覚はなかったから、トクベツな感情とは思わなかった。
普通に、自分は兄を兄として慕っているのだと思っていたから。
だから去年のクリスマスに、空が、兄を好きだと知ったときも、協力さえしようとしたのだ。
大好きな二人が、二人いっしょに幸せになるのって、なんだか素敵じゃないかとそう思った。
だけど、そのクリスマスの夜は、苦しくて。
胸の痛みに絶えられず、涙を流した。
どうしてこんなに苦しくて、これほどつらいのか、それでもまだ少しもわからなかったけれど。
兄の腕が、何気なく空の肩に回された時、やっとわかった。
痛みと同時に、暗い感情も現れて、それからの毎日は、切なさと痛みと、作り笑いとのたたかいだった。
デジタルワールドのゲートが閉じて戦いに終止符が打たれても、タケルの戦いは日々続いた。

人はどうして、胸の痛みだけで、死ぬことができないんだろう、と。
本気でそう思い、そうできればと願った。
でもそれは、あたりまえのようにかなうことはなかったから、ただ、この痛みが引く時をじっと待つしかないと心に決めて、尚一層、平然と笑いながら毎日を過ごした。

だって仮にも誰かが、既にそのそばにいる人を振り切ってまで自分を選ぶとはどうしたって思えなかったし、そんな価値のある人間とも思えなかったから。
ましてや、奪うとか奪い返すとか、そんなこと、考えにも及ばなかった。

なのに・・・。

ふいに立ち止まった兄を見上げ、タケルが少し歪んだように笑った。
その頬に、ゆっくりと手を差し伸べ、ヤマトの手のひらが青白い頬を包む。
「寒くないか?」
「・・・少し・・」
以前ならこんな時、平気だよと答えていた。
「手も、冷たいな・・」
兄は微笑むと、タケルの両手をとって、冷たい甲にそっと唇をよせ、それからぐい!と自分の方に引き寄せた。
「ほら」
「わ・・」
驚いて、バランスを崩して、兄の胸に飛び込むような形で腕の中に抱き寄せられる。
タケルの手を掴んだまま、兄はその手を自分のコートのポケットにしまいこんだ。
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん・・」
兄の胸からその顔を見上げると、ゆっくりと、やさしいキスが唇に降りてくる。
ふわ・・と軽く唇に触れられるだけの、ひどくやさしい口づけに、タケルは唇がふれあう一瞬だけ目を閉じて、ゆっくりと見開いた。

言葉だけでは足りなくて、想いをうまくカタチにできない時、兄はよく、こんなキスをくれる。
コイビトとしてでもなく、兄としてでもなく、その間の「何か」の。


初めての夜も、はじまりは、こんな風だった。
慈愛のようなキスをされて、やさしい瞳をして兄が言った。
ひとりで苦しめてて、ゴメンな・・。
でも、俺もずっとつらかったよ、と。

何もかもわからなくて、ただ熱く、その熱と呼吸のつらさに溺れていたような夜だった。
それでも、涙がとまらなかったのは、苦しいからでもつらいからでもなかった。
こんな風に、身体と一緒に心を寄せ合う方法があるだなんて知らなかったから、自分の感情の波を制御できなかった。
すべてを出し切った後で、弛緩する身体を全部兄の腕に預けた時は、生まれてから一番幸福だと感じた。
身体の緊張を解くというのは、こんなに開放感のあることなのか。

あれから、「もう一度・・」と、本当の気持ちは自分自身にもそうねだったけれど。
タイミングの悪さと、時間の経過にジャマをされて、またそんな風に自分をさらけ出すことが怖くなってしまった。

それに。
片想いをしていた時は、何一つ、自分の心の中だけで苦しがったりしていればよかったけれど、ひとたび想い合った途端、両親への罪の意識もそこにない交ぜになってしまった。
お母さん、ごめんね。
お父さん、ごめんなさい。
これが、兄弟じゃなかったら、そうではなかったのだろうけど。
複雑怪奇にうねっていく自分の心は、今いったいどうなっているのか。
自分でも、よくわからない。

でもかつて、ただ1人この海に来て、叶えられない片想いが辛くて哀しくて、いっそこんな想い、心ごと、この波間に砕け散ってなくなってしまえと思った頃に比べれば、ずっとおだやかではあると思う。
苦しさもつらさも掬いとってくれる人が出来た分、少し楽に悩めている気がする。


「タケル・・・?」
「ん・・・?」
抱きしめられて、あたためられて、身体の力を抜いてヤマトの身体に溶け込むように身を寄せる。
気持ちがいい。
ここは、幼い時から唯一の安息の場所だった。
誰にも渡したくないと思っていたけれど、それを誰かと争う気はなかった。
というよりも、
誰かにいづれ「そこを退いて」と言われて、仕方なく、明け渡さなければいけない場所だとあきらめていたから。
でも、今は。
やっぱり誰にも渡したくはない。
この数ケ月で、そう思うようになった。
それだけでも、自分にとっては、大層な進歩だ。
そして、そう思わせてくれたのは、他ならぬこの兄なのだ・・。

「俺、おまえを不安にさせてるか・・?」
「ううん・・」
「なら、おまえを怖がらせてるか?」
「・・・うん、少し・・。でも、それはお兄ちゃんのせいじゃない」
嘘も少し上手になったけど、その分本当のことも言えるようになった。
「無理、させてんなら」
「無理じゃないよ」
「俺は、そういうの」
「えっ・・?」
「そういうの、たぶん下手だから」
「・・・どういうの?」
「ヒトをうまく、愛するっていうか」
「・・・そんなの」
「そんなの、って」
「そんなの、僕だって、そうだもん。でも」
「・・でも?」
「お兄ちゃんからは、いっぱいもらってる。もらってるよ、お兄ちゃん」
「・・・タケル」
「僕の方こそ」
「ん?」
「望んでいることが、うまく、言葉に出来ない」
「何を、望んでる・・?」
「何・・かな」
「聞きたい」
「・・たぶん。お兄ちゃんの、もっと」
「もっと?」
「もっと、そばに行きたい・・」
「・・そばにいるだろ?」
「これ以上、もっと、そばにいきたい」
ヤマトの瞳が、沈みきった陽の残骸に、深いブルーの色になって揺れる。
タケルがそれを切なそうに見上げて、少し微笑んだ。
その笑みに、つられるようにしてヤマトも微笑む。
「弱いな、おまえのそういう目・・」
「え・・?」
「今すぐ、ここで押し倒したくなる」
甘く耳元で囁かれ、はっと我に返ってタケルが言う。
「こ・・! ここは嫌だよ、ヒトも来るし・・さ、寒いし、だって、あの・・・・」
しどろもどろになるタケルに、兄はそれを見るなり、思わずくくっと笑いを漏らした。
真っ赤になるタケルが可愛くて可愛くて、何度でも同じからかいにキレイに反応してくれることが楽しくて。
兄は好きだよ・・と囁くと、もう一度、さっきと同じ口づけを、その唇にそっと落とした。

「帰るか・・?」
「うん・・」


空には、星が1つ2つと増え始め、夜の空を彩っていく。
今夜は、長くて、殊更に甘い夜になるかもしれない。






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