◆ 伽羅

【2】

体温に包まれた深い闇を抜けると、そこは――
真白の、まさに白一色の世界だった。
まばゆい白い陽光の下。
どこまでも限りなく純白の、ただ、ただ、白の情景が広がっていた。
どこが世界の果てなのかも、わからぬほどのまばゆさで。
ふと足下を見ると、大地とおぼしきそこは白い布のように一面が小さくひらひらとゆらめいている。
そっと身を屈め、手を差し伸べて、やっとそれが何であるかを知った。
それは小さな花の花びらが敷きつめられて出来たもので、指先でふれれば花弁が微風に舞い上げられて、白い風景の中へととけていく。
まるで天上と、見まごうほどの清々しさ。
透明な光のさざめきと微かに遠くに聞く小鳥のさえずりの他は、甘やかな風に時折、風塵のように舞い上がる花びらが、はらはらと音なき音をたてるだけ。
至大なまでのおだかやさと、静かさ。
―これが、瞬の心だというのか・・・? そうなのか?
こんな絶望的な宿命を突きつけられた今でさえ、心は渇いた砂地のような虚無ではなく、まだこうも、おだやかしくあるということか・・?
足を踏み出しかけて、ふいに躊躇する。
そこに足を踏み入れることが、弟の心を蹂躙する事のように思われたのだ。
その一輝の目前に、はらはらと薄桃色の花弁が2つ3つ、語りかけるようにして天からこぼれ落ちてきた。
その一つを手の中に掬いとって、一輝が少し驚いたような顔をする。
―桜・・?
口の中でつぶやき、顔を上げた一輝の前に、白い紙に淡い淡い色を落としたように、次第に次第に、その視界が彩りをもっていく。
あわい、やさしい色彩で。
それと同時に桜の樹々が、ぼんやりと、だけども次第に鮮明にその白い情景の中に浮かび上がってくる。
しなやかに伸びる枝垂れには、こぼれ落ちそうなほど見事な桜が美しく花を開いていた。
そのうちの一本の、ことさらに見事に開いた桜の枝の下。
一輝の求める姿は、そこにあった。
素肌の上に白装束のような純白の着物を纏い、きつめの帯をきっちりと締めて。
それがなおのこと、その細い身体を、まるで人の手でも手折れてしまえるほどの細さに見せている。
襟の合わせから覗く肌も、透けるように白い。
だけども、静かに白い世界の果てを見つめる両の瞳は、ただ静かでおだやかで、ひどく安らいでいるかのように見えた。
兄の気配に、その瞳が静かに向きを変え、そして変わらぬおだやかな眼差しのまま、兄を見つめた。
小首を傾げる。
そして、やさしげに微笑んだ。
その笑みの先で、戦士の姿のままの一輝が、その周りだけ奇妙な異空間を作って立ちつくしていた。
「兄さん・・」
やわらかな声が呼び、兄に向かって手が差し伸べられると、ふいに風が起こり、花々がふわっと空に舞い上がり、そこから真っ直ぐに兄のもとへと轍のような道をつくった。
一輝がそこを抜けて瞬のそばまで歩み寄り、その傍らに片方の膝をつく。
そして、そうっと手のひらで瞬の頬にやわらかくふれた。
―あたたかい・・・。
瞬が、猫のように、その手のひらに頬を擦り寄せ微笑んだ。
「ごめんなさい・・」
「・・・ん・・?」
「逃げだしちゃったかと思った?」
僅かに瞳を伏せる兄に、瞬がまた小首を傾けて微笑む。
「心配かけたの・・?」
兄の手が、瞬の両の頬を包み込んだ。
「少しな」
言って目を細め、一輝が弟を見下ろす。
心の中にあった不安も不吉の兆しも忘れ、おだやかに微笑んで言う。
「あまりに、よく眠っていたからな。もしや、もう目覚めぬ気なのではと心配になった」
「それで呼び起こしにきてくれたの? こんな処まで」
「おまえは気の長い性格だからな。小さい頃からそうだ。ほうっておけば、呼びにいくまでいつまでも、飽きずに同じ場所で同じ遊びを繰り返している」
「兄さんは、堪え性のない上に、飽きっぽい性格だものね」
くすっと笑って肩をすくめる瞬に、一輝が目元をほころばせばがら、弟の横に腰を下ろす。
そしてその肩に腕を回すと、華奢な身体を抱き寄せた。
瞬が、されるがままに、そっと兄の身へと体重を預ける。
甘えるようにして頭をもたげた兄の胸には、いつのまにかもう、堅く重い聖衣はなく、まるで白い大気の中に溶けてしまったかのように、兄は黒のシャツとジーンズを身につけているだけだった。
その前にはらはらと、桜の花びらが風に舞い躍らされてこぼれおちてくる。
瞬は一人でいた時と同じように、兄の胸に身を寄せたまま遠く、この世界の彼方を見つめた。
そうして、静かにじっと、動かぬ時の流れの中に二人でいると、すぐそばに身を寄せている互いの脈や心臓の音ばかりがやけに大きくはっきりと聞こえてくる。
兄弟は、そのまま身じろぎさえせずに、目の前に広がる桜ばかりの風景にうっとりと魅入りながら、その存在を確かめ合うかのようにそっと互いの身体を抱き寄せていた。
―ややあって・・。
吐息のようにかすかな声で、瞬が呟いた。
「本当に、逃げ出したかったわけじゃないんだよ・・」
