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History Members 三国志編 第30回
「世知辛い世紀末に現れた一筋の流れ星はヒャッハーと笑いながら落ちていったというオハナシ」 前編

ヤスの妻「いっそこの辺り、そっくり次に回すとか……」
F「あー……その手があったか。でも、それだとむしろそっちのが分量増えないか?」
ヤスの妻「ひぃ、ふぅ……うーん、分量的にきついか。じゃぁ、このヒトでもう1回割こう」
F「都合3回ね……下手すりゃ4回か」
A「……悪だくみしてるぞー」
Y「俺たちの胃袋がもつかね……?」
F「ん? あぁ、すまんすまん。まだちょっと分量整理が手間取ってるンだ。『恋姫』のCDでも聞いててくれ」
A「いいけどな……」

FiveRecords 「恋姫†無双」覇王プロジェクト 呉軍合唱の陣より
「うふふ、冥琳てばうっかりやさんね♪」
「しぇれ〜ん♪」
「あはははっ、冥琳、さー、わたしをつかまえてみなさーい」
 アハハ……アハハ……
「一刀さん、はじめましてぇ。蓮華と小蓮の姉の、雪蓮でーすっ♪」

A2「……だれ」
F「『真・恋姫』での孫策しか知らないヒトは戸惑うだろうけど、ドラマCDでまさかの登場を果たした『恋姫』ヴァージョンの孫策だ。当時うちで書いてたのと大差ない性格で、オレそんなに間違ったもの書いてなかったンだなーと思った」
Y「俺はむしろ、お前が書いたのかとさえ思ったがな」
F「あっはは。えーっと……」
ヤスの妻「この辺りとこれはまとめて、こっちでひとり分、こうなってこうで……あとあのネタもそっちに回して」
F「あぁ、アレか……じゃぁ次回にこれを回せるから、何とかなりそうだな。よーし、きょうの講釈入るよー」
A「うへぇーい……」
F「江東の虎・孫堅の長男にあたる小覇王・孫策は、19で父を亡くし26で死ぬまでの7年間で、三国志に圧倒的な存在感を知らしめた。若くして死んだ英雄という日本人が泣いて喜ぶ設定なだけに、腐女子を中心にファンが多い。少なくないじゃなくて、多い」
A「だよなぁ。孫策主人公にした漫画もあるし」
F「ただ、いつぞや触れた通り、孫家全体でみれば26歳という数字はそんなに珍しいモンじゃない。孫権のせいで平均値のかさ上げが行われているが、アレを除けば平均を少し下回っているくらいだ」
A「26でも少ししか下じゃない、というところが悲劇性なんじゃね?」
F「だろうかな。かくて、三国志ものの漫画やゲームでは、孫策はたいがいキャラ的に優遇されている。件の『恋姫』ではすでに死んでいながら圧倒的な存在感を誇り、『真・恋姫』では生き返ってヒロインの一角を占めた。ルートによっては死ぬのと、さっきも云ったが『恋姫』の孫策とは別人なのがちょと惜しいところだが」
A「どっちがいいかについては異論を差し挟む余地があると思うけど」
F「だよなぁ。孫策お姉ちゃんとのダダ甘な性活と血まみれの孫策お姉さんを泣くまで舐めるのと、どっちがいいか」
A「あの孫策はそれくらいじゃ泣かねェよ……」
F「あっはは、違いない。まぁ、そんなワケで今回は孫策について。小覇王の短い人生を振り返ってみたい」
A「つーか、ホントにこれほどの大物を20回めで講釈するつもりだったとはなぁ……」
F「この世は全て絵空事。現実問題、孫策はあまりにも早く死に過ぎた。後漢が魏に禅譲して三国時代の幕が開く220年に、先立つこと20年だ。赤壁の戦いさえ見ることなく、三国志としては序盤も序盤に死んでるワケだから」
A「惜しいヒトを亡くしています」
Y「というか、そんなにあっけなく死んでおいて小覇王は云い過ぎじゃないか?」
A「来たよ、毒舌ブラザース……。とりあえず辛口評価なのが『私釈』なんだよなぁ」
F「お前が甘くしてるから、味つけとしてはちょうどいいと思うがな。突然ですが、ここで問題です。覇王とは何か」
A「項羽だよな?」
Y「辞書的な意味か? 覇道を唱えて天下を盗った者、では」
ヤスの妻「アキラ0点、ヤス25点」
A「低いな!?」
F「0点はさすがに云いすぎに思えるが、高得点は出せないだろうな。春秋時代、周の権威が衰えたせいで、大陸各地で戦乱が起こっていた。それを鎮めるため、異民族を退け、諸侯と会盟し、周王室をたすけて天下の秩序を守った実力者を覇者と呼ぶ。その代表格が覇王だ。桓公文公といった『春秋五覇』は有名だな」
ヤスの妻「つまり、ただ強いだけの者は覇王とは呼ばれないの。覇道の上には王道があるから、王室・帝権を補佐する態度を見せるのが第一条件。主君たる義帝を弑逆奉った時点で、項羽には覇王を名乗る資格がないンだよ」
F「ところが西楚の成りあがり者は『俺は天下を盗った! 桓公・文公にも引けをとらんぞ!』とばかりに"自分で"覇王を名乗っています。覇王とは、ただの天下の実力者ということじゃないンですね。項羽にないのは覇王たる資格ではなく資質、つまり実力ではなく権力に対する方向性じゃないかと」
