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History Members 三国志編 第32回
「引き立て役ではない男たち・7 The Longsword of EastRiver」 後編

F「太史慈の判断そのものは間違ってはいない。この頃孫策は会稽(かいけい、いずれも揚州の西側)の攻略に向かっていたし、袁術は袁術で徐州に気が向いていた。劉繇は豫章を制圧した笮融(サクユウ)にかまけている。つまり、太守の周尚(というか周瑜)をどうにかすれば丹楊郡で自立できる状態にあったと云っていいンだよ」
A「状況はわきまえていたワケか……」
F「袁術・孫策に劉繇の隙まで突いた今度は『混水摸魚』というところか。こうして考えると、太史慈は武勇もかなりのものだが、智略の冴えが光っているな。留守番の周瑜でも手をこまねいたのか、孫策は自ら兵を出して西丹楊六県の攻略に乗り出したが、これが意外なまでに苦戦している」
A「ホントかよ」
F「孫策自ら兵を率いて六県に侵攻したンだが、孫策軍の前線基地は宜城(ぎ)に置かれた。これを守っていたのが孫権で、のちの『出ると負け皇帝』は『どーせ戦闘にはならないってー』とタカをくくって、ちゃんとした防備もしていなかった。そこへ、行動パターンからして祖郎(ソロウ)が率いていると思われる、数千からの山越兵が攻撃してくる」
A「……ホントに何とかならんのか、この生きる負けフラグ」
F「加えて、孫策も油断していて、宜城に一千足らずしか兵を残していなかったンだ。慌てて孫権は馬に乗るけど、山越の兵士はすでに城内まで迫っていて、馬の鞍にまで斬りかかってきた奴がいる始末」
A「またしても、歴史を変えるチャンスじゃないか!?」
F「身辺警護の連中まで慌てふためくばかりだった中で、たったひとり、周泰が身をもって『熊や虎のごとく勇敢に戦い、身命を惜しむことなくはたらいて数十の傷を負い、皮膚は切り刻まれた』とされる奮戦で孫権を救っている。この姿に兵士たちは勢いを盛り返し、やっとの思いで山越を追い散らかした」
A「あー……周泰を負傷させたのも太史慈だった、と」
F「間接的にな。自身率いる本隊で孫策の攻撃を受け流し、大規模な別働隊を編成して孫策の背後を脅かす。基本戦略は云わば『釜底抽薪』だったワケだが、別働隊は周泰の奮戦で潰走し、本隊はあっさり孫策に敗れた」
A「おい」
F「どんな戦闘が行われたのか、まったく記述がないンだ。どうにも、孫策自らの攻撃を受け止められなかったようでな。個人での武勇ではほぼ互角だったが、将としての質は孫策のが上だったと云える」
A「智略が通じる余地がなかったのかね……?」
F「捕虜となった太史慈が孫策の前に引き出されると、孫策はすぐに縄をほどかせた」

孫策「神亭でのことを覚えているか? あのとき、お前さんが俺を捕えていたらどういう処分をしただろうな」
太史慈「さて……想像もつきませんな」
孫策「まぁこういうことになった。俺は、あのときお前がしていただろう処遇をお前に科そう」

F「そういって孫策は太史慈に兵と役職を与え、部下として使うことにしている」
A「殺しあって判りあう友情って、水滸伝か男塾か……」
F「ノーサイドってやつだな。何しろ、やはり孫策を二度に渡って危地に追い込んだ祖郎だって、このあと敗れて捕えられているけど『俺は、太史慈だって許したぞ』と云って部下に加えているンだ。孫策の軍が凱旋したときには、太史慈と祖郎が並んで軍の先頭に立っていたという」
A「……それはちょっとやりすぎじゃないか?」
F「祖郎を口説いた本人の台詞が、正史の注にある」

「お前はかつて俺を襲い、刃が俺の乗っていた馬の鞍に当たったこともあった。だが、これから軍を整え大事を起こすにあたって、能力があり役に立つかだけを考えて人材を集めている。昔の恨みを忘れて取り立てるのはお前ひとりだけじゃないンだ、心配するな」

