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10月18日(火) 昼休み

 病院から寄り道を挟んで新津学園に到着する。
 また校長に連れられて校内に入ると、昨日はテスト最終日なので早上がりだったが、きょうから平常で午後も授業がある。昼休みだったためやや衆目を集めていた。
「学食も購買もあるンだが、何なら外に出て喰ってきてもいいから、割と騒がしいんだよ」
「そーいう問題じゃないと思うンだけどなぁ」
 例のロシア人騒動の責任をとるかたちで女子校になってから十数年。男子の制服は使われていなかったが、拓海のためにしばらくぶりに新調された。グレーのパンツに紺のブレザー。リボンタイの色は学年で異なり、拓海はそれに併せてブルーのネクタイ。編み紐のブーツまでしっかり着こなしている。
 遠間から女子が、拓海を見てぼそぼそ話しこんでいた。
「あれが、例の?」
「じゃない? 校長が連れてるんだし」
「ぅわー……割とカッコいいし」
 小声の会話が聞こえてくるが、その内容に拓海はまぶたを押さえる。
「僕がここに通うのはもう周知済みか?」
「公表してあるぞ。お前、まさか当日になって『きょうから男が来るぞー』で済ませるつもりだったのか?」
 そっちのがまずいだろう、確かに。立夏があーいう表情だったのは知っていたから……か。
「むぅ……珍しく、校長の判断が正しかったような」
「はっはっは、父を敬え」
「校長、ちょっと失礼」
 ん、と視線を向けると、めがねにおさげに竹刀に「風紀」と書いてある腕章という、どっからどー見ても風紀委員な女子がそこにいた。全校生徒の顔と名前が一致しているいい加減校長が、
「お前が入る1Bの、風紀委員の寿双葉」
「ご紹介ありがとうございます。確認したいことがあるんだけど」
 拓海に、めがねの奥のきつい眼を向けてくる。
「2日前に新潟駅で、新発田民と魔族を退治したというのはキミでいいの?」
 お前、そんなことしてたのかという校長からの視線に、拓海は少しまぶたを押さえる。
「いかにも」
「そう」
 きつい眼を少しだけやわらげた。
「私の兄が鉄道警察にいてね。あの戦闘で負傷したんだけど、キミがいなかったら死んでいたから。兄に代わって礼を云うわ、ありがとう」
 そっち側か。拓海はこっそりしていた警戒を消して微笑む。
「どういたしまして。ジョローチとして、当然のことをしただけだから」
「当然のこと、ね……なるほど」
 苦笑していた。お硬い雰囲気にしか見えないが、そうでもないのかもしれない。表情を改めて校長に一礼する。
「お時間を取らせました」
「いや、いいさ。だが息子よ、その辺り私は聞いてないぞ」
「このがっこうに新発田民がいないという保証がなかったので」
 双葉は真顔になり、校長は軽く舌打ちした。生き残った勝者の家族からすれば拓海は恩人だが、死んだ負け犬の遺族にしてみれば拓海は仇だ。そして、新発田から通っていることを隠している者は、多くはないがいないわけではない。
 昔から、その辺りの心配りはできる男だった。勝っておいて、負け犬の逆恨みが自分はともかく慧やきずなには向かないよう気を遣うことのできる。一瞬返事を躊躇ったのは、そういうことだったか。
 七海。父はまぶたを押さえて遠い海の恋人に呼びかける。僕たちの息子は、正しい方向に育ってくれているぞ。
「まぁ、そういう次第でね。申し訳ないが」
「他言無用ね。了解」
 真顔を崩さずに双葉はうなずく。潔癖なる風紀委員の形相に戻っていた。
「では」
 背筋を伸ばして改めて一礼し、離れていく。控えめに、遠間で見ていた女子たちが近づいた。
「寿さん、アレが?」
「確認したわ、例の男子」
「へぇ〜……」
 多少お堅いが、信頼できるタイプだ。あの件が積極的に広まることはないだろう。
 校長室に入ると、ほんわかした感じのお姉さんが待っていた。制服を着せたら生徒と見分けがつかないだろうが、着られている感のあるスーツ姿なので、教員か職員だろう。
「おぅ、待たせて済まん。息子を連れてきたよ」
「だから、息子じゃないっての。天牢です」