その言葉に、兄がゆっくりと首を巡らし、自分の胸にもたれている瞬を見下ろした。
「自らの宿命から。そして、それが与える真実から。ただ・・」
言いかけて瞳を伏せ、それから兄の顔を見上げる。
「ただ、一人きりになってみて、自分の本当の心の声を聞いてみたかっただけ。静かなところで『僕自身』と見つめ合ってみたかっただけ。誰の思惑も言葉にも、決して惑わされたりしないように」
風が吹き、瞬の髪を舞い上がらせた。
ひどく静かな口調でそう言って、瞬が白い着物の膝の上で少女のような指を組む。
それがほんのわずかに、小さく小さく震えるのを確かに見た一輝は、弟の言葉のすべてが本当ではないことを知った。
「子供が強がって嘘をつくのは、あんまり感心せんぞ・・」
静かに言って、瞬の組んだ指の上に己の手のひらを重ねる。
はっと見上げる瞬の瞳を、兄の少しばかり哀しげな瞳がとらえた。
瞬がそれを見つめ、困ったかのように微笑む。
「・・・・やさしい兄さん。あなたはいつもそうやって、僕のひとかけらの強がりさえ、たやすく見抜いてしまうんだね・・」
”あなたを安心させるための嘘”なのに、それはいつも裏目に出てしまう。
あなたはそれを気に病んで、また一つ心配事を増やしてしまう。
と、瞬の心が哀しげにつぶやいた。
「瞬・・・」
「でも、大丈夫。この一かけらは、今までに比べてほんのささやかなものなのだから。・・・ね、心配しないで。お願い、兄さん」
言ってもう一度、兄の胸にとん・・と、自分の頭を置いた。
その身体をそっと、兄の腕が抱きしめ直す。
やわらかい髪を撫でる手が、少し震えて苦しそうだった。
「いつの頃からだろう・・ もう随分と以前から気づいていたはずなのに。自分の宿命に。自分が誰なのか、何者なのか。その本当のことを、もうずっと前から知っているくせに、気づいてしまっていたくせに、僕は・・。まだ、わざと知らんぷりをしてた。きっと、ただの、あなたの弟というだけの”瞬”でいたかったんだね・・」
誰か別の人のことを話すかのようにそう言って、瞬がくすりと微笑む。
まるで花びらのような、やわらかな笑み。
さざなみのような、おだやかな声音でそっと言う。
「でも、不思議だね・・。どうして今、こんなに静かな気持ちでいられるのか・・。僕はね、兄さん。今までで一番、どんな境遇の時よりもずっと、静かでおだやかな気持ちでいるんだよ。ほんの少しの強がりも嘘も、あなたの見破った通りだけれど、でも、これもやっぱり、僕の本当の気持ちなんです」
そしてゆっくりと兄の前に膝立つと、一輝の肩に白い両の手を差し伸べた。
「だから、大丈夫。心配しないで・・。きっと何も悪いことなんか起こったりしないから・・。ね、兄さん。だからお願い・・。そんなに哀しい顔をしないで―」
言って、やさしく微笑んだ。
「あなたらしくないよ、そんな」
瞬が一輝の腕の中で身をのばし、兄のかたい頬へと唇を寄せる。
「そんな、怯えた瞳をして・・・」
そして、細い両の腕で、一輝の頭をやさしく抱いた。
しなやかな瞬の髪が、さらさらと風にとかれ、兄の肩をかすめながら薄桃色の花霞の中を、光に透けて美しく流れる。
「俺が」
呻くように、瞬の腕の中で兄が言った。
「俺が、代わってやれるものなら・・・」
苦しげな言葉に、瞬の身が小さくわななく。
「俺で身代わりになってやれるものならば・・。おまえばかりをこれ以上、苦しませたりせずに済むものを、な」
「兄さん・・」
そっと瞳を伏せる瞬の背中に腕を回し、一輝がその身体をぎゅっときつく抱きしめる。
瞬は切なそうに身を落とすと、兄の肩口へと甘えかかり頬を寄せた。
”どうして・・? 僕よりずっとつらいのは、いつもあなたの方なのに”
心で呟き、愛おしい兄の身体を抱き締めるように、逞しい背へと白い手をのばす。
―そう、
遠い過去から定められていた、自らの宿命を知ったとき(或いは思い出した時)
そうだ、確かに、ひどくひどくつらかったけれど。
心をひきちぎられるように。
そして、そのあまりの痛みに自らを、身喰いの野獣のように傷口に歯をたて爪をたてて、肉をえぐって血を絞り出し、泣きながら狂ってしまいたかった。
冥王の魂の戻るために選ばれたこの肉体を、永久的に、二度と再生のきかぬほどに傷だらけにして、一陣の風に散る花びらのように、粉々に砕いてしまいたかった。
そうすれば何もかもが救われる。
そんな気がしたから。(もちろん、それは錯覚に過ぎなかったのだけれど)
それに、そうでもしなければ、今の自分はあまりにたくさんの人を恨んで憎んで傷つけてしまうようで、それがとてつもなく怖かったから。
そう。
今までの自分の闘いはいったい何であったのかと。
今度こそは、すべてのことを呪わずにはいられそうもなかったから。
世の中にはこんなにたくさんの人がいて、同じ時の流れを生きているというのに、どうしていつも僕と兄さんなのか・・と。
―どうして、誰も、代わってくれようとはしないの・・?
