前へ
戻る

10月17日(月) 午前

 自覚はなかったが、ずいぶん疲れていたらしい。目が覚めたのは8時を回ってからだった。
「大変だったわよー。慧ちゃんも綾ちゃんもこずえちゃんたちも、拓海くんが起きるまで行かないって云い張って」
「マリ姉には苦労かけっぱなしだなぁ……。みんな同じがっこうでしたっけ」
「そうね、紫乃ちゃんや赤音ちゃんも」
 朝食の席。娘たちを送りだした沙織は、テーブルの向かいで拓海がトーストをかじるのを眺めている。
「で、拓海くんも同じがっこうになる、と」
「なれるといいですけどねェ」
 慧たちが通っているがっこうは、新津区役所からちょっと離れたところにある。駅で云えば新津駅より古津駅のが近い辺りで、正式名称は「モンゴル帝国指定ジョローチ養成校北日本分校」だが、教育上の配慮から日本国内では新津学園と呼ばれていた。
 日本国内のモンゴル帝国指定ジョローチ養成校は十四校(ただし、規模に差はあるが、機神による実習は指定校でなくても必修科目)。このうち新津学園は、県内最高、国内でも屈指のジョローチ養成校として知られていた。
 しかし近年は、東京の清水学園(正式名称は「モンゴル帝国指定ジョローチ養成校西東京分校」)に水をあけられている。というのも、新津学園は女子校、清水学園は共学だったので、育つジョローチの質はともかく、参加できる学生ジョローチ競技会が少ないのだ。さらに、タイミング悪く昨今の少子化から新潟県が高校レベルでの学区制を廃止し、県内のどこに住んでいても県内のどの高校にも志願できるようにしたため、新津学園への志願者が減ってしまう。
 困ってしまった新津学園は、ついに共学化を決断する。もちろん、即座に男子生徒を女子と同レベルの規模に募集・確保するわけにはいかないので、とりあえず、拓海を入れてみてがっこう全体の反応を確かめ、問題がないようなら徐々に増やしていく……という計画だった。
 生野菜のサラダを平らげて牛乳のコップを干し、拓海は手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま。がっこうには、何時に行けばいいの?」
「10時までには」
 時計に目を向けると、すでに9時を回っている。
「洗い物はやっておくから、遅れないようにね。あと、傘持っていきなさい」
「お願いしますね」
 窓の外では、小雨が降り続いていた。

 借りた傘を手に少し歩くと、雨足が激しくなってきた。
 新津学園までの登り道をゆっくり歩いていたが、少し急いだ方がいいかな……と思い直す。石油の掘れる山はもう少し向こうだが、新津学園も小高い丘の上にあるので、あまり悠長にはできないようだ。
 もっとも、機神に騎乗すればすぐにでも行きつけるのだが。
 歩くスピードを少し上げるものの、拓海がむしろ奇特なようで、その辺りにいた通行人はとっとと自宅に逃げ込むかコンビニ辺りに避難している。この雨の中を好き好んで歩くのはまれだろう。
「………………」
 目立つ美人がいた。
 慧とはややタイプが違うが、目を引く度合いで云えば昨日の黒髪の美人に引けを取らないだろう。シャッターの開いていない酒屋さんの軒下で、やや肩身を狭くして、涙をこらえていた。
 傘がないから……では、なさそうだ。
 軽く溜め息を吐いてまぶたを押さえる。拓海の接近に気づいた彼女は、潤んだ目を拓海に向けた。
「おせっかいな男は、好きかな」
「……好きじゃないな」
「だったら、せめて涙を見せないようにするべきだ。つけこまれるよ」
 ハンカチを差し出す。受け取った彼女だったが、涙をぬぐうことはしないで、両手でハンカチを握って震えていた。
 彼女の正面に立った拓海は、傘を低くして、彼女の姿を隠す。
 雨の音。
 それしか聞こえないふりをして、拓海は、そのまま待った。
「……ごめん」
 やがて顔を上げた彼女に、拓海はやや不機嫌そうな視線を向ける。
「謝られることをされた覚えはないね。こういうときは……」