「1B担任の地魁です、よろしくお願いしますね」
 見ため通りのほんわかした声だった。これでジョローチだったら……と考えるのはやめておく。このがっこうにはこずえ妹や春香みたいな実例があるので。
 書類の提出は済んでいたので、地魁先生と話すことは多くなかった。ただ、今まで女子校だったのに男が入ってくることへの影響は、特に懸念している。
「社会に出てから『あ、男がいるー』じゃダメですから、それまでにも慣れておく必要はあると、わたしも思います。ただ、そのモデルケースとして選ばれたのがうちのクラスだったのが、ちょっと……」
「男がいないという環境のが、社会一般からはむしろイレギュラーですからね。準備期間が長引いた、くらいのとらえ方をしてもらえると、当事者としては助かります」
「準備期間への準備期間、とかは無理ですよね」
「前日になって云われてもねェ」
「ですね……」
 若い顔いっぱいに困惑を浮かべていた。何と云うか、いぢめたくなるというか、いぢりたくなるというか。
 人好きのする微笑みを拓海は見せた。強大な肉食獣が獲物を喰らうときに見せる、強者の笑み。
「はっきりしたところをお伺いしたいンですが、男が来ることに反対だということでいいですか?」
「え、いや、その……」
「イエスかノーでお答えください。返答次第では、こちらとしても態度を改めないといけませんので」
 困っている表情を崩さずに、地魁先生は、自分の栗色の髪を編み始めた。
「……担任としては不安です。でも、反対するつもりはありません」
「不安、ですか」
「わたしでつとまるのか、ですね」
 そっと笑う。
「こんな大事を押しつけたひとに、恨みごとのひとつも云いたいところですけど、わたしに課せられた職務であるからには、成し遂げたいと思います」
 ほんわかした笑顔の奥にある強い芯に、突き立てた牙が音もなく折れるのを拓海は感じていた。さっきから困っている割にこの担任は、拓海から視線を逸らさない。一瞬たりともそこで聞いている校長の顔色をうかがおうとしない。
 日本の教育現場から絶滅しかけている、自分で考え正しい判断を下し責任のとれる、極めて希有な人材。そんな教員を、かつてこの国では、教師と呼んでいた。
 まぶたを押さえ、軽く頭を振る。その仕草、信士にそっくり……と七海は笑ったものだ。
「天牢さん?」
「……拓海でいいです」
 してやったり、と校長が笑った。
「よろしくお願いします、地魁先生」
 演技ではなく、心から頭を下げる。言葉を交わしただけでかなわないと自覚したのはクロエ以来だった。
「……はいっ」
 ほんわかした笑顔を見せてくれた。
 どっかで見た顔だな、と思ったタイミングでドアがノックされる。
「はい、どーぞー」
 校長が答えるより早く拓海が応じた。声もかなり似ている父子なので、ドア越しで信士と拓海の声を聞き分けられるのは七海と慧くらいだった。沙織はもちろん傷無やその姉たちでも5回に3回くらい間違う。
 それだけに、ノックした紫も、何の疑いもなくドアを開けた。
「失礼します」
 聞き覚えのある声に、拓海の視線が地魁先生からドアに戻る。
 170を超える拓海より少しだけ高い身長。大人びた風貌と物腰から、初見で実年齢を見抜かれることはまずない。頭に巻いていたバンダナをほどいて、紫は一礼した。
「皇紫、お召しによりまかりこしました」
 一年生と云われるとだいたい驚く。それを知っている地魁先生はきょとん顔を期待して拓海に視線を戻すが、こうして見ると信士そっくりな息子は愕然とした表情でソファから腰を浮かせていた。コトの次第を知っている信士が父の顔で、まぶたを押さえて溜め息混じり。
「息子。気持ちは判るが、さすがにその態度は失礼だぞ」
「……あ、ああ」
 まぶたを押さえて軽く頭を振り、拓海はソファから立ち上がる。紫を見上げて……うん、僕より背が高い。
「失礼、友人に似ていたもので」
「あぁ、そういうこと。いちおう、はじめましてと云うわね」
