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あれから、いったいどうなったんだろう・・・。
タケルは・・・。俺は・・。
落ちて行く意識の片隅で、タケルの俺を呼ぶ声を聞いた。
そのまま、頭の中は真っ白になっていき・・・・。

眠っていたかのように時が経過した気がして。
再び、俺はタケルの悲鳴を聞いた。

「いやだああああ!!やめて、いやだああ! お兄ちゃん、お兄ちゃああん! 助けて! お兄ちゃああぁ・・・・・ん!!」

助けに行こうともがき暴れる。
誰かがその腕を押さえつけ、意識がまた落ちて行く。
タケルを助けるんだ。
今度こそ。助けるんだ・・。
俺を呼んでるのに、どうして、どうして、身体は鉛のように重く動かない。
「タケル・・・・!!」
声の出る限り叫んだ。
その声に、頭の上からやさしい女の声がした。
弟さんは、大丈夫だから・・と。





後に、それが幻聴でないことがわかった。
ヤマトとタケルは、太一らにより連絡を受けた父の車で学校から運び出され、丈の父の病院へと担ぎ込まれたのだ。
動揺した光子郎が、救急車を呼ぼうとしたのを慌てて止め、太一が泣きながらヤマトの父に電話をかけた。
その判断は、たぶん、この時点で最良といえた。
ヤマトに半殺しの状態にされたリーダーの男は、仲間たちに引き擦られるようにしてどこかに消えた。
ヤマトはそのまま手術室に運ばれ、麻酔に落ちていく瞬間に、タケルの悲鳴を聞いたのだった。
処置室で身体を開かれ、手当てを受けていたタケルは、正気に戻るなり、身体に触れられるだけで悲痛な叫びを上げた。
タケルの怪我そのものは軽傷だったが、輪姦による裂傷は相当酷かったらしい。
傷口にふれられることで、タケルは2度、同じ恐怖を味わうことになったのだ。
泣き叫ぶ声を、駆けつけた母と父は、どんな思いで聞いたのだろう・・。


気がつくと、ベッドの上にいた。
どれくらい眠っていたのだろう
薄暗がりの病室に、ベッドの脇に疲れきった顔でうなだれている父の姿があった。
「オヤジ・・・・」
掠れた声で呼んだ。
父がはっとなり、顔を上げる。
「ああ・・・。気がついたか・・・」
少し、ほっとしたような顔をした。
「タケルは・・・」
父の顔が、悲しく歪んだ。
「まだ、薬で眠ってるよ・・」
父は、同じ部屋にある、カーテンの向こうのもう一つのベッドを振り返った。
あとで、そこが丈の父親の病院であり、兄弟を気をきかせて同室にしてくれたのだと知った。
「俺はいいから・・・・タケルの方、ついててやってくれよ・・・」
出にくい声をどうにか絞り出していうと、父はつらそうに肩を落とした。
「顔、見てると、つらくてな・・・」
父の言葉に、ヤマトは思わず泣きそうになった。
「母さんは・・?」
「母さんも・・・薬で眠ってる・・・・ちょっと、まいっちまって・・・目がさめたら、一度家につれて帰って、またくるから・・・」
「うん・・・・」
「そろそろ・・・起きる頃・・・だな」
「いいよ、オヤジ・・。母さんの方、行ってくれよ。俺、大丈夫だから」
「ヤマト・・・」
息子2人が、揃いも揃ってこんなことになったんだ。
母親なら誰だって、正気でなんていられるはずがない。
気が狂ってしまうんじゃないかと、母の方が心配になった。