「……うん、そうだね。ありがとう」
「よろしい」
 視線を少しだけ柔らかくして、拓海は苦笑する。つられて彼女も硬い笑みを見せた。
「借り物だから渡せないンだ。傘がないなら、どこへでも送るけど」
「じゃぁ、山の上のがっこうまでお願いできるかな」
 彼女を上から下まで眺める。
 紺をベースにした新津学園の制服はパンツルックだった。『スカートで戦闘するバカがいるか』というごもっともな意見はさておいて、雪国ならではの理由もある。冬場がとことん寒いので、健康面にも配慮しているのだ。それでなくても新潟の女子学生はスカート丈が短いという統計があり、最初からズボンにしておくのが対策として手っ取り早い。
 茶色の髪を脇下まで伸ばしている、彼女。
「おーらい」
 行こうか、と差し出した手にハンカチが乗せられた。
「……いや、そうじゃなくて」
「え?」

 雨は小降りになってきたが、女連れではそうも急げない。
 山道を登りきった頃には、当然ではあったが、すでに校門が閉じられていた。
 通用門も横にはあるが、守衛さんがいる。彼女は拓海に一礼して、守衛さんに走り寄った。胡散臭そうな眼で拓海を見ている守衛さんは、彼女が生徒手帳を見せると、連絡が来ていたのかすぐに校門を開ける。
 戻ってきた。
「あの、ありがとう」
「どういたしまして。大したことじゃないから、お礼とかは考えなくていいよ」
「でも……」
 それじゃ気が済まない、という表情だ。拓海は苦笑して、
「じゃぁ、ひとつ」
「何でも云って」
「約束してくれ。今度会ったときは、泣いてないで笑顔を見せてくれること。おーらい?」
 少しだけ吹いた彼女は、笑顔を浮かべる。
「おーらい。でも、泣いてたことは誰にも云わないでくれる?」
「そりゃもちろん」
 当然だ。
「じゃぁ、縁があったらまた」
「気をつけてな。テストがんばって」
「うんっ」
 軽く手を振り、彼女は小走りで校門を抜けた。小雨に茶髪を濡らしながら、校舎に走っていく。
 それを見届けた拓海は、門を閉じている守衛さんに近づいた。
「アポはとってあるので、校長に連絡してくれるか。天牢拓海が来た、と」
「てんろう?」
「天牢だ」
 胡散臭そうな表情を崩さない守衛さんは、ポケットから携帯を抜きだした。どこかと話していたが、すぐに背筋を伸ばして、携帯に向かって頭を下げている。で、大わらわになりながら門を開け始めた。
「通っていいのか?」
「待て、いや、お待ちください! いま、校長が来られますので!」
 来るのかよ、と少し肩をすくめる。携帯をしまった守衛さんは、門の中のプレハブからタオルを出してきた。
「こちらをお使いください! あと、狭いですが……」
「不要だ」
 校舎から走ってきた、校長の出海原信士に向かって手を振る。
 七海と同い年なのだが、七海や沙織同様なんか不自然なまでに若々しいおっさんは、濡れるのも気にせず満面の笑顔で、拓海に駆け寄ってきた。
「久しぶりだなぁ、息子!」
「息子じゃねェって」
 守衛さんがまだ持っていたタオルを奪って校長の頭に乗せながら、やや呆れ気味にいつもの台詞を返す。まだ拓海より背が高い校長は、ちょっとだけほっとした表情を浮かべた。
「遅くなるならそう云ってくれれば、迎えに行ったというのに。どうしてお前も七海も時間を守れないんだ」
「沙織さんが離してくれなくてね」
「どんどん言動がアイツに似てくるな。まぁいい、校長室までおいで」
「応接室かどっかで充分なんだけど」
「気にするなって、どうせいずれはお前が座る椅子なんだから」
「だから、息子じゃねェってば」
 守衛さんにタオルを投げて、歩き出した校長の後を追う。

 校長室に入ると、ご機嫌そうに校長自らコーヒーの準備を始めたが、職員室側のドアから軽くノックが聞こえた。
「誰だ、親子のコミュニケーションを妨げようという減給志願者は!?」
「気にせず入ってください」
 いいのかなぁという表情で顔を出した教頭が、拓海を横目で見て校長を手招きする。が、ムダに若々しいおっさんは拓海にしがみついた。
