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History Members 三国志編 第30回
「世知辛い世紀末に現れた一筋の流れ星はヒャッハーと笑いながら落ちていったというオハナシ」 中編

F「孫策躍進の契機となったのが、江南への進出だった」
A「自ら揚州に、じゃね」
F「孫堅の妻(孫策の母、のちの呉国太)の弟は呉景(ゴケイ)と云って、やはり孫堅の軍に加わっていたンだけど、袁術は呉景を孫堅の下から引き抜いて揚州攻略の第一陣とした。ところが、朝廷から送られてきた揚州刺史の劉繇(リュウヨウ)は袁術に反発して呉景を叩き出し、次いで送られてきた孫賁も退ける。というわけで、孫策は『俺が行きます』と申し出た」
A「そいつら、ホントに孫堅の一族なのか?」
F「情けないのは事実なんだが、袁術は孫策を『勝てるとは思えないけど……まぁやってみ』と送りだしている。劉繇が相手では、孫策でも対抗できるとは思えなかったワケだ。何しろ、孫策が袁術に目通りした194年に孫堅配下だった兵は返しているけど、それが一千あまり」
A「何でそんなに少ないの!?」
F「孫堅の旧配下の残りは孫賁が率いて、すでに現地にいたから。先に孫策は、丹楊(たんよう、地図B)で兵を募ったンだけど祖郎(ソロウ)という山越の首領に襲われて、集めた数百の兵が全滅するという被害に遭っている。呉景や孫賁が駐留していたのがこの丹楊郡で、ふたりが劉繇に負けていたのにはその辺りの都合もある」
Y「山越を相手にしなければならない地だから、精兵は輩出するけどその分治安も悪い。ある程度は兵を、それも精兵を割いておく必要があったワケか。孫策に一千与えたら、残る孫堅兵はぜんぶ投入してもまだ足りんな」
F「将の質も無関係ではないけど、実際にふたりとも結果を出せなかったワケだからね。対する劉繇の軍は数万を数え、さらに王朗(オウロウ)や厳白虎(ゲンハクコ)といった揚州の群雄が控えている。さらにさらに祖郎や王晟(オウセイ)といった山越がいるワケだから、袁術にしてみれば呉景への援軍程度の考えだったかもしれん」
A「マトモに考えれば勝ちめはなかった……か」
F「だが、ここで思わぬ幸運が舞い込んできた。周瑜が『叔父の周尚(シュウショウ)が丹楊の太守になったのさー』と云って、兵を率いて合流してきたンだ。五千から六千という数字に膨れ上がった孫策の軍は、孫堅時代からの宿将や二張を率い、孫賁・呉景と合流して劉繇打倒に乗り出すことになった」
A「1800年後の今なら、勝てると思える面子だなぁ」
M「お兄ちゃん、ちょっといいかしら。正史でも演義でも、そこまでの周瑜さんがどこで何をしていたのかって書いてないみたいなんだけど、判る?」
Y「腐女子的興味のためだけに正史を紐解くな!」
F「董卓の下にいた可能性がありますね」
A「お前はお前で何云ってンの!?」
ヤスの妻「……周家が孫策の軍に加わったのと献帝が洛陽に戻ったのって、時期はほぼ一緒だよ」
Y「……おい、どういうことだ?」
F「太尉の周忠が献帝に従って長安から洛陽まで戻ってきたのは、後漢書に明記されている事実です。ところが、その一件をもって後漢書周栄伝は終わっています。その後の周家がどうなったのかは、後漢書に記述がありません」
Y「正史三国志に周瑜が孫策・孫権に仕えたのが記述されてあるから、それで補ったということになるが……」
F「ということは、洛陽への帰還に前後して、周家は宮廷を後にしていたと考えられるンだ。まずは、孫策と絶対の信頼関係をもつ周瑜に兵をつけて送りこみ、ある程度地盤が固まったところで一族も合流したンだろうな、と。そのために、劉繇への援軍がてら周尚を丹楊の太守に任じたワケだ」
A「董卓を見限ったのか、王允を見限ったのか……」