「母さん、看てやってくれよ。こっちは、もう大丈夫だから・・」
もう一度言うと、父はそうだな・・と、のそりと立ち上がった。顔色が悪い。無理もない。
ともかく、母さんをつれて帰って、朝になったらまた来るからと、父は言い訳のように何度も言って、息子の髪をくしゃっと撫でた。
「つらかったな・・・。おまえも・・」
「いや、俺は・・・」
目が合って、互いに表情を歪める。
父は、「すまない・・」と小さく呟くと、何度となく息子を気にして振り返りながら、病室をあとにした。
泣いてしまいそうになったのだろう。
だか、気丈にふるまうヤマトの手前それも出来ず、今頃真っ暗な廊下の向こうに逃れ、泣き崩れているのだろう。
「・・・・・・・ツッ」
麻酔が少しずつ切れてきたのか、痛みが肩からじんじんと伝わってくる。
父は、ヤマトの怪我については何も言わなかったが〈言えるはずもないが)、たぶん、自分はもうギターを弾くことは出来ないだろう。
これだけあちこち傷つけたのだ、たとえ軽くても、少しの麻痺は指先に残るだろう。
それでも構わないと思っていた。
いや、今もそう思っている。
腕一本くらい、くれてやる。
なくなったって、構いはしない。
タケルを失うことに比べれば。
麻酔の残る、ふらつく身体を騙して起き上がり、ゆっくりとベッドを下りた。
足に、力が入らない。自分の足じゃないみたいだ。
カーテンや、ベッドの端につかまりながら、それでもどうにか隣のベッドまで歩いた。
そして、ベッドの脇の椅子に何とか腰かける。
タケルは、深く眠っていた。
頭と顔半分が、白い包帯で覆われている。手も同じようにぐるぐると巻かれていた。
深く切れた唇と、腫れ上がった頬が痛々しい。
血の滲む包帯にそっとふれると、わっと、哀しみが胸を押し上げてきた。
「ごめん・・・な・・・」
小さく呟くなり、涙が溢れた。
「守ってやれなくて・・・・・ごめん・・・な・・?」
髪を撫でる。
あの部屋で、血と体液に汚れていた金の髪・・。
今はきれいに洗われてはいるが、本来の輝きは、もうない。
血の気のない青白い顔は、棺に収められた人形のようだ。
(守ってやりたかった・・・! くやしい・・くやしい・・・タケル・・・・っ!)
顔を両手で覆い、噛み締めても漏れる声をかろうじて押さえる。
指の間から、涙がぽたぽたと床に落ちた。
こんなにされて、おまえ、どんなにつらかっただろう。
怖くて、ふるえて、でも抗うこともできず、悲鳴すら上げられずに。
心の中で、助けを求めていたに違いない、俺に。
お兄ちゃん、たすけて・・・と。
馬鹿だよ、なんで・・。
なんで、のこのこヤツらのとこなんか行ったんだよ・・。
譜面なんて、そんなもん・・・。
おまえが取りに行くことなんか、ねえだろ?
俺に構うなって言ったじゃねえか。?
もう、おまえの相手は飽きたから、俺に近づくなと言っただろう?
いつものように、俺の袖を掴んでくるお前の手を、あんなに冷たく振り払ったのに。
どうして・・・。
割れた唇を、指先でそっとなぞる・・。
―――――っ!!
くやしい、くやしい、くやしい、くやしい!!
どんなに、どんなに、どんなに、どんなに悔やんでみても、時間はもう戻らない。
だけども、くやしくて、くやしくて、くやしくてたまらない。
大切に大切に思っていたからこそ、それこそ、身をちぎるような想いで別れたのに・・・!
