◆ 伽羅 【4】 兄の大きな手の平が瞬の汗ばんだ頬にふれ、額にはりついた髪をそっと掻き上げた。 いたわるような声で呼ぶ。 「瞬・・・?」 瞬がその声に、睫毛を伏せたまま小さく頷いた。 「つらかったか・・?」 額をやさしく拭ってもらって、瞬が微笑みを浮かべ、首を横に振る。 何か言おうとするのだけれど、息がまだ弾んだままで、悲鳴を上げて枯れた喉は、言葉を発することさえ苦しそうだった。 それでも兄の顔を見たくて、ゆっくりと重い瞼を開く。 その目尻から、溜まっていた水滴がつう・・・と、こめかみへと流れ落ちた。 それを唇に掬い取って、兄は”乱暴すぎたな”とらしくなく呟くと、瞬の唇に宥めるように口づけた。 「柄でもないか」 「ん・・・?」 “なに・・?”と消え入りそうな声で問いかけて、瞬が両手を兄の頬に差し伸べる。 それを手の中に抱くようにして、自嘲のように兄が言った。 「俺は、たぶん嫉妬しているんだ。おまえの中で、おまえの肉体を共有する別の魂という奴に」 「どうして・・?」 「ん?」 “変な兄さん”と瞬が笑う。 兄は困ったような顔をした。 花の嵐はいつのまにか止み、風景は静寂を取り戻し、時折の微風にはらはらといくつかの花弁が舞い散っているだけだ。 呼吸を整えながら、少し掠れてしまった声で言う。 「だって、僕はもう、すべて、何もかもが、あなたのものなのに」 言って、兄の首に腕を絡めた。 「最初から、そうなのに・・」 そして、一輝の唇にそっと唇を寄せて、幸福げに頬を染めた。 「これは、誰の決めた運命でもない、誰に運命づけられることもなく僕が自分の意志で決めた、何よりも確かなことなのだもの」 「瞬・・」 一輝の手が、瞬の頬を愛おしむように撫でる。 その手に、そっと自分の手を重ねて、だけども少しばかり表情を陰らせて瞬が言った。 何か怖いことを尋ねるかのように、声を潜めて兄に問う。 「だけど、ごめんね・・。そうであるがために。僕は僕の運命だけでなく、あなたまでをも、容赦なく巻き込んでしまう。なのに、それでも・・。 それでもまだ、あなたのものでいたい傲慢な僕を、兄さんは、許してくれますか・・・?」 兄の返答を待って、少し怯えたように身を竦めるようにする瞬に、一輝がごく当然のことのようにやさしく力強く微笑んだ。 指の先を、弄ぶように瞬の髪に絡めながら言う。 「奇遇だな。俺も欲張りで傲慢なんだ。瞬・・。おまえと同じにな」 驚いたように瞳を見開く、自分の身体の下にある弟の顔を見下ろして、誇らしげに一輝が言った。 「真に欲しいと思ったものは、まるごと手に入れねば気が済まん性質だ。もっとも・・・おまえほど欲しいと思ったものは、他に何もないがな」 一輝の言葉に瞬が答える術を失って、喜びに息を詰まらせ涙ぐんだ。 兄の肩に腕を回して、絞り出すように“ありがとう・・”とだけ言って、その身体に強くしがみつく。 一輝が、包むように弟の背中を抱きしめた。 「兄さんは・・・こわくないの・・?」 「ん?」 「僕が・・・僕の力が」 「―ああ、怖いな」 「なのに」 「変わらんよ」 「・・・え?」 「おまえがどんな力を持とうと、どんな神であろうと、俺にとっては同じことだ。おまえがこの世で、一番こわい存在であることに変わりはない」 「兄さん・・」 瞬が身を離して、兄を見る。 一輝がそれに笑むと、瞬もつられてはにかむように微笑んだ。 「ひどいなぁ」 瞬がちょっとむくれて言い、一輝はその表情があまりに子供っぽかったので、思わずくくっと笑いをこぼした。 そして、瞬の隣に横になると、その身体を抱き寄せる。 兄の胸板の上に額を押し当て、瞬が微笑みながら呟くように言った。 「小さな頃、僕は、いつもいつも不安だった。自分がどうしてそんなことを思ってしまうのか、僕自身でさえよくわからなかったけれど。もしも、あなたと兄弟じゃなかったらどうしよう、とか、あなたがある日突然に他の誰かとどこかに行って、もう戻ってきてくれなくなったらどうしよう、とか・・・。ずっとそんな不確かな不安を抱いては眠れなくなって、いつもあなたに泣きついてはなだめられてきた。それはたぶん、自分に自信がなかったから・・。