 拓海の記憶に間違いがなければ(そして、ない)声まで同じだった。名も、顔も。冬春の友人の孫、皇紫。剣聖紫明から紫の一字を拝領し、拓海の遊び相手となるのを期待された少女だったが、古き聖戦で祖父とともに死んでいる。生きていれば同い年だったのだが……生きていたのならこう育っただろう、みたいな姿だった。
「拓海くん、だったわね。紫でいいわ」
 差し出された右手を軽く握ると、両手でしっかり握られた。露骨に年上にしか見えない笑顔だが、1年生ってことは同い年だよなぁ……と思う。
「ちなみに、留年とかはしてないわよ」
「……失礼しました」
 素直に謝っておく。
 頭にバンダナを巻き直しながら地魁先生の隣に座った紫の、対面に座り直すと、校長も隣に座ってきた。
「……ん? 寮長ですか?」
 1年生で、と不審そうな表情になったのが判ったらしい。
「全校単位じゃなくて、大きめの家を借り上げて、クラスごとに住んでもらってるンだ。1学年4クラスで12寮。今年は1Aからが第一寮で、お前の入る第二寮は金牛寮と呼ばれてる」
「おうし座ですか」
 星座そのものはどうかと思うが、順番としては正しいンだろう。
 拓海の側からの要求についてちょっと紛糾したので、時間がかかって面談は終了。寮生活での注意事項は割と多いのだが、紫は地魁先生より若い分柔軟で(……いや、本当に若いのか判らんけど)、拓海を受け入れるのに反発していない。実際の生活面で、寮生に双葉がいるのも計算していると考えていいだろう。
 校長室を出て玄関に歩いていると、廊下の窓からグラウンドが見えた。
「おっ……拓海くん、あれ見て」
 グラウンドでは、ダンビラを手にした女子が斬りあいの真っ最中だった。
 白刃が火花を上げてぶつかりあい、閃光が眼を灼いた。強く振るわれた一方の刃がもうひとりの刀を手首もろとも刎ね飛ばし、斬られた方が手首を押さえて距離を取る。斬った側はそれを上回るスピードで迫り、そのまま斬り伏せた。
「ほぅ……」
 ついつい見入ってしまった。黄色い甲冑に身を包んだ、黒髪の凛とした姿。実力差は明らかで、斬り伏せられて放出された相手に、手を差し伸べて立たせている。
「休み時間に、機獣を開放してるンですか?」
「教員の許可と監視は必須だがな」
「買えば高級車くらいのお値段だものね」
 機獣とも称される、Fランク(最下級)の機神だった。ランクEから上の機神をヒトの手で作ることはできない(何しろ、いちおう神だ)が、機神工学の世界的権威、ウラディヴォストーク極東大学のF・フースキー教授が製造に成功した、黄色いけもの。性能こそ普通の機神にはるかに劣るものの、戦闘能力の強化と不死性は備えていた。
 機神に乗っていれば、ひとは死なない。
 正確には、機神に乗っている状態でダメージを受けても、機神ごとに設定された耐久力の範囲でなら、ジョローチにはダメージが通らない。その耐久力を超えた時点で機神は活動を停止し、ジョローチは強制的に放出されるが、機神が受けたダメージはジョローチに残らない。再起動までの時間はこれまた機神ごとに異なるものの、もう一度起動させれば先に受けたダメージは完全にクリアされている。
 つまり、機神に乗っていれば、戦場で死んでも(最低一度は)生き返ることができる。これこそが、神がモンゴルに世界を制覇せよと命じられた根拠だった。
 教育現場でまっとうな機神を手配するのは、金額的に無理であると同時に実用性から不合理だった。そのため、たいていのがっこうでは機獣も購入せずにリースかレンタルで済ませているが、新津学園では県内最多、日本国内でも有数の、8機の機獣を擁している。……もっとも、清水学園は機獣20機以上を擁し、機神も備えているが。
 黒髪をなびかせた彼女は、黄色い手綱を教員に返し昇降口に歩きだした。ダンビラは私物のようで、そのまま持ち帰ってくる。教員と相手が悔しそうにしているが、よく見れば彼女は青のリボンタイ、相手は赤のリボンタイだった。
「赤は……」
「3年生。相手の子が、うちのクラスの猫尾さん」
「ふむ」
 拓海は、まぶたを押さえた。
 穏やかな昼下がりの空気に強靭な闘気があふれ、音もなく広がっていく。猫尾さんは右手にダンビラを握って弾かれたように振り向くが、3年生と教員はなーんにも反応がない。
