◆ 伽羅

【1】

冥王の玉座のある間は、深く重々しい闇に包まれていた。
音もなく、冷え冷えとした静寂の中、肉体を失った魂のようなほの白い光が、尾を引くようにして、瞬の眠る玉座の周りを浮遊していた。
その、押し潰されような重圧と威圧さのさなか、一輝がゆっくりとその玉座に近づいていく。
すると、その白い光は激しく怯え、逃げるかのようにして、瞬く間に闇の奥へと四散し、姿を消した。
無人の玉間には音も気配も何1つなく、まるで一輝が訪れるのを待っていたかのように、そこに張り巡らされた結界が、冥闘士らとの戦いからその空間だけを隔絶していた。
一輝が玉座の横にゆっくりと歩み寄り、眠ったままの弟の白い小さな顔を見下ろす。
そして、見上げたその背面の壁には、視界が届かぬほどの高さの天井から下ろされる黒いカーテンの狭間、巨大な額の肖像画が掲げられていた。
それは――
一輝の目が、驚愕に見開かれる。
冥王の黒き衣を纏った黒い髪の弟が、口元にうっすらと冷笑を浮かべ、闇の中から、かつて地上界では「兄」と呼び慕った男の存在を、ただ静かに見下ろしていた。
確かに。
それは、その姿形は、一輝の愛した、
<その指で愛で、その唇で愛おしみ、その肌と心を合わせ、すべてで愛した>
「弟」そのもののようだったが。
一輝がそれを見上げ、「馬鹿げた茶番だ」と嘲笑を浮かべる。
だからと言って、見まごうはずもない。
似ても似つかぬ冷たい口元の微笑みに、凍てついた氷の瞳。
その男は、一輝の弟のもつ、日だまりのようなあたたかさも安らぎも何一つ、持ち合わせてはいなかった。
やさしい情愛など、破片さえも、そこには見あたりさえしなかったのだから。
一輝は、瞬の身体を玉座から抱き上げると、そっと床の上へと横たわらせた。
なぜかはわからぬけれど、ずっとそこに坐らせておくことは、瞬にとってあまりに辛いことに思われたので。
「瞬・・・」
兄の声が、静寂の間にしめやかに哀しげに響いた。
世界の終わりが来たのかと思うほどの、しんしんと底冷えのする闇が、その呼びかけに冷笑を浮かべ、一輝の上に重く重くのしかかる。
――弟の眠りは、思いの外、深かった。
兄の手が、そっと蒼ざめた頬にふれ、ビクリとする。
死に際の人のような、紙のようなはりつめた冷たさ・・!
「瞬・・!」
一輝の声が、少しばかり荒立った。
その呼びかけに、微かに・・・。
細い糸が翻るほどの、かすかな震撼に辺りの闇が動かされる。
重圧がわずかに退き、静かに降り積もる雪のように、ふわりと温度が一輝の肩へと舞い降りてくる。
彼を守るかのごとく、自然で、それでいて不自然なぬくもりで。
「おまえ・・・?」
兄が乱れ散る弟の髪にそって手をふれさせ、絹の糸のようなそれに指を絡ませる。
哀しいほどの冷たさで、繊細なそれはゆるやかに兄の指に梳かれて流れた。
「知っていたのか・・?」
自らの宿命を・・と、兄が声を詰まらせ、その顔に呟く。
―どうしてこうも・・・
いつも、いつも、おまえばかりがつらいのだ・・。
人一倍のやさしさゆえに、人の分まで悲しみを背負って、だのに、
それでもまだ足りぬと、
「過酷な運命」と言う奴は、容赦なくおまえに眼をつける。
まるで、この世に生を受けた、
それ自体が残酷な罪であるかのように、
その生涯が、
遠き過去の記憶の償いのためにあるかのように。
・・・・どうして、いつもおまえなのだ。
どうしていつも、おまえばかりが悲しまねばならんのだ。
おまえであっていい理由など、何一つないというのに・・!
一輝の心に、言い様のない怒りと憤りと口惜しさがこみ上げてくる。
それでも弟は、こともなげにまた微笑んで言うのだろうか。
”僕でよかった。ほかの誰かじゃなくて。だって、そうでしょう?
 誰かが哀しむのを見ることは、自分が哀しむより、ずっとつらいことだものね・・”と。
身を切られるような切なさに、兄の眼からポトリ・・と、冷たい弟の頬へと水滴が落ちて流れた。
奇妙な温みのある闇の中で、そこだけがぼんやりとした明るみを持ち、横たわる瞬のその姿を余計に儚いもののように見せている。
それは絶え入る人のような存在の希薄さで、息はあまりにもささやかで、時折、兄が心臓を凍り付かせ、指先を思わずその口元へと恐る恐る運んでは、その微かな呼吸にようやく安堵するほどに。
だけども、唇は既に色を失せ、手の平でふれる頬は殊更に彩を無くし、確実に氷晶の如き冷たさとなっていく。
それを懸命に繋ぎ止めておこうとするように、一輝がその華奢な身体を強く腕に抱きしめる。
そして、額にかかる髪をそっと指の先で上げさせると、頭の後ろを手のひらで包むようにして寄せさせ、冷たい額へそっと、己の額を合わせて重ねた。


