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10月18日(火) 午後

 区役所裏のスーパーで馬から降りて鞄の中にしまっていると、拓海を見つけた若奥様が小走りで寄ってきた。
「あらあら、ちゃんと制服姿ねー」
「あい、できてました」
 病院から新津学園に向かう途中、がっこう指定の服屋で引き取って、そのまま着込んで乗り込んだ次第。編入試験が昨日の今日だが、オーナー社長が校長や七海の後輩にあたるので、ある程度の融通はしてくれるらしい。
 少し苦手なのだが。
「ところで、私ちょっと気になって仕事が手につかないことがあるんだけど」
「仕事はしてください、世のため人のために」
「予のため私のためなら働くのはやぶさかじゃないんだけど、それどころじゃなくてね」
 どう云ったものかしら、とけっこう困っている様子だ。珍しいことに。
「さっきまで、お馬さんに乗ってなかった?」
 不審そうな表情でまぶたを押さえると、沙織は困ったように拓海から目を逸らす。そりゃま確かに、馬が鞄の中に入るはずもないのだが、区役所の窓から見たときには、馬に乗っていたように見えた。
「……気のせいかしらね」
「お疲れなんですよ、きっと」
「そうねー、しばらくお仕事休もうかしら」
「仕事はしてください」
 真顔で諌められるが、せっかくスーパーまで来たのだからと買い物はしていくことで押し切られた。仕方ないですねと不満そうな拓海に買い物カゴを持たせ、沙織はご機嫌そうに歩きだす。
「夜、何食べたい?」
「沙織さんの手料理なら喜んで食べますよ」
「むぅー」
 可愛い。不満そうに膨れるが、年齢を感じさせない若々しさだ。
「拓海」
「あい?」
 いつの間にかくん付けが外れている。幼い頃からずっと続いていた呼び方の変化に少しだけ戸惑うが、母なる大地の眷族は海の子の唇に指先を当てた。
「義母さん、でしょ」
「……えーっと、いいんですかね」
 本気でまぶたを押さえてしまう。そりゃ、慧……と本人に手をつけてはしまったが。
「ええ」
 沙織は沙織で、真剣な表情になっていた。
「こずえちゃんたちへの責任感は判るけど、それを理由に慧ちゃんないがしろにするのは許さないわよ。この4年、あの子はあの子なりに努力と精進を重ねてきたんだから、ちゃんと受け止めなさい」
「……慧が、綺麗になったのは判りますよ」
「ええ、拓海のためにね」
 だが、と拓海は少しだけ目を閉じる。拓海に責任を負わせたのは親たちだ。あの一件がなければ、時期と途中経過はさておき、拓海はそのまま慧と結ばれていた。それなのに、慧だけと向きあっていればよかった拓海の人生に分岐点を設けて、他の女へも意識を向けさせたのは誰だったのか。
 正直、いまさらという怒りもある。あの件について、拓海は泣き言も恨み言も何ひとつ口にしなかった。小さな双肩に背負いこんでこずえ姉妹とも向きあい、その怒号とか弱い暴力を受け止めてきたのは何のためか。
 ……いつか、責任そのもので親たちを責めるためだ。こずえ姉妹は仕方ない。百歩どころか一兆光年譲歩して耐える。だが、もしきずなまで押しつけようというなら、あの件の責任を追及してでも拓海は反攻する。
「慧とのことを認めてもらえるなら、こんなに嬉しいことはないですね」
 本当に幸せそうに拓海は笑った。本心からの笑顔だと義母には判る。慧への深い愛情をしっかり感じていた。
「ええ。拓海と慧ちゃんが結ばれれば、わたしの人生の命題のひとつが解消するわ。七海の子と私の子が結ばれる、こんなに嬉しいことは他にないもの。……見たか偏屈」
 秋田に向かって毒を吐く沙織だ。まだスイと揉めてンのかと苦笑しつつ、ニンジンの袋をカゴに入れる。
「ニンジン、好きだったかしら」
「好き嫌いはもうないですよ」
 入れる。入れる。入れる。……30本。
「あぁ、ご心配なく。コレは自分で出しますから」
「拓海、正直に云いなさい。馬が鞄の中にいるわね?」
「あっはは、やだなぁ。入るワケないじゃないですか」
「じゃぁこのニンジンどうするの!?」
 不審そうな沙織を余所に、ニンジンと生肉を買い込んだ拓海だ。香久山さんちに歩きつつ、尋ねる。
「というか、いいんですかね」
「何が?」
「……慧のことが好きなのに、他の女に責任を云々と云っても」
 あの件に関して、いちばんキレていたのがこずえ姉で、その次が慧だ。ただし、こずえ姉は拓海の責任を追及して、慧は拓海に背負わせたことをお怒りで。
 慧が怒るのは当然としても、保護者たちの心もちを聞いておきたい。拓海の苦悶を慮れない義母は笑った。
「娘を幸せにしてくれるなら、母としてはそれ以上を求めないわよ」
 ときどき思ったものだ。どうして自分は七海から産まれたのだろうか、と。父親がはっきりしない半面、母親はごまかしようがないこともあって、七海だと確定している。どうして、沙織が母じゃなかったのかと拓海は神の無常を嘆いたことが少なくない。
 だが、それでよかったのだ。慧と結ばれるためには、沙織から産まれるワケにはいかなかった。
「あー……義母さん」
 はじめて口に出せば、義の字が伝わってきて沙織は嬉しそう。
「何かしら」
「……いちおう、お見せしてこうかと」
 香久山さんちの玄関先。中に入る前に、庭を指差す。
「僕の、子供を」
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