前へ
戻る

History Members 三国志編 第32回
「引き立て役ではない男たち・7 The Longsword of EastRiver」 中編

F「当時北海郡では、管亥(カンガイ)率いる黄巾の残党が猛威を奮っていたから、孔融は都昌の城に軍を駐留させたンだけど、あっさり包囲されてしまった。ちょうど東來郡に戻ってきた太史慈に、孔融から生活の面倒を見てもらっていた母親は『面識のないお前を評価してくださった孔融様に恩返ししておいで!』と太史慈を送りだす」
A「タイミング良すぎるな」
F「まぁ、話としてかなりデキすぎではある。何せ太史慈は徒歩でたったひとり『黄巾の包囲がまだ厳しくなかったので』夜陰に乗じて都昌に忍び込んでいるンだから。とりあえず、孔融に面会した太史慈は『兵をお借りして賊を打ち破りたい!』と申し出るが、孔融はそれを許さず、籠城して援軍を待つことに」
A「事前に高くは評価していてもこんな緊急時では、すぐ使うワケにもなぁ」
F「だが、日に日に包囲は厳しくなっていく。何とか援軍を呼びたいと思うものの、この包囲網を突破できるのか……と誰もが二の足を踏む。そこで名乗り出たのが太史慈だった。孔融を『これができねば、俺はアンタと母、ふたりの恩に背くことになります!』と説得し、先に用いた『順手牽羊』に次いで『瞞天過海』を用いて脱出に成功している」
A「……三十六計だっけ?」
F「だ。『順手牽羊』は『相手のミスを見つけたら、どんな小さいものでもつけ入れ。利益はどんなに小さくても獲得しろ』というもの。州の使者がたまたまボンクラだったから、それにつけ入ったワケだ。今度の『瞞天過海』は、たとえば、突破するそぶりを見せれば包囲している側は警戒する、のを逆手に取るものだ」
A「でも、突破するンだよな?」
F「すぐにはしなかったンだよ。太史慈、まずは騎兵を従えて門から出る。これには包囲する黄巾残党軍、当然逃がすまいと警戒するが、本人は平然と空堀の中に的を立てて、矢を射かけ始めた。で、矢筒が空になると城の中に戻る」
A「翌日も同じことを、じゃったね」
F「だ。今度は警戒する者もいれば、相手にしなかった者もいる。3日めに太史慈が門から出てくると『やれやれ、また弓のおけいこか』と、ほとんど相手にされなかった。そこで太史慈馬腹を蹴ると、囲みを突破してしまう。慌てて追いかける黄巾の残党だが、太史慈が追っ手に矢を射かけて何人か射殺すると、もう追撃は諦めてしまった」
A「根性ないな!?」
F「だって、2日に渡って太史慈の弓勢は見ていたワケだから。俺の矢筒にはまだ矢があるぞ、とチムール・メリクみたいな退き様だった、と」
A「だれ?」
ヤスの妻「大ハーン率いるモンゴル軍に抵抗したホラズムの勇士だよ。弓が得意でね。敗走するホラズム軍の殿軍にいたところ、一万からのモンゴル軍に襲われたのね。まず先頭のひとりを射殺して『俺にはまだ矢があるぞ!』と叫んだところ、さしものモンゴル軍でも追撃を断念した、と」
F「確かに矢はあったものの、実は残り二本。たった三本の矢で万余のモンゴル軍を退けたという伝説的な人物です」
A「すげェな!? ……つまり、先に弓のおけいこをしてみせたのも作戦の一環なんだな? 太史慈の腕を見せつける」
F「そゆこと。太史慈の弓勢を知らなかったら、数で押そうとするからね。かくて囲みを破った太史慈は、黄河を挟んだ向かいの平原を治める劉備のところにたどりつくと『アンタは仁義を備えて名を馳せ、他人を救うという評判だから、孔融様は心からアンタが来るのを待っている!』とおだてて『よし、行きます』と云わせている」
A「『北海殿はこの世界に劉備ありと御存じだったか!』な」
F「かくて精鋭三千を派遣したンだが、当時コーソンさんの下で袁紹の抑えを張っていた劉備が、太史慈に兵を与える理由はない。本人の台詞から考えても、たぶん自分で率いて北海に乗り込んでいるだろう。兵が来たと聞いた黄巾の残党は、あっさり包囲を解いて逃げ出したから、戦闘にはならなかったようだが」
A「イベントとしては劇的だけど、結果はあっけないなぁ」