――こうするより他に手だては知らなかった。
   眠りの深い弟の魂を、その身へ呼び起こす方法は――
幼い頃に覚えた不思議、兄弟だけの秘密ごとの一つ。
額を寄せて合わせ、互いのことをより深く想った時、いつも。
その脳裏にはさざめく宇宙が、互いの想いの向こうに見えたのだ。


合わされた額と額の間で星々が、人の体内の宇宙に散らばり広がっていく。
まるで胎児に戻って行くかのようなめくるめく闇を通り越えて、一輝の意識は深く深く、弟の心を求め、その精神世界へと身を翻した。
その脳裏に、甦って来る忌まわしい記憶があった――



幼き日の自分と、まだ目もろくに見えぬ赤子であった弟と、魔性のような瞳の少女と。
地鳴りするほどの雷と、叩きつける豪雨の下だった。

『さあ、大人しくその子を私にお渡し。その子は私の弟なのだから』
『バカな・・! 瞬は俺の弟だ! 同じ母親から産まれた正真正銘、この一輝の弟だ! おまえなんかの弟じゃない!』
『フフ・・ おまえなどがどう抗おうと無駄なこと、その子はこれから私の弟となるのよ。そのように星の運命に定められ、宿命づけられて、この地上に肉体を授かった。まさに神に選ばれた子供なのだから』
『な、なんだと?』
『我が冥王ハーデスさまとまったく同じ星を持って産まれた子・・。おまえのような、たかだか”人”の子が勝手にできる肉体ではないのだ。さあ、今こそ永き眠りは解かれ、さまよえる魂はようやく肉体をもって再び、この世に生まれ変わるのよ。・・・・感謝をなさい。おまえの弟が私の弟として生まれ継ぎ、この魂と一体となれる幸運を』
『やめろッ! 瞬は渡さない! 神だか王だか知らないが、これは俺の弟だ! おまえらの勝手になどさせるかぁ――っ!!』
『な、なに! なんだ、この気は・・! こ、この子供は一体・・! それにこの凄まじい気の背後に微かに感じられるこの小宇宙は・・・
 ――女神・・・!?』
『瞬は渡さない!! 何があっても、絶対に!! 絶対俺が守ってみせるッ!! 誰にも、誰が来ようと絶対に渡すものか――ッ!!』
『ウワアァ・・・・・・ッ!!』



そうか・・
あの時、パンドラの手から、自らと瞬を救ったのは、
目覚めの発動を起こしたおのれの小宇宙と、
女神の力だったのか・・・
そして、その中に女神の復活を予感したパンドラは、
一時身を退かせ、闇の中から、
じっと息をひそめて、見守っていたのだ。
それ以後の度重なる聖戦の行方を。
来るべき”その時”がくることを・・・!




モドル< >