F「洛陽に戻ってから周忠がどうなったのか記述されていないから、周瑜が董卓の下にいたとは断言できん。だが、いた可能性そのものは否定できない。孫権は13歳で朝廷(この場合は曹操の手元)に招かれているから、孫策と同い年で太尉の孫にあたる英邁闊達な周瑜が、放っておかれたとは考えにくくてな」
A「単純に考えればいたンだろうな、きっと……」
M「…………………………いっ」
A「ねーちゃん?」
M「いやあああああっ! 周瑜さんが、しゅーゆさんが丸々太った董卓オヤジに調教されるだなんておねーちゃん耐えられないわああああっ!」
Y「もうこのバカ連れ出せ!」
もうひとり「あーもぉ、手のかかる! ほら落ちつきなさい、どーどー」
M「ドードーでもモアでもいいけどおデブはいやあああああっ!」
(ばたんっ)
F「ちょっと体重落とさんとなぁ」
Y「その台詞で済むのか!?」
A2「(ふるふる)……大物だぁ」
F「話を戻すが、つまり周瑜と周家は、周尚が丹楊太守に任じて朝廷を離れ、朝廷が任じた揚州刺史に敵対する側に与している。要するに、曹操にも敵対する道を選んだワケだ。赤壁で周瑜が交戦論を唱えたのには、そんな裏事情もあったと考えられる」
ヤスの妻「相変わらず、人間関係から裏を見抜くのが得意だね、えーじろは」
F「ひととひとのつながりを無視して歴史を語ろうって方が間違ってると思いますがね、僕は。だから、えーじろやめろ。周瑜については本人の回でもう少し掘り下げることにして、孫策に話を戻します。孫策が率いた部隊は五千ないし六千、呉景・孫賁の軍が加わっても、劉繇に太刀打ちできなかった彼らなので、まぁ万に届くかどうかでしょう」
A「数千で数万に挑む、か。数が多ければいいってモンじゃないだろうけど、少ないのは少ないので辛いだろうな」
Y「敵より多勢をそろえるのが戦略というものの根幹だぞ」
F「だが、孫策は多勢を相手にする場合の戦争の仕方をわきまえていた。相手より数が少ないということは、兵の運用で先手を取れる。指揮能力を備えていればの話にはなるが、孫策にはそれがちゃんと備わっていたので、速攻での電撃作戦で相手の不意を突いて潰走させる、という戦術で劉繇軍を打ち破っている」
A「速さと強さを兼ね備えていた、と」
F「そゆこと。それに対抗するいちばん手っ取り早いのが籠城作戦だというのは判るだろう。一軍を預かっていた笮融(サクユウ)は打ち破られると、陣地を築いて立てこもっている。攻めあぐねた孫策はあっさり戦死した」
A「おいっ!?」
F「孫策の軍から逃げてきた兵からそれを聞いた笮融は、喜んで部下を出し孫策の軍に攻撃をしかける。迎撃したもののあっさり崩れた孫策軍を追撃すると、もちろん生きていた孫策が襲いかかってきたモンで、笮融の部下は総崩れ。乗り込んできた孫策が『見たかオラ!』と怒鳴りつけると、笮融の兵は士気消失してあっさり逃亡している」
A「……とんでもないことしでかすねー」
F「それでも笮融は陣地に立てこもったままだったンで、抑えの兵だけ残して孫策は劉繇の本拠・曲阿(きょくあ、地図A)に進軍したが、ここで劉繇という人物の限界が露呈する。劉繇の下に許子将(キョシショウ)がいたモンだから『アイツを重く用いたら、許子将殿は俺を笑うンじゃね?』と、勇名高い太史慈を使うのを躊躇っているンだ」
A「何で許子将がここにいる!?」
F「つまり、劉繇と曹操には関わりがあったということだろうな。当の許子将自身が、のちに追い詰められた劉繇にそれをうかがわせる発言をしているから。だが、許子将は云ってもいない月旦評に怯えて太史慈に軍を任せるのを躊躇ったのはまずかった。斥候させずに百人程度の小部隊でも与えていれば、呉の歴史は終わっていたから」
Y「騎兵ひとりだけを従えて偵察に出た太史慈が、こちらも偵察に出ていた孫策と騎兵13人に出くわしたンだったな」