「ええぃ、私に用があるならここで話せ! コイツに話せん用事を私に聞かせようとするンじゃない!」
「いい加減にしないかね、本当に! はい、連れていって!」
 出海原信士は20年ほど前まで、幼馴染の七海と恋仲だった。ところが別の女を孕ませてしまい、責任をとる形で七海とは別れ、彼女と入籍。ただし、七海とはそのまま友人づきあいを続けていた。
 七海も数年して紫明と結婚し、拓海と弟を生んでいるが、信士の側には男の子が生まれなかった。娘なら4人いるのに男の子がいないので、拓海を我が子とばかりに可愛がっているという、沙織と同じ状態。
 紫明どころか七海も亡きいま(死んじゃないが)信士の暴走を止められるのは沙織だけで、その沙織も似たようなことをしているモンだから、誰もコイツを止めようとしないのが実情だった。
 単純に云ってしまえば、残りの7割。とかくこの世は住みにくい。
「息子よ、お前はどっちの味方だ!? 返答次第では、そこの無法者は無期限の停職処分だぞ!」
「職権濫用してないで仕事してくれ、頼むから!」
「うむ、息子に頼まれては嫌とは云えんな。それが父親のつとめだしー」
「だから、息子じゃねェってのに……」
「とりあえずコレやっとけ」
 聞いちゃいない校長は拓海に何枚かプリントを押しつけて出ていった。苦労していそうな教頭が溜め息混じりで一礼してドアを閉じる。限りない同情の念を向けたいところではあったが、拓海より苦労しているのは世界中探しても真理佳くらい(七海はどう考えても苦労していない)なので、その辺の感情は押し殺した。
 どっかで見たプリントだと思ったら、ゆうべ慧が持っていた、現国のテスト問題だった。それと、数学と世界史を含む7科目。
 持参した鞄の中から筆記用具を出して、素直に解いていく。4年ほど日本を離れていたので日本語は割と不安だったが、頭の中に慧の解答が入っていたために、文章問題でもなければ大丈夫だろう。他の科目はまぁ解ける。
 7科目を1時間足らずで解き終えても、まだ校長は戻らなかった。とりあえずコーヒーを淹れているとノックもなくドアが開いて、不機嫌そうなおっさん(童顔)がぶちぶち云いながら入ってくる。
「ったく、寿の野郎……こんなに手間取らせおって」
「お疲れさん」
「いつも済まないねェ。こんなとき、死んだおっかさんがいてくれたらねェ」
「ひとの母親、勝手に殺すなよ」
 相手がコイツか沙織でなければ殴り倒している発言だった。爽やかに笑いながら校長がソファに座ったので、その前にもコーヒーを置く。
「すまんな。……あれ、もう終わったのか?」
 拓海が解いておいたプリントを校長は手に取った。普段、息子にはぜったい見せない(……態度としてどうなんだ、それ)校長の顔で、とりあえず一枚めを眺めていたが、左手が胸ポケットを探っていて、だが見つからない様子。
 拓海の差し出した赤ペンを受け取り、採点を始めた。拓海はコーヒーをひと口すすったが、甘みがちっと足りないので砂糖を探しに行く。
「一年生の試験監督に駆り出されてな。これと同じものをやっていたンだが、さっき終わったところだ」
 角砂糖を見つけて戻ってくると、現国の採点が終わっていた。
「90点」
「日本語から離れていたのが長かったようだな。少し、表現に問題のある記述でマイナス」
 どちらかと云えば理系の拓海(もっと云えば体育会系だが)なので、その先の科目に不安はない。世界史93点、数学97点、物理94点、英語100点、情報95点、神学97点。
 赤ペンを置いた校長は、プリントをまとめるとコーヒーをすすった。
「よし、合格」
「なにが?」
 持参した東京土産を出すと、校長は嬉しそうに包装を破いた。サブレをひとつ口に入れて、コーヒーも干す。
「お前の編入試験」
 コレそうなんだといま気づいた。いくら校長の息子でも、試験もナシに編入させるワケにはいかないだろう。