 もう充分なのに。僕らはもう、充分に苦しんだのに。
だけど、そんな怖い感情すら、優しく抱きしめてしまう想いがあった。
―どうしてだろうね。
僕の中にある、あなたへの想いが、それだけが、そのすべてを浄化させてくれた。
それは、奇跡のように、いともたやすく。
この世に生を受けたことすら、呪いたくなっていたのに。
そして僕は、自分の宿命よりもずっと、つらく哀しいことがあることをようやく思い出したんだよ。
『このことを知った時。あなたはどう思うだろう。どれほど嘆き哀しむだろう』
幼い頃から、あなたにこれほど大切にしてもらってきた僕が、実はただの”人”ではなくて、身体に流れる血はまったく同じものなのに、その魂の半分だけが違う世界のものだなんて。
それでもあなたは、そんな片輪な僕を弟に持ってしまった自分の悲運を嘆くのではなく、きっとそんな風に生まれついてしまった僕を可哀想がって、心を引き裂き泣いてくれるのだろうね・・。
僕よりも、遙かに傷つき、苦しみながらもまだ、僕のために、あなたは泣いてくれるのだ―
身を切るせつなさに、きゅっと唇を噛みしめる瞬の肩に、髪に、なだめるように花びらがその薄桃色を落としていく。
風が吹き、ざあ・・っと枝が鳴いて、桜色の雪嵐が起きた。
一輝はそっと瞬の身体を自分から離させると、その胸元から弟の顔を見上げた。
フ・・と、少しばかり苦い笑みを浮かべて言う。
「おまえになだめられているようでは、俺も大した器ではないな・・」
情けなげにぽつりと言う一輝に、瞬が少し驚いたような顔をして兄を見下ろし、くすっと笑って肩をすくめた。
「まるで、父親が子供になぐさめられているようなものだ」
「失礼なたとえですね、それ」
ちょっとむくれたような表情をつくってみせる瞬に、一輝が手を差し伸べ、手のひらでその頬にふれた。
包み込むような笑みで、瞬を見つめる。
「俺に、何かできることはないか。おまえのために、してやれることはないのか・・・?」
瞬がその言葉に瞳をしばたたかせて兄を見て、それから、やわらかな、幸福げな微笑みを浮かべた。
ゆるく、首を横に振る。
「もう充分・・・」
甘さを含んだ吐息でそう言って、兄の頬に口づけた。
「してほしいことはたくさんあるけれど、欲張りだから、僕は・・・。だけども今は、でも今は、ただ・・・・」
言いながら、一輝の両肩にふわりと手をのばす。
息がかかるほどまで、真近に顔を寄せた。
「僕を見つめていて。見失わないで、今だけ。ううん、今だけじゃなく、ずっと・・・」
「ああ・・」
「たとえば、僕が僕を見失い、忘れてしまったときも」
「ああ、もちろんな・・」
「あなたの力で、僕を思い出させてね」
「ああ、だが、その前に」
兄の手が、瞬の顎を掬い、唇を寄せる。
「忘れさせたりなどせん。忘れることなど、させてやらん」
瞬が微笑んだ。
唇が微かに、あたたかな体温と、やわらかな感触で互いのものと触れ合う。
「忘れられないようにして・・・」
うっとりと、瞬が、一輝の耳に甘く囁いた。





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