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10月16日(日) 夜

 今度は追い出せなかった。
「たっくんのひざのうえ〜」
『降りて!』(×4)
 のほほんと拓海のひざの上に鎮座する環を幼馴染4人(うちひとりは偽者)が怒鳴りつける。酒が入っているわけではないのに頭のネジがトンでいるような言動が目立つお姉ちゃんだった。双子の妹の真理佳はヤケ酒をあおっている。
 さすがに沙織でもたしなめる表情で、腰に手を当て前かがみになる。
「タマちゃん、そこは慧ちゃんの席よ」
「ぶー」
 不満そうに鼻を鳴らして、言動が幼い19歳は拓海の膝から降りた。溜め息ついて年齢不詳の母がスカートを払う。
「母さん、わたしの席じゃなかったの?」
「え? いやいや。母さんは七海の代わりに、拓海くんに膝枕してあげようと思っただけで」
「された覚えないですから」
 ちっ……と沙織は笑って舌打ちしながら拓海から離れた。夫が不在(末娘はそっちにいる)なのではっちゃけているというわけではなく、割と素でこんな真似をしでかす母親だった。
 若々しいとはいえ実年齢はどう数えても四十に手が届く。ために、娘は4人いても男の子には恵まれなかった沙織は、拓海を息子扱いして可愛がっていた。この不器用な坊やがストレートな愛情表現にやや苦手意識がある、原因の3割は沙織に求められる。
「あ、どーぞ」
 拓海のグラスが空いているのに気づいた綾が、如才なくワインを注ぐ。明日テストなので慧たちはノンアルコールだが、拓海には遠慮なく酒が入っていた。紫明に似てあまり強くないので控えめだが。
「あと、何食べる?」
「えーっと、じゃぁサラダで」
「うん、ちょっと待ってね」
 沙織にもお酌した綾は、取り皿に生野菜のサラダを盛りつけた。拓海好みの薄味ドレッシング(慧のお手製)を少しだけ振って、差し出してくる。
 幼い頃は、悪ガキ連中の先頭に立って暴走していた綾なのに、まぁずいぶんと落ちついていた。
「はいっ、あーん」
 お皿を受け取った慧がキャベツを差し出してきた。少しくらい回想に浸らせてくれ……と思いつつ喰いつくと、慧の指が口に入ってくる。
「んぶっ……けい?」
「おいしい?」
 酔ってないよな?
「……うん」
「よかった〜。拓海が喜んでくれる味を追求してたンだよ。はい、もっともっと」
 ナマ手で突きだされる生野菜を口にすれば、慧の指まで口に含んでしまう。助けを求めて視線を逸らすと、綾がキッチンの方に歩いていく背中が見えた。その手前では、沙織と環がサラダボウルを抱えて順番待ちしていて、こずえ妹が姉にけしかけられるまま横に並んでいる。
 やむなく真理佳に視線で助けを求めると、何かの焼ける音と香りが届いてきた。
「ん……?」
 嫌な予感がした慧が、お皿をおいてキッチンに向かった。気づいていない様子の沙織と環とこずえ妹が拓海に詰め寄り、順番でサラダを口に押し込みはじめる。
「いや、助けて、たすけて……!」
「往生際が悪いわよ、拓海くん! 慧ちゃんにさせておいて母さんはダメってのは通らないわ!」
「たべてたべて〜♪」
「えーっと……食べて?」
 残るこずえ姉と真理佳は笑っていない視線を交わしたが、口に出しては何も云わず溜め息をつきあった。とりあえず、こずえ姉は真理佳にお酌する。
「あぁ、悪いわね。……あれ」
「どうかした?」
「いや、お刺身が……」
 肴につまんでいた刺身の盛り合わせが消えている。
 そんなこんなが一段落する隙も与えずに、綾が大皿を持って帰ってきた。
「はぁーい、お待たせしましたー」
 置かれた皿には、アツアツに湯気を立てる魚のフライが並んでいた。シーフード好きな拓海が目を輝かせる。
「これは美味しそうな……どれ」
 箸でつまんでひとつ口に入れると、舌を焼く熱さが広がった。だが、軽く振られたレモンの香りと魚の肉汁がそれを押しのける。はふはふしながらよく噛んで、呑みこんだ。
「ふぅ……美味しいよ、綾さん」
「どういたしまして。熱いうちに食べてね」
 沙織と環は視線を交わすが、さすがに、ここまで湯気を立てているモノを手づかみにするには度胸がいる。
「さっぱりしたもののあとは、こういう脂っこいのも悪くないよね」
 そして、慧はちゃっかり拓海の隣に戻って、箸でつまんで差し出した。赤くなりつつ口にする拓海に、綾は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、こずえ妹と環は泣きそうになり、沙織は悔しそうにしている。
 溜め息を交わすこずえ姉と真理佳をよそに、宴席は盛り上がっていた。

 慧たちがテストでなければそのまま宴席だったが、さすがに保護者として沙織はそれを踏みとどまった。8時くらいには後片付けを済ませ、3人を送り出している。
 雨も降ってきたので送るべきだろうが、拓海は拓海で強行軍だったので疲れていた。こずえたちをおうちまで送るのは真理佳に委ね、お風呂に入らせてもらう。
 風呂からあがると、香久山さんちの母娘がもめていた。
「わたし、勝負ぱんつも婚姻届も用意してあるのに!」
 イタリアに帰ろうかな。
「慧ちゃん、明日テストでしょうが。これ以上夜更かししてないで寝なさい」
「そーよー、たっくんのことはタマ姉さんに任せてまかせて……」
『もっとダメ!』(×2)
「……何事なんだ?」
 見かねて口を出すと、慧が泣きそうな表情で前髪をかき上げた。
「拓海は、わたしのお部屋でいいよね? これから4年越しの初夜で……」
「それをさせるなと、こずえ姉にしっかり云われてるのよ!」
 ツッコミ役も大変だ。真理佳が横から叫んだ。
「というわけで、拓海くんは母さんの部屋に泊まることになりました」
「あうぅ……」
 ホントに泣きそうな慧を見ていると心が素直に痛むのだが、さすがにきょうではタイミングが悪いことくらいわきまえている。慧の頭をなでて、
「テストが終わったらね、慧。さすがに、終わるまではそーいうのは控えないと」
「テストが終わったら、わたしのはじめてもらってくれるの?」
「母親の前でそンなこと云わない」
 鷹揚な沙織でも腰に手を当てている。環だけでも困ってるのに慧までキレちゃかなわないと、声のトーンは落としたものの表情は真顔を崩していなかった。
「ほら、はやくお風呂入ってきなさい。テストが終わってからなら、母さんは何も云わないから」
「せめて、お風呂くらい一緒したかったな……」
「だめよ。……判ってるでしょ」
 真顔だった。慧は小さくうなずき、拓海の頬にキスしてリビングを出ていく。
「……慧、なにか?」
「少しあったのよ、拓海くんが外してる間にね。……心の準備ができてからでないと、母としては、慧ちゃんとの初夜は認められないわね」
 あの慧が素直に引き下がったからには、慧の側の準備は、一昼夜あれば充分できるのだろう。

 あとは僕の準備……か。冷たいお茶をすすって、拓海は呼吸を整えた。

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