「なるほど。あちらの先輩では手も足も出ないワケだ」
「遊ぶなよ」
「え……?」
 地魁先生はきょとんとしているが、廊下や職員室の中からこっちを見ている視線がいくつか。その辺はそっくり無視して、拓海は眼の前の窓を開ける。
 凛とした黒い瞳が、拓海の姿を見据えた。猫尾さんからあふれた一分の邪念もない澄んだ闘気は、拓海だけに向けられている。まだ何かやっている3年生と教員は一片たりとも気づいていないが、こっちで間近にいる地魁先生は、今度はさすがに気づいた。拓海が開いた窓ガラスがかなり激しく揺れているのだから、まぁ気づくだろうが。
 開けていなければ割れていたほどの闘気をまっすぐ受け止め、拓海はゆっくりと笑みを浮かべる。
「こら、猫ぉ! なにやってんの!」
 が、職員室から出てきた三山先生が怒鳴りつけると、猫尾さんの闘気がすぐに引いた。通りすがりで校長に一礼した三山先生は、逃げるにゃんこに先回りすべく走っていった。
「来た甲斐があったな、これは」
「お前、どんどんやることがアイツに似てきて……」
 まぶたを押さえて溜め息つく校長だった。七海、僕たちの息子はちょいと育ち方間違えたよ……
 玄関までついてきた校長は、苦笑混じりで、
「戯れに聞くが、息子よ。アレとお前、どっちが強い?」
「息子じゃない。それに、ランクに興味はない」
「では聞き方を変えよう、勝てるか?」
 軽くまぶたを押さえ、三山先生に怒られている猫尾さんを横目で見る。
「……さて、ね」
 猫尾さんもこっちを見ていた。三山先生がその視線に気づいて、ややきつい眼が困ったように細くなる。
 気にしないでと手を振り、拓海は玄関を出た。またねーと紫が手を振り、猫尾さんと双葉がそれぞれの場所から見送ってくれていた。

 どっちが強い?

 それは、よく聞かれる言葉。だが、拓海は一度たりとも真面目に考えたことのない疑問だった。
 ジョローチが機神に乗り戦う場は、戦場だけではない。
 国家・民族間の紛争を解決する戦争の代替手段として、ジョローチ同士の決闘でもめごとを解決するのは、全世界的に珍しくない。それが退化して、ただジョローチが決闘し、どちらが強いのか決めるのも珍しいことではない。
 が、下手に機神で殺しあっては、ジョローチ本人は死なないにしても周囲に被害がでかねない。ために、全世界のジョローチはIJF(国際ジョローチ連盟)に登録され、国ごとの下位組織に所属する。
 たとえば日本のジョローチは、IJFからユーラシア東海岸ブロックの統括を任されているFEJF(極東ジョローチ連盟)の、さらに下位組織になるJAJF(日本ジョローチ連盟)に所属する。そして、個人での戦闘を行う際は、事前に属するジョローチ連盟に連絡することになっている。
 どこの誰がどんな機神を使い、どれだけの戦績をあげているか、IJFでは管理している。そんなモンを管理していれば「……ところで、誰がいちばん強いンだ?」という疑問が出るのは無理からぬオハナシだった。そこで数十年前、当時のIJFランキング上位108名を集めて、本人を除く107人とサシで戦闘を行い、その成績で世界最強を決める、極闘大武会が開催された。
 優勝したのは、無国籍にして裏世界で名を馳せていた暗殺者"黒き疾風"。4年後に行われた第2回大会(冬春は父の葬儀のため不参加)で優勝したのは、15になったばかりの、インドのハルディー・カリュンという少年だった。このため、原則としてジョローチの個人戦闘は非公開となっている。
 最強という言葉に代名詞ではなく固有名詞が与えられたのは、第9回の極闘大武会だった。ハルディーの息子"剣星"ハムサドゥワニ・M・カリュンが、人類史上初となる107戦107勝106KOの全勝優勝を果たしたのだ。全勝同士で迎えた剣聖紫明との最終戦こそ惜しくも判定勝ちだったが、破壊神シヴァを駆り黒きフィランギを振るう剣星の輝きは全てのジョローチの憧れとなった。
 そして、翌年死んだ。古き聖戦と称される魔族との戦争で、堕天ルシファーを地獄の底の底に封じ、そのまま死んだ。