F「うむ。助けられた孔融(40)は太史慈(27)を『君はワシの若き友人だ!』と絶賛。母親からも『よく恩返ししたね』とほめられた太史慈は、曲阿(きょくあ)の劉繇のところに出立している」
A「待てぃ!」
F「遼東で邴原にかくまわれていたらしいのは先に云ったが、この邴原、もと孔融配下だった。孔融から財政官補佐として用いられるも、孔融が部下を処刑しようとして邴原に論破され、それを『冗談のつもりだったンだよ……』弁解したので見限り、遼東に逃げたという経歴の持ち主だ」
A「……おいおい」
F「この時点では曹操との意見対立はまだ起こっていないので、世界でいちばん孔融を嫌っていた男と云っていい。孔融が邴原をどう思っていたのかはいずれ本人の回で触れるが、邴原が曹操に召し出されたのは『倉舒が亡くなった』年とあり、つまり208年。孔融が処断されたのもこの年だが、十中八九どころか十中十まで、そのあとだろう」
ヤスの妻「人間関係ってあるンだよ」
A「そのようで……」
F「というわけで、母親のために孔融は助けたが、太史慈は最初から孔融の下に留まるつもりはなかったようでな。同郷の劉繇が揚州刺史として赴任すると、それを追って長江を渡っている。ところが、劉繇の下にもつくのを躊躇ったようで、正史には『立ち去る前に孫策が来た(ため、立ち去れなくなった)』と記述がある」
A「今度は何でだ?」
F「今度は孔融のときとは逆で、劉繇が太史慈を評価しなかったから。孫策に攻められるという非常時でも、自分の名声に瑕がつくのを恐れて持ちいなかったンだから、平時ではなおさらに評価するとは思えん」
A「……そんなに悪い奴じゃないと思うンだけど」
F「出典がいつもの『江表伝』なんだが、太史慈が『州の上奏文ブチ破り』と『孔融救出大作戦』をしでかしたのは孫策も知っていたンだ。となると、同郷で、青州の役所に勤めたことがある劉繇が、それらを知らなかったはずがない。勇名高いのは事実だが、青州ではむしろ悪名のが高かった感があってな」
A「郡のために州をダシ抜いたらなぁ。だが、孫策が来てしまったから、立ち去るに立ち去れない状態になった、か」
F「ちなみに『漢楚演義』13回で、斉王だった韓信が楚王に国替えされたのは触れたが、このとき後任の斉王になったのは劉邦の息子で、劉繇はその息子、つまり劉邦の孫の子孫ということになっている。400年経っているだけに劉備同様疑わしいモンだが、否定する材料はないな」
A「また、思わぬところに皇族が……」
F「ともあれ、そんな劉繇は『太史慈殿に軍を任されればいいではないですか』と誰か(明記がない)に勧められても渋り、とりあえず偵察の任務だけ与えるにとどめた。そのせいで歴史を変えそこなったのは前にも触れている。神亭(しんてい)という地で孫策相手にタイマンかましたワケだが」
A「劉繇は太史慈の個人的な武勇には期待した、とも云えるかなぁ」
F「とは云えるだろうな。だが、そんな扱いで満足する男ではなかった。孫策に敗れた劉繇が曲阿から丹徒(たんと)を経て豫章郡(よしょう)へ逃げ込もうとする途上で、太史慈は劉繇を見限って、丹楊(たんよう)太守として独立を宣言している。これには、孫策の統治下になかった丹楊郡の西側六県が呼応し、多くの山越が太史慈のもとに集まった」
Y「孫策の統治がいかに反発されていたのか、を表すエピソードだな」
F「最初に云ったが、太史慈の立ち位置を張遼と比べるのは張遼に失礼だ。アイツは、呂布を見捨てて独立〜なんて真似はしていない。恩を受けた主を見捨てて逃げ独立までする男なんて、三国時代と云えども……ひとりいるな」
A「誰のことか!?」
F「というわけで、ここに太史慈は『敵対群雄列伝』に加わる資格を得たことになる。ひとりの群雄として孫策と相対する姿勢を見せたのを、陳寿はどうも過度に評価したようでな」
A「それで群雄扱いできるなら、厳白虎もエントリーしろよ」
F「だから、常々アイツは山越だと思うって云ってただろうが。陳寿は、異民族の個人に関する伝は一切立てていないンだから。ネタが少ないのも事実だろうけど、そういう事情と考えていいぞ」
A「……むぅ」

進む
戻る