「ちょうどテスト中だったから、1年生が受けてるテストと同じのを解いてもらったんだよ。学年でもかなりのラインだぞ、この点数は。時間もかかってないンだから、学力での問題はない」
「先にそう云ってくれればよかったのに」
 国語だけとはいえ、問題と答えを見ていたのはちょっとまずかっただろう。新しいコーヒーを淹れてくると、校長は嬉しそうにプリントを眺めている。
「いやー、ちゃんと勉強もしてたンだな。きずななんて赤点近いのが何科目かあるのに。これも親がいいからかな」
「違うってのに……きずなもこのがっこうに?」
「おうよ。慧ちゃんにお前を独り占めされてたまるかい」
 出海原信士の末娘、きずな。拓海や慧とは同い年で、必然的にふたりとの関係も深い。慧との仲にはやや微妙なものがあるが、しっかり者の妹というところだった。……まぁ、慧にこずえ姉妹に綾に赤音に紫乃までいるなら、きずながいなかったらむしろおかしいだろう。
「そろそろホームルームも終わってるか。アイツもお前に会いたがってたからなぁ……どれ、1Bは」
 デスクの内線で連絡している間に、拓海は編入に関する書類にサインしていく。保護者や身元保証人が出海原信士となっているのを沙織辺りに書き換えるべきか悩んでいると、ドアがノックされた。
「親子のコミュニケーションを妨げて、馬に蹴られるのが怖くないなら入ってこい!」
「相手も確認しないでケンカ売ろうとするンじゃない!」
「……あ、ほんにおにーさんやね」
 そーっとドアが開いて、父譲りの赤毛をポニーテールにした出海原きずなが入ってきた。後ろ手でドアを閉じ、嬉しそうに拓海にひっついてくる。
「えへへー。お久しさんやえ、おにーさん」
「だから、お前ら父娘はどーして俺を息子扱いするのか」
「帰ってきたのは聞いたったけど、ちゃんと会うのと会わんのとでは感慨が違うなぁ」
 姉たちより信士に似ているきずなだが、ヒトの話を聞かないのも父譲りだった。ご機嫌そうに笑って拓海の隣に座る。さりげなくテスト用紙を持っていった父は、まぁ喰えとサブレを差し出した。
「で、慧ちゃんたちは帰ったのか?」
「うん。はよ帰っておにーさんと遊ぶーて」
「うまくだまされてくれたか」
 こずえたちはともかく赤音辺りは、不自然にきずなが姿を消したら警戒しそうなモンだが、その辺りを口にせず拓海は妹の赤毛をつまむ。
「しかし、元気そうで何よりだよ。慧としか連絡しなかったからね」
「薄情なおにーさんやからねー。姉とはべったりさんで妹はほったらさんやえ、扱いおかしと違う?」
「悪かったよ……」
 別れの日の慧の涙を思い出すと、いまでも胸が痛む。慧を泣かせて、みんなを悲しませて、のうのうと帰ってよかったのか、帰る資格があったのか。それは、今でも拓海の胸を締めつける。
『帰りたくはないけれど、帰る場所は他にない。故郷ってのはそんなモンさ』
 五歳で父に母を殺されその場で父を殺した、剣聖・紫明の言葉が胸を横切る。どうにも言動が若い、というより幼い父だったが、考え方は悲しいまでに老成していた。
 きずなが、拓海の頭をなでかえす。
「よしよし」
「やめい」
 手を払う。どうにも身内には態度の悪い兄だった。
「女の子には優しくしないとダメですわよ、拓海」
「僕は、コイツと慧には優しくしなくていいンですよーだ」
 赤毛のポニーテールの先をつまんできずなの鼻先をくすぐる。赤音は呆れたように溜め息ついた。
「って、赤音さん!?」
 アホ兄妹から「何でいるの!?」みたいな視線を向けられ、赤音はめがねの奥の青い瞳を拓海に向ける。
「あかねさん、じゃないですわよー?」
「あぶぶぶぶっ!?」
 拓海と、ついでにきずなのほっぺをつまんでひねりあげた。拓海同様白人の血が入っているため、同い年でもやや大人びていて、幼馴染連中のセーブ役というかツッコミ役だった。その辺の性格と性質は変わっていないらしい。
「帰ってきたなら慧だけじゃなくて、わたくしにも連絡するべきじゃなくて? ねぇ?」