F「太史慈はまぁ仕方ないにしても、五千からの軍を率いる孫策が、韓当宋謙黄蓋といった猛者ぞろいとはいえわずか13騎だけを引き連れて偵察に出るなんて考えられないところだが、それをマジでやるのが孫策という男だった。だが、太史慈も只者ではない。孫策に堂々と挑みかかっているンだ」
A「やるンだよなぁ……」
F「経験談になるが、14対2なら2でも勝てる。千対万なら千が勝つのは難しいが、2人いれば30人くらいまでなら勝つのは難しくないンだ。もちろん、双方が武器をもっているという前提だが、このときはまさにそういう状態だった。正面から突っ込んできた太史慈に、孫策が直接相対している」
A「黄蓋たちは何をしていたのやら……」
F「不意を突かれて動けなかった、というところだろうかな。数が多いと、少ない奴が正面から突っ込んでくるとは考えにくいみたいで、僕も若い頃は烏合のそんな驕りを利用して蹴散らしていたから。だが、黄蓋たちは、孫策ならタイマンでも負けないと考えていたのかもしれない」
Y「正史では数少ない一騎討ちだったな」
F「三国志と云えば武将同士の一騎討ちが華だが、正史ではほとんど行われていない。演義では割と頻繁に行われているンだが、正史には武将が個人的武勇を誇る姿はあまり描写がない。だが孫策は、このとき太史慈相手にきちんとタイマン張って引き分けている。太史慈の馬を刺して、手戟を奪い、太史慈も孫策の兜を奪った」
A「いや兜ってあーた……」
F「さすがに危ないと思ったようで、程普辺りが兵を出して孫策を助けようとし、事態に気づいた劉繇も兵を出して太史慈の救援に向かわせたことで、このタイマンは中断されている。だが、主将自らタイマンに興じる余裕があった孫策軍に対し、劉繇軍はこの辺りから落ち目になっていく。まず、笮融が裏切った」
A「うぉいっ!?」
F「劉繇は、内陸の曲阿を守れないと判断して、長江沿いの丹徒(たんと、地図@)に逃げ込み、そこから水路で会稽郡(かいけい、地図C)まで逃れようとした。ところが、従っていた許子将が『あんな豊かな土地に逃げ込んだら孫策が追ってきますよ!』と制止し、曹操や劉表と連携の取れる豫章(よしょう、地図外)に移るよう勧めている」
A2「……荒れた土地はいい土地だ、見向きもされないいい土地だ」
Y「それ、別のゲームだ。判断としては、間違っていないように思えるな」
F「そこで笮融を先遣隊として豫章に送ったところ、このブッディストは太守を殺して自立のかまえを見せるンだ。許子将が、今度こそ『アイツには注意すべきです』と月旦しているが、笮融を送りだした後だった。劉繇は自ら軍を率いて豫章に攻め込むけど、孫策でも攻めあぐねた防御陣の使い手はこれを撃退している」
A「劉繇も劉繇だけど許子将も許子将だね、まったく……」
F「さらに、太史慈が劉繇の下を離れている。豫章攻めの直前に出奔すると、孫策の占領下になかった丹楊の西側六県を糾合して『ワタクシ太史慈こそが丹楊太守です!』と豪語した。これには山越が数多く帰属している」
A「やっと劉繇を見限ったか……それじゃ笮融にも勝てるワケがないな」
Y「まっとうな戦闘部隊が裏切って、ちゃんとした武将が抜けたワケだからな」
F「劉繇は、どうにも周囲の評判を過剰に気にし過ぎていた感がある。許子将本人を擁していたからには、名士からの評判そのものは低くなかっただろうが、それだけに自分の名声に瑕がつくのを躊躇った行いを繰り返し、結局孫策に江南を明け渡した。これまた乱世を生き抜けるタイプではなかったと云えるな」
Y「正史の記述からは演義ほどのアホにも思えんが、軍事的に無能なのは共通だしな」
F「それでも、山越まで駆り立てて何とか豫章を攻め落としたものの、笮融本人は取り逃がしている。で、心労がたたったのかそのまま豫章で病死した。享年は四二。ちなみに、許子将は劉繇をなぜか高く評価したようで、このまま豫章に留まって四六で亡くなっている」
A「なむー」


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