「本当は・・・失いたくなんか、なかった・・・。おまえのこと、好きだったんだ・・。ずっと、ずっと好きだった・・・。俺だけのものに・・しておきたかった・・・!!」
タケル・・・!と名を呼ぶなり、堰を切ったように感情が溢れ、どうにもそれは押さえられず、堪え様にも堪えきれず、胸を突き上げ、掻き毟るような痛みが走り、嗚咽が漏れた。
涙があとからあとから溢れ出た。
頭を抱え、自分の髪を両手に掴み取るようにして、苦しげに身を折り曲げる。
「うぅ・・・・うっ・・・う・・・・・・っ」
タケルにかけられた白い布団につっぷして、ヤマトは声を上げて泣いていた。
全身を激しくふるわせて。
「くう・・・・・・あぁ・・・・あ・・・・ぁ・・」
慟哭と呼ぶにふさわしい、苦しく喘ぐような、獣の低い咆哮のような声が静かな病室に響く。
胸の苦しさの余り、呼吸が出来なくて、それがまた苦しくて、ヤマトはうめくようにして泣いた。
嗚咽は堪えても堪えても、噛み締めた奥歯の間から漏れ、もう止められなくなった涙は次々に頬を伝い、その滴がタケルのベッドや床を濡らした。
このまま狂ってしまいたかった。
いっそあのまま、あの男をこの手で殺し、気が狂ってしまえればよかった。
まだ血の匂いも、殺意の気配も、男の肉を突き刺す感触も、この手にこの身にはっきりと残っている。
おぞましい感覚は、たぶん一生消えないだろう。
思い出す度、吐き気と恐怖に悩むだろう。
狂ってしまいたい。
壊れてしまえれば、いっそ楽だ。
幸福ともいえるだろう。
肉体だけで生きるなら、水と栄養剤だけで生きられる。
心がなければ、残りのまだまだ長いであろう人生も、少しはましに生きられるかもしれない。
だけど。
できない。
それはできない。
一人で狂ったりは、できない。
なぜなら。
俺は、守るんだ。
今度こそ。
一生かけて、弟を守るんだ。
そのために、まだ正気でいる。
一人で、もう逃げたりしない。
俺は、タケルを、守るんだ・・・!
「・・泣か・・・ない・・・で・・・・」
声とともに、透き通るほど白い手が伸び、兄の髪をそっと撫でた。
驚いたように、ヤマトがはっと顔を上げる。
眠っていたはずのタケルが、ぼんやりとこちらを見ていた。
半分くらいしか開かない瞳は、まだ虚ろな青だ。
「タケル・・・?」
瞳が微かに合うなり、ヤマトは兄の顔に戻り、慌てて手の甲で頬の涙を拭い取った。
こんな顔見せられない。
泣きたいのは、おまえの方なのに。
ああ、さっきの父も、きっとこんな想いだったのだろう。
「ごめん・・・・ね」
消え入りそうな、か細い声が言う。
「なんで・・・おまえがあやまるんだ・・・? 悪いのは、俺だろ・・?」
震える声で答えた。
タケルが小さく、首を振る。
「また・・・・迷惑かけ・・ちゃった・・・・・にいさん・・」
ごめんね・・ともう一度呟くように言って、タケルは突然、びく・・・と兄に差し伸べた手を引いた。
その手を追うようにして、ヤマトが自分の手の中に、白い小さめの手を握る。
また、ぴく・・っ!と身体が震えた。
誰かにふれられるのが、怖いのだろう。
タケルは、男を受けいれさせられただけでなく、その指で、舌で、唇で、身体中を撫でまわされたのだ。
その痕跡は、しっかりのタケルの身体の上に遺されていた。
指の跡が痣になるほど強く、その肌にふれたのか・・。
考えまいと、頭を振った。
これから幾度、何千、何万、何億回とそうやって、脳裏に浮かぶ陰惨な情景に苦しめられながら、打ち消しながら、生きるのだろう。
それは、きっとタケルも同じことだろう。
陵辱の記憶と、犯される屈辱と、暴力の恐怖に、そして幻覚と幻聴に泣いて喚いてふるえながら。
・・・言葉が出ない。
思い出させるようなことは、言いたくない。
言葉を選んで沈黙していると、ふいにタケルが目の前を手で払うようなしぐさをした。
「どうした・・?」
「うん、蝿がね・・」
「蝿?」
「止まるんだ、僕の身体に・・」
「え・・?」
「腐ってきているんだね・・。腐臭が好きなんだよね・・・? 蝿って」
「・・・・・タケル?」
「・・兄さん?」