「ふぁい、その通りでありまふ! 痛い痛い!」
「わたしは離して〜!」
 まったく、困った連中だった。不機嫌そうな表情を崩さないままアホ兄妹のほっぺを離し、きずなが慧たちについていかなかったのを不自然に思いこっそりついてきてこっそり校長室に忍び込んだ赤音は角砂糖をかじる。
「テスト中なので気を遣えと、沙織さんから厳命が下っていました……」
「まぁ、普通の親ならそう云うでしょうね」
 普通じゃない親はコーヒーを淹れなおして持ってきた。不機嫌そうにそれを受け取った青い瞳が、テーブルの上に置いたままの書類に向いた。
「あぁ、寮に入るのね」
「ぅえ? ……うん、慧のおうちにご厄介になり続けるのもまずいから」
 ばたーんっ!(←ドアを蹴り開けた音)
「そんなことないよ、拓海!」
「こずえさんは!?」
 廊下で蹴り倒されて、妹に介抱されている。
 きずなはともかく赤音がいなくなったのを不審に思って沙織に連絡し、いないのを聞いて戻ってきた慧は、きずなも蹴りのけて赤音の反対側にひっついてきた。潤んだ瞳で切々と、
「拓海、母さんや姉さんたちのことは気にしなくていいンだよ? すぐにでも入籍しちゃえば……」
『そんなの認められるワケないでしょ!』(×4)
 こずえ姉まで復活して叫んだ。この姉はホントに手がかかる。
「姉さんはそれでよくても、兄さんが嫌がってるよ」
 家族(拓海含む)の前では地が出るきずなだが、この人数ではネコでもかぶらないといけない。八重歯をかみつきそうに光らせていきり立った。
「そもそも結婚はまだ早いよ……。もー少し落ちついて、よく考えてから」
「そうね、相手は他にもいるンだから」
 こずえ姉妹が控えめに訴えるが、姉にしてみれば妹のこの態度はやや気に入らないところだった。慧ほどではさすがに困るが、きずなくらいには積極的になってほしい。
「だいたい、まだ結婚できる年齢ではないでしょうが」
 赤音がいちばん肝心なところをツッコむが、慧は勝ち誇ったような笑顔で前髪をかき上げる。
「知ってる? ロシアだと、男女ともに16歳で結婚できるんだよ」
「慧ちゃん、さすがに学生結婚はやめてくれ」
 コーヒーを量産しながら校長がぼやいた。
 十数年前に、妊娠した女生徒がロシア国籍を取得したため、ロシア政府から「我が国の留学生に堕胎を迫るとは何事か!」と外務省を通じて抗議が入り、すったもんだの末に当時の校長含む教職員と文科・外務の両大臣にそれぞれの省の官僚などなど合計百人以上が更迭・処分された、という笑えない事件が発生しているのだ。共学だった新津学園が女子校になった直接の原因だが、校長の息子が在学中に結婚しでかしたら、明らかな問題に発展する。
 息子じゃねェってば、といつもの台詞でぼやきながら、拓海は慧の頭をなでる。頼むから落ちつけ。
「拓海なら、母さんたちだって文句はないのに……」
「僕が気を遣うからね。親御さんが一緒じゃ何かと不便で」
「じゃぁ兄さん、わたしの家は?」
「嫌だよ!」
 迷いなど寸毫も交えずにきずなを怒鳴りつけた。妹が泣きそうな顔をしたので甘あま兄ちゃん大慌て。
「いや、きずなじゃなくてきずなのお父さんが嫌でね!?」
「本人眼の前にして何を口走ってやがる、息子よ。照れ隠しならもう少しマシな口実を口にしろ」
「本心だよ……」
「とりあえず、書類書けたならよこせ。慧ちゃんたちも、手続きあるから廊下で待ってな」
 唐突に校長モードに入った。不満そうな一同だったがさすがに邪魔はできず、廊下に出て、だがドアは閉じずに5人で正座して待つ。こずえ姉だけは「何でわたしまで……?」と悩んでいて、何やってるんでしょうという表情でクラスメイトの暗城さん(イタリア系ハーフ)が、隣接する職員室に入った。
 書類のチェックをしながら、校長は父の顔で、
「だが、本当にうちならかまわんぞ? 七海の子は僕の子だ」
「だからー……気持ちはありがたいけど、どうにもね」