 生きながらにして伝説となったジョローチは本当の伝説となり、剣星の高みを多くのジョローチが追い続けている。3年後の第10回極闘大武会でイタリアのモーセ・ビアンキが、ハンを上回る107勝107KOの完全優勝を果たしても、その名声は剣星の足元にも及んでいない。
 だが、星に手は届かないと知っているジョローチもまた存在していた。拓海のように、誰が強いとか誰より強いとかに興味のないジョローチもいる。イタリアジョローチ連盟に所属はしていても、対人戦績には興味を示さず(戦績そのものはある)ひたすら魔族との戦闘に従事しているジョローチも、いる。
 IJFとしては、エリスを鎮圧した英雄を野放しにはしておけないのだ。まして、モーセ・ビアンキが日本人の元カレからは七海と呼ばれていることを考えれば、なおさら拓海を放っておくわけにはいかなかった。拓海の身柄がIJF直轄なのは、実際のところ現在の大ハーンの肝煎りだったりする。
 なお、剣星には真砂という妻がおり、フィーナという娘がいる。とかくこの世は住みにくい。

 一度校門を出た拓海は、そのまま外壁伝いに歩いて新津グロリアス教会に向かった。
 新津学園ができたのは103年前で、その前からあった新津グロリアス教会の隣に最初の校舎は建てられた。校舎は103年で何度か増改築されたものの、聖堂は、内装こそ3度リフォームしたが、外装はそのまま使われ続けている。
 がっこう付属の建築物ではなく個別の建物だったため、敷地内の建物としてはいちばん古く、新潟県下でも有数の規模の教会と知られていた。日曜日にがっこうは門を閉じているが、聖堂は一般公開され礼拝が行われる。
 がっこうの敷地内にある施設なので外に出る必要もない気はするが、またシェリルに会っては気まずいので、ひと目を避けて聖堂に向かう。この教会を運営しているのが紫明の母の父の再婚相手の孫という、拓海から見てどういう関係になるのかいまひとつ判りにくい相手なのだが、紫明を兄と呼んでいたため拓海は叔母と扱っている。
 昨日挨拶していく予定がシェリルの(正確にはエリスの)せいで台無しになったため、日を改めた次第。イタリアから私物はこちらに届けてもらっておいたので無碍にもできない。
 とはいえ、正面から入るのは控えて裏手にまわると、木陰にゴスロリに身を包んだ小学生くらいの女の子と、巫女装束に身を包んだ黒髪の美少女がいた。ゴスロリが許容されるべきかはさておき、何で巫女さんが教会に?
「……?」
 荒れ狂う日本海の怒涛のような殺気に、巫女さんは拓海を見た。
 ……今、僕は何をしようとした? ポケットの中に本気で伸びた両手から、短剣と手綱を手放して一礼する。拓海の中の危機感知センサーが警戒どころか先制攻撃を促すが、仮にもがっこうの敷地内で暴れるのは校長に面目が立たない。殺しなさいとエリスが叫ぶのに耳を貸さずに、
「こちらのシスターの甥にあたる、天牢拓海という者だけど、叔母はいるかな」
「えーっと、いないわね」
「あらら、そりゃ残念」
 じゃぁ逃げるか、と思うのだが、
「妹くん、姉さん呼んできて。例のひとが来たって」
「あいっ、ちょっと待っててくださいね」
 子供らしくお返事したゴスロリ幼女が勝手口から聖堂に入った。
 警戒を顔に出さないよう苦心しているのを知っている巫女さんは、穏やかな表情をしている。
「慧さんの恋人よね?」
 突然口にした姉の名に、拓海はまぶたを押さえ、うなずく。
「うん。知りあい?」
「ええ、ジュニアハイの同窓」
 地元の中学には通わなかった慧だ。凍りそうに冷たい汗が伝う背中に感覚が戻ってきた。ということは……そっち側。
「わたしは、恵庭間。青華神社でお世話になってるの」
「青華の?」
 4年前まで住んでいて手放した実家、というか、紫明の家の向かいにある神社だ。昨日(実家はスルーして)四季書店からの帰りに立ち寄ったが、この巫女さんには会わなかった。4年前までにも会った記憶はない。
「そうなんだ……最近かな?」
「4年前ね。誰かさんがいなくなったから、子供たちの遊び相手がほしいって」
「あぁ、子煩悩な三郎氏らしいな」