あなたに可愛いがってもらえるほど、僕は良い子じゃなかったし、あなたの足手まといにしかならない自分が情けなくてしようがなくて・・。こんなじゃ、いつか兄さんに見捨てられる、兄さんは僕を見捨てて行ってしまう―って、思ってた。でも、それは・・・。きっと、いつか兄さんが本当の僕を知ってしまう時がくる、そのことへの恐れが無意識に僕をそうさせていたのかもしれないね・・」 瞬の言葉に黙って耳を傾けながら、一輝が瞬の髪を撫でる。 「怖かった・・・。あなたから拒絶されることが、一番。力よりも何よりも・・」 兄の胸から顔を上げて、一輝を見下ろして瞬が言う。 一輝がその頭をポンと手のひらで軽く叩くと、ゆるがない、おだやかな笑みで瞬を見た。 「相も変わらず、気苦労の絶えん奴だ」 こともなげに兄が言う。 「俺が、おまえを離すわけなどないというのに」 瞬が、その言葉に頬を染めて頷く。 「うん・・」 また暖かな微風がそよぎ、さわさわと枝がしなって花弁が秘めやかな舞いをはじめる。 髪に、頬に、花びらをとめたまま、瞬は兄の指に誘われるままに、その唇に、そっと唇を重ねた。 「うん・・。今はもう、何も、怖いものはないよ・・・。一掬いの不安も恐れもないほど。こんな時なのに。僕はそれでも、信じられる。心から、あなたを信じている」 「ああ・・・」 「僕は逃げない。僕を選んだ宿命から。何度もあきらめかけて、死んでしまいたいと思ったこともあったけれど。その度、自分に言い聞かせてた」 もう一度、唇がふれる。 「あきらめることは、あなたを裏切ることだから―」 「瞬・・・」 そして、もう一度・・。 これが、最後。 もう、行かなければ。 いつまでも、こうしてはいられないのだから。 「たとえ、魂を引き裂かれても、僕はあなたのそばを離れない」 兄がゆっくりと、瞬を腕に抱いたまま身を起こした。 「離さん」 誓いのように、一輝が言った。 骨が砕けそうなほど強く、瞬を両の腕に抱きしめる。 「行くか―」 「はい・・・!」 見下ろした兄の瞳の下で、瞬の瞳はおだやかな中に強い光を宿してきらめいていた。 きっと、この弟は何者にも負けることはないだろう。と、兄が確信を抱くほど。 そして、兄弟は額を寄せ合い、そこから放たれる白い光の向こうに闇を見ながら、 今まで抱き合っていた、その荘厳で幻想的な世界に別れを告げた。 戻るのは、肉体だけを残してきた修羅の待つ世界だが、 それでも、互いとともに存在できる、その歓びを抱えながら、 兄弟は逃れてきた暗黒の渦の中へと身を投じた。 兄の暖かな腕に包まれ、めくるめく闇を抜けていきながら、瞬が幸福げに兄の胸に呟いた。 よかった・・・。 あなたの近くに生まれてこれて。 宿命は、最初から定められていたけれど。 こうして、あなたと同じ血を分け合って生まれてこれたことは、 ほとんど奇跡に近い偶然だものね・・・。 ねえ、兄さん。 信じてくれる・・? 今、僕はしあわせなんだよ・・・ 本当に、そうなんだよ・・・ つぶやく瞬の耳に、遠く過去の記憶の中から、幼い兄の声が聞こえてきた。 『お母さん、きてきて! 瞬が俺を見て笑ったよ! ほら、見えてるんだ、この子! すごい! 俺のこと、見えてんだ! 俺、一番のりだね。 瞬、おまえが産まれて最初に見たのは、このお兄ちゃんなんだぞー よーく、覚えておくんだぞー』 “そうか・・・ 僕は生まれて初めて見たものは・・・ ああ、あれは、兄さんの手のひらだったんだ・・・ そうだ、そうだったんだね・・ あたたかくて、大きかった。 とても、あたたかかった――” END 瞬が、一輝を「信じる」という時。そこには0.000・・・1%の疑いも含まれていない気がします。 瞬にとって、一輝は色んな意味で「すべて」なのだなあと。 ただ、「兄」というだけでなく。 しかし、なんだか今読み返すと限りなくハズカシイ出来で・・。 当時の私にはめずらしく情景描写に力を入れたお話で、(いや、今も情景描写は苦手・・)結構必死に書いていたのを思い出します。 さすがに慣れないことはするもんじゃないなあと今となってしみじみ。 かなり読みづらい文章になっている気がします。うう。スミマセン・・! 3< >モドル |