「ん?」
「窓・・・・開いてる?」
「いや、締まってるぜ。冷房入ってるから」
「そう・・。じゃあ、なんで、こんなに蝉の声がしているんだろう・・・」
「・・・今、夜だし・・蝉なんて鳴いてない、ぜ・・?」
「そんなことないよ、すごくうるさい・・・。ああ! もう! 本当にうるさいったら!」
言うなり、きつく首を振り出したタケルを、ヤマトは思わず立ち上がって抱きしめた。
そっと抱いているのに、タケルの肌が、一瞬にしてざわっと嫌悪感に鳥肌をたてているのがわかった。
かける言葉を選んでいるうちに、タケルの心がどこか遠くに旅立ってしまいそうで、怖がらせるかもしれないと思いつつも、そうするより仕方がなかった。
ぶるぶると腕の中で震えてはいるけれど、構わず、できるだけそっと、繊細なガラス細工のようなタケルを腕に抱き包む。
寒さに震える雛鳥を、親鳥がその体温であたためるように。
震えながら、けれども、それでもタケルが、白い包帯の手を恐る恐る兄の背にのばす。
「兄さん・・・僕はもう・・・・・だめなんだ・・・・。きっと、助からない・・・。指の先から、腐ってきてる・・・。それにこのカラダも・・。兄さんは・・さわっちゃ・・・いけない・・・・」
「どうして?」
「だって・・・・きたないから」
ヤマトは、タケルに気づかれないように、涙を堪えて唇をかみしめた。
「どこも、きたなくなんかない」
はっきり言って、顔を見た。瞳を覗く。
虚ろな目をして、ヤマトじゃない誰かを見てるような儚げな表情に、タケルの心の一部はもう砕け散ってしまったのだと、そう思った。
けれど、完全に狂うことは、きっとできないんだ。
こんなに弱くて脆いのに、壊れて砕け飛び散ったカケラはもう戻らないのに。
なのに弟は、救いようのない強さもまた持っていて、それがために、たとえ自らがそう望もうとも、静かに完全に狂ってしまうことは許されないのだ。
なんて酷な。そして憐れだ。
哀しくて、身体中が切り裂かれるように痛んだ。
「タケル」
名前を呼ぶ。
愛おしくてたまらない弟の名を、その耳にそっと呼ぶ。愛情をこめて。
帰っておいで。
逃げるんじゃない。
俺は、いるから。
ここにいるから。
「大丈夫だ・・。もう、怖くないから・・。心配ない。大丈夫だ・・・。俺がいるから。ずうっといる。この先、ずっと、おまえのそばにいるから
・・・・。もう、おまえのそばを離れないから・・・」
「に、い、さ、ん・・・?」
電池の切れかけたおもちゃのように、たどたどしく兄を呼んで、もどかしげに瞳が左右に動き回り、盛んに瞬きしながら懸命に焦点を合わそうとする。
「ここだ・・」
言って、手をとり、自分の頬に押し当てた。
「おまえが、好きだよ・・・」
瞬きが、早くなる。
「にい、さ・・」
「ずっとずっと、おまえのことが好きだった。もう、嘘はつかない」
やっと兄の瞳を見つけて、覗き込むように首を傾げる。
「おまえをもう離さないから。ずっと、ずっと、死ぬまでおまえの傍にいるよ・・・」
瞬きをやめた。
瞳に澄んだ青さが一瞬戻り、やっと兄を見つけて、見つめて、見開く。
「愛しているよ」
偽りのない瞳で見つめ返して囁いて、ヤマトはひとつ、タケルのひび割れた唇にキスをした。
「愛しているよ。ずっと、ずっと好きだった」
タケルの瞳に、大粒の涙が溜まった。
真珠のように丸くて、きれいな。
それはボロリと瞳をこぼれ、静かに微笑むヤマトの手に落ちた。
やっと瞳を合わせて見つめ合い、タケルはその胸に抱き寄せられながら、静かに泣いた。
声もなく、ただ涙の雫だけがとめどなくその頬を伝う。
ずっとずっと我慢して、つらくて。
でも、やっとここに帰ってこれたのだと、涙に濡れる頬を額を、胸に寄せるようにして兄に甘えた。
「ねえ・・・?」
「ん?」
「昔みたいに、呼んでいい? おにいちゃん・・って」
「ああ、いいよ・・・」
兄は夢の中のようにやさしく笑って、そっと髪を撫でてくれた。






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