 繰り返そうとは思わなかった。拓海の性格はしっかり把握している。うるさく繰り返しても逆効果なのは、七海との長い長い日々で嫌というほどわきまえていた。
「ま、追い出されたらうちに来い」
 慧には聞こえないように、根回しだけで済ませる。
 校長印をもらったので、あとは事務室に書類を提出するだけ。その辺りは校長がしてくれるとのことなので、拓海は鞄を手に校長室を出た。お待たせーと声をかけると、赤音とこずえ姉は不機嫌に、残る3人は嬉しそうに立ち上がる。
「じゃぁ、帰ろうか」
「いや、今度は区役所で引っ越しの手続きをね」
「あー……それはそれでしないとかぁ」
「つきあうよ。どうせ、うちから近いンだし」
 ご機嫌に、慧は拓海の腕をとる。こらこら……といさめるものの、拓海もまんざらではない表情だった。残る腕を誰が組むかできずなとこずえ妹が控えめに視線を交わし、こずえ姉と赤音が呆れたように一歩を退く。
 職員室から暗城さんが出てきた。
「J!?」
 拓海の全身が震えあがり、姉と妹が息を呑む。
 それが拓海をさす名詞だと知らないこずえ姉妹をかき分け、暗城さんは歓喜の涙さえ浮かべて拓海にすがりついた。
「あぁ……よかった、無事だったんですね! いえ、Jが死ぬはずはないって判ってましたけど……」
 聞こえた校長が白い手綱を抜きだすが、赤音の視線を受けて引き下がった。どれだけいい加減に見える父親でも、娘の前で教え子は殺せない。
「……ちょっと、待った」
 前髪をかき上げようとする左手を必死にこらえ、拓海は暗城さんの手を優しく外す。
「えーっと……悪いが、人違いだ」
「え……?」
 何を云っているのか判らないと、暗城さんはまっすぐに拓海を見上げた。澄んだエメラルドの瞳に古傷を抉られ、あふれそうになる血を必死にこらえながら、拓海は嘘をつく。
「その、なんだ、二英? とかいう奴では、ない、ぞ?」
「え……そんな、でも、だって……」
「暗城さん」
 慧が割って入った。暗城さんの手を振り払い、拓海から遠ざける。状況は判らないが放置はできないとこずえ姉と、赤音も慧の左右に立った。
「誰かと間違えてるみたいだけど、これ、わたしの拓海だから」
「慧、たち」
「うん、わたしたちの拓海だから。JだかKだか知らないけど、そういうひとじゃ……ないから」
 澄んだ瞳が拓海を見上げる。
「……ぅの……?」
 声になっていないうめき。眼を逸らすべきか、それとも逸らしてはいけないのか、判断できなくて眼を閉じた。だがそれは一瞬のことで、すぐに眼を開いた拓海は、慧の頭を軽くなでる。
「まぁ……そういう次第でな」
 必死に、平然とした表情と口調をつくる。
「済まないが、暗城シェリルという知りあいはいない」
 このアホ。怒鳴りつけたい衝動を表に出さずに校長がまぶたを押さえたが、本人は名乗っていないことにすら気づけなかった。唇をかみしめて涙をこらえ、震える手はこぶしを固めている。
「……ごめんなさい」
 ややあって、見ている方が泣きたくなるような表情で、顔を上げた。
「ごめんなさい……人違いだったみたいです」
「いや、気にしないでくれ。我ながら、どこにでもいるような男だから」
「そんなこと、ないですよ」
 違う涙をこらえながら一礼し、暗城さんはゆっくり歩き出した。その背中が立ち尽くす一同から離れ、廊下を曲がった直後、高い足音が耳を打つ。
「拓海、いたい」
 頭を握られたまま、慧が前髪をかき上げる。知らない間に手に力がこもっていたらしい。
「あぁ……すまん」
 慧の頭から手を離し、そのまままぶたを押さえる。青ざめた表情で軽く頭を振って、平然の表情を取り繕った。悪いことをしたとは思うが……拓海個人でどうにかできるレベルのオハナシではない。
「……あー、娘ども。ちょっと来い」
 出直してきた校長の声に、娘たちは視線を向ける。こちらも、校長ではなく父の顔になっていた。
「どうしたの、父さん?」
「校内では父と呼ぶな、娘よ。それはさておき、息子はこれから大事な用事があるから、あまり邪魔をしないように」