 軽く笑えばつられたように微笑んだ。
 恵庭、ねェ。つい先日、東京で知りあったロリ巫女を思い出すが、妹くんがようやくお姉さんを連れてきた。例によって叔母の外見は実年齢より若いのだが、それより年上に見えるシスターだ。
「悪いわね、待たせて。いま暗城さんが来てたから」
 ……なかなかいい根性だ。あの叔母の同僚か下かは知らないが、平気な顔で拓海の内心を抉る。
「で、聞いたわよね? シスター、おられないの。ちょっとお仕事で夜まで戻られない予定で」
「あの叔母が、マトモにお仕事ですか?」
「そこで驚かれると、正直ワタシと主が困るわ」
 困ったようにかたちのいい眉を下げた。なるほど、例年通り周りに迷惑かけまくっているらしい。
「明日から、このがっこうに通うんでしょう? 日を改めてもらえるかしら」
「そうしましょうか。突然お騒がせしてすみませんでした」
「いえいえ。荷物は預かってるけど、傷むようなものないわよね?」
「ですね、基本は衣類ですから」
 明日から寮に入るので、そのとき運び出す予定。知っているシスターは胸元のロザリオを手にすると魔力を込めた。掌サイズだった十字架が身の丈ほどに大きくなる。
「名乗るのが遅れたわね。ワタシは孤月グロリア、シスターに教えを享ける者よ」
 ……あの叔母は相変わらずらしい。有無をいわさず周囲に難題を押しつける。何が悲しくてこんなところで"三界"と遭遇しなきゃならんのか。まぶたを押さえるが、思い出した。
「姉?」
 巫女さんとゴスロリ幼女に視線を向ければ、本人ではなくグロリアが応えた。
「ワタシにとっては、この子たちも他の子たちも妹よ」
 穏やかな慈愛の表情で妹くんの頭をなでる。……そういうこと、らしい。
 グロリアはうなずいて、少し真剣な表情になる。神を背にことばを紡ぐときのように、荘厳に。
「先に云うと、ワタシたちはアナタの父親について聞いているわ」
「……たち?」
 このシスターはともかく……と思いながらゴスロリ幼女に視線を向ければ、スカートの裾をつまんで一礼した。
「星宿の主様にはご機嫌麗しく。鎮究めぐみと申します」
 何を、云っている?
「香久山慧」
 十字架の先が勝手口に向く。そこに誰がいるのか、グロリアは先に云っていた。青い目を剥いた拓海に、
「このがっこうにアナタが来ると発覚してから、彼女は本当に嬉しそうだったわ。だけど、アナタがこのがっこうにいるせいで、悲しむ者がいるかもしれない。泣く者がいるかもしれない。さて、それでもここにいるつもり?」
「……面倒事を避けるために、シルクロードの果てまで来たンだけどなぁ」
 事情は口にできない。海面のように穏やかならぬ今の精神状態では、シェリルのうしろにも誰かいるかが感知できなかった。シェリルになら聞かれてもかまわないが、他の誰かに聞かせるわけにはいかない。手首から下げている、亡くした"父"の認識票を無意識に握りしめていたが、やがて溜め息吐いて肩をすくめてみせた。
「あの叔母が、またロクでもないことに僕を巻き込もうとしているなら、せめてお手柔らかに願いたいですね」
「アナタも知っているように、アナタの父と伯父が恐れた女よ。そのふたりが生きていたならそもそも起こりえなかった今回の騒動、鎮められるか努力してみることね」
「……あのふたりと比べられるとは、僕も出世したな」
 半ば以上本気でぼやいて、まぶたを押さえる。グロリアは初めて笑顔を見せた。
「ま、困ったらワタシを頼りなさいね。ワタシたちはアナタの味方だから」
 信じていいものやら。本気でまぶたを押さえて、拓海は軽く手を振った。
 ……地獄なら何度でも超えてきた。だが、何かに慧を巻き込もうというなら考え方と態度を改めなければならない。慧は守る。慧を守り、自分も生き残らなければ、いままで戦い続けた意味がない。こずえ姉妹やシェリルを泣かせることになるのなら、それは本気で悔んでから諦めるべきだろう。優先順位は揺らがない。まず、慧だ。
 畳の上で死ねるほど、拓海は恵まれていない。
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