A「……男が惚れるな、これは」
F「ただ、別の箇所に『祖郎や厳白虎といった連中は捕らわれ滅ぼされた』ともあるから、どうも後日処分されたっぽい。だが太史慈はちゃんと用いられた。孫策に降ってからある日、豫章で劉繇が死んだとの報告が入った。前回見たように、豫章太守の華歆(カキン)は劉繇の部下を引き受けるのを拒んだので、彼らは宙ぶらりんになる」
A「それを吸収しようと?」
F「孫策が送りこんだのが太史慈だったワケだ。もちろんこれには『アイツは帰ってきませんよ!』とか『華歆とは同郷ですから、寝返るのでは……』という声があがっている。ちなみに、華歆は平原の出自だから同郷というワケではない。ふたりとも邴原と交流があったのは事実だが」
A「……俺でも疑うなぁ、それじゃ」
F「だが孫策は『アイツが俺を見捨てるかよ』と応じあっさり見送っている。太史慈には、旧劉繇軍の取り込みと現地の偵察という任務があったが、60日後に戻ってきて『華歆は豫章を守るのが手一杯、鄱陽(はよう)や盧陵(ろりょう)では勝手に太守を名乗る輩が横行しています』と報告してきた」
A「お前が云うな、お前が」
F「というのも、豫章の西側は荊州に接していて、劉表が甥の劉磐(リュウバン)を送りこんでくることがあった。華歆では勇猛な劉磐を抑えるのが手一杯で、郡内や東側に関わっている余裕がなかったのね。してやったりと笑った孫策は、虞翻(グホン)を華歆のところに送りこんで降伏させ、揚州の西側諸郡まで勢力を広げている」
A「快進撃じゃね」
F「さらに、豫章の西側に太史慈を配置して劉磐を防がせると、華歆に慣れていた荊州の軍はあっさり来なくなってしまう。どうも、太史慈に恐れをなしたというところでな」
A「呆気ないな、劉磐」
F「それから孫策が死んだあとも、太史慈は呉の西側を抑え、さらには交州との州境への抑えも張るようになった。のだが、206年、41歳で死去している。呉書敵対群雄伝を締める陳寿の評を、書き下して引用する」

「劉繇は立派な行いをすることにつとめ、物事の善悪を判断するのに心を砕いたが、混乱の時代に自立する術策には長けていなかった。太史慈は信義を守ることに一身を賭し、古の人々に変わらぬ節度を見せた。士燮は南越を治め生涯を終えたが、息子の代で災いを招いた。凡庸な才覚しかないのに富貴を弄び、険阻な地形を頼みにしたことでそんな結果をもたらしたのだ」

A「……どーにも並べると奇妙なんだよなぁ。ここにいるべきではないような」
F「ところで、おそらくは孔融辺りが吹き込んだンだろうと思うが、『引き抜きメモリアル』曹操は太史慈の評判を聞いて、太史慈にお手紙を送っている。封を切っても何も書いておらず、ただ『当帰』という薬草だけが入っていた」
A「帰っておいで、というお誘いか」
F「これがいつのことなのか記述はないが、云うまでもないことに、こういうアプローチがいちばん効果を示すのは孫策が死んだ直後だ。賢明なる魯粛でも、孫策の死後には呉を離れようとした形跡がある。そして、太史慈の死んだ206年には、周瑜が孫静の子の孫瑜(ソンユ)とともに、荊州側国境近くで戦闘を行っている」
A「……魯粛を引きとめたのも周瑜だったよな?」
F「陳寿は明記していないンだが、どうも太史慈の中の悪い虫がまたしでかしたように思えてな」

「大丈夫たる者、世に生きては七尺の剣を帯びて天子の階をのぼるべきものを、まだその志を果たせぬまま死ぬことになろうとは!」

F「馬超同様、太史慈も集団に属して真価を発揮するタイプではなかったようでな。孫策との関係、つまり『士は己を知る者のために死す』というのはある程度保てたが、その孫策の死後6年して、本性を剥きだした臨終の言葉を遺している。孫権は彼を悼み惜しんだとはあるが、太史慈の性格からして『反客為主』でも狙ったのかもしれん」
A「やりかねねェ……」
F「少なくとも太史慈は、陳寿・陸機からは呉の臣と思われていなかった。正史三国志での扱いは見てきた通り。そして『弁亡論』にも、太史慈の名はない」
A「……そういう扱いか」
F「つd
Y「くぁーっ! 負けたーっ!」
A「黙ってろ!」
F「続きは次回の講釈で」
ヤスの妻「いやなんかうちのひとがごめん……」


太史慈(たいしじ) 字は子義(しぎ)
166〜206年(演義では209年に戦死)
武勇5智略5運営2魅力4
青州東來郡出身の、揚州に割拠した群雄。のちに孫策に仕える。
孫権はともかく孫策には義理を果たしたが、孫家に仕えてからはどうにも生彩を欠いた人生を送った。

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