「邪魔をしているつもりは、ないですよ」
 慧は前髪をかき上げる。その前髪を下ろしてやりながら、拓海は笑った。
「じゃぁ、僕は役所に行くので」
「おぅ、気をつけろよ」
 こずえ姉妹ときずなは視線を交わすが、赤音は首を振った。やや急ぎ足で歩いていく拓海を見送り、慧がそのまま動かない。これでは追いたいのに追えなくて、露骨に困りはしたものの、だが誰も何も云わなかった。
 慧が追わないなら、追えない。前の綾なら追っただろうが、この4人では慧の上前をはねる真似はできなかった。

 校舎の外まで出てみたものの、暗城さんの姿は見えない。追いついてどうするとは自分でも思うものの、追いかけてどうするとは思わなかった。軽く舌打ちしてまぶたを押さえる。
 空はまだ雨雲に覆われていたが、すでに雨足はおさまっていた。校門まで歩くと守衛さんが血相変えて最敬礼してくる。聞くべきかとも思ったものの、むしろ前方を歩いている他の生徒に聞いた方がいいだろう。軽く返礼して通り過ぎ、下り坂を歩いている3人連れに
「………………」
 いた。
 校門のかげで、雨雲を見上げながら立ち尽くしている。立ち止まっていいのかそのまま通り過ぎるべきなのか判断がつかず、割と困った。それに、忘れかけていたが雨降りで、アスファルトの地面が濡れている。
「……っと?」
「え?」
 気づいていなかった暗城さんの前で転んだ。手をついて顔はかばったものの、膝に痛みが走る。
「ったぁ〜……」
「あっ、大丈夫ですか?」
 慌てて暗城さんが駆け寄ってきた。あぁ大丈夫、と強がる拓海の手をとり、右手で軽く十字を切る。
「Amen…」
 魔法。
 正確には聖術と呼ばれる、神による癒しの業。機神と並ぶ、上天がモンゴルに与え給うたふたつのひとつ。信心深い者が祈れば、怪我や病気などをあっさり治していただけるのだ。もちろん、異教徒や無神論者に奇蹟は及ばないが、シェリルもあれから進歩しているようで、拓海の手と膝から痛みが引いていく。
「ん……ありがとう」
 軽く、シェリルの手を握る。
「どういたしまして」
 眼を細くして満面の笑顔を見せてくれたが、即座にふたりとも知らない同士だという設定を思い出した。慌てて手を離し眼を逸らしあう。シェリルは両手をしっかり固め、拓海はまぶたを押さえた。
「……あー、暗城さんだったか」
「は、はい」
 顔を上げたシェリルの胸元を、軽く固めたこぶしで打つ。
「ありがとう、助かった」
 謝らなかった。
 謝られるようなことはしていないしされていない。それが判っていても、シェリルは涙をこらえていた。
「いえ……いいんです」
 シェリルは眼をそむけると、そのまま走りだした。濡れた坂道をどんどん下っていく。
 今度は追うべきではないとさすがのバカでも判っていた。溜め息吐いてまぶたを押さえる。
「……!?」
 下り坂を歩いていた3人連れが、立ち止まっている。
 見られた。
「ひゃあああぁっ!?」
 不覚にもネコをかぶるのが遅れてしまい、素の殺気を向けられてひとりが悲鳴とともにしゃがみこむ。もうひとりがそちらを支え、最後のひとりが毅然とした視線で佩いていたダンビラに手をかけた。
 殺すべきか、むしろ殺したいとは本気で思ったものの、殺ってもただの八つ当たりにしかならない。拓海はまぶたを押さえる。渦を巻くような気魄、射貫くような殺気が収まっていった。
 荒れ狂うエーゲ海から波が引き、穏やかな海面が広がっていくような錯覚。
「失礼」
 呟いてまぶたから指先を離し、歩きだした。迎えるひとりの毅然とした視線は崩れていないが、ダンビラにかけていた手は離れている。あえてその刃が届く距離を、拓海はゆっくりと通り過ぎた。
「――暗城の知りあい?」
 振り向かずに、まぶたを押さえる。
「知りあいなら泣かさないだろうね」
 泣かないだろうし。
 二の句はなかった。追うつもりもなかったが、自然と足が速くなる。

 朝、茶髪の美人と会った辺りまで急いだが、シェリルの姿は見えなかった。

進む
戻る