A「2200年の歴史を真っ向から否定したよ……」
Y「つまり、天下を盗ったら覇王ではないと?」
ヤスの妻「ものすごく単純に云えばね。その辺り、かなり誤解が蔓延してるンだけど、あくまで天下を支える"覇者"の第一人者、という位置づけに過ぎないから。ただ強いだけの者は覇王とは呼べないンだよ」
F「ただ、孫策の"小覇王"は『ただ強いだけの者』でいいかと。こちらに至っては資格、覇者と呼べるだけの実力もなかったワケですから。それだけに、正史に小覇王の異名は使われていません。羅貫中のつけたものです」
A「その辺りは前にも聞いたけど……」
Y「項羽のように強い奴、みたいな意味あいか」
F「だが、強いだけで渡っていける時代ではなかった。テンプレ行こうか。出自は揚州呉郡(ごぐん、地図A)で、175年生まれ。孫堅がハタチのときに生まれた長男だ。周瑜と同い年なのは有名だが、いつぞや云った通り20歳で子供がいるというのは、女にだらしない曹操と比べてもやや早い。周瑜の父の周異(シュウイ)の年齢は不明だが、まぁ孫堅より年上なんだろう」
A「あぁ、周瑜の父親の名前、判ってるンだ」
F「おいおい……アキラくん、あまりボケない。判ってるも何も、後漢書には周瑜の高祖父(祖父の祖父)にあたる周栄(シュウエイ)の伝があって、周瑜の親世代までが何をしていたのか記述されてるぞ? 前回見た皇甫嵩は晩年太尉に昇進したが、その後任が周瑜の祖父にあたる周忠(シュウチュウ)なんだから」
A「マジで!?」
Y「どうして偶然を装って、こんなにまで計算ずくの順番で講釈するンだろう、この野郎は」
F「いや、インパクトは与えたが、偶然なのと併せて実話だから。ただ、周異の名は後漢書にはないが。ともあれ、孫堅が黄巾の乱討伐に従軍すると、孫策ら家族は寿春(じゅしゅん、揚州の治所、地図外)に難を逃れた。出典が注に引かれた『江表伝』だから今ひとつ信憑性に欠けるが、孫策はこの頃から非凡な才を見込まれて名士と交流し、評判が広まっていたとある」
A「10歳そこらでンな真似ができるとは思えんよなぁ……」
F「ところが、そんな評判を聞きつけたのが周瑜だった。こちらも若い頃から英邁闊達と評判で、孫策のところにわざわざやってきて親交を結んだとある。互いに認めあい『金属をも断ち切るほど心はひとつだった』と云われるほど仲良くなってしまった。周瑜に勧められるまま、孫策と一家は周家があった廬江郡(ろこう、地図外)の(じょ)に移った……となっていてな」
A「えーっと、淮水の流域から長江北岸に移ったのか」
F「まぁ、云うまでもないと思うが眉唾じみていてな」
M「美少年同士が愛しあうのを疑うの?」
Y「全力で疑うぞ」
F「うん、そこの腐女子の相手は任せる。ここでのキーパーソンは、実は揚州出身の朱儁(シュシュン)だ。宮中で周忠辺りとの間に『孫堅という見所のある男がいてね』『じゃぁ、家族はうちの実家で保護しましょうか』みたいなやりとりがあった、と考えた方がむしろ自然じゃないかと思うンだよ」
A「あー。アイツは孫堅を高く評価してたモンな」
F「正史本文では『母を連れて舒に移住した』となっている。三公の一・太尉を2名出した周家は割と裕福だったが、孫堅の家族に屋敷のひとつを提供して、必要な物は私財から分け与えたとある。のちに魯粛が周瑜に同じようなことをしていることで判る通り、それくらい孫堅と孫家を高く評価し、入れ込んだと云えよう」
A「朱儁推薦の孫堅の家族だけに、かなりの厚遇をしたと」
ヤスの妻「妥当な発想かな」
M「幼い周瑜クンが運命の恋人を求めて赴いたと考える方が、絵にはなるンだけどねェ」
夫「無視するが、それでも周家が孫策に生涯の盟友を与えたのは事実のようだ。周忠の孫(次男の息子)にあたる周瑜が同い年だったので、遊び相手としてちょうどいいとでも考えたようで、近づけたところ仲良くなった、と。周瑜伝では、孫堅は反董卓連合に従軍するため家族を舒に送ったことになっているが、前後の状況からして孫策伝を優先する」
弟「断金の交わり、じゃね」
妻「交わりっ……! まじわりと書いてまぐわりと読むのが腐女子の掟……!」
Y「腐女子のアタマの妄想フィルタは、外した方が静かなのか、つけたままの方が静かなのか」
F「このヒトに関しては外した方が静かですがね……頭痛ェ。ところが、周瑜との蜜月はあっさり終わりを告げた。父孫堅が、荊州で劉表と戦い、あっさり討ち死にしてしまったのね。192年のことなんだが、演義ではその戦闘に孫策が従軍していて、『私釈』でもそう講釈したけど、実際には従軍していなかったようでな」
A「お前も蜜月云うな!」
F「伝染ったかな……? さっき云ったが、孫堅は黄巾討伐のために朱儁に駆り出された。が、そのあとは朱儁の代理で涼州の兵乱、次いで長沙太守に任じられて南荊州の叛乱鎮圧、さらには反董卓連合に従軍して……と、孫策や家族を引き取った形跡がないンだ。危険な任地に連れて行くよりはと、そのまま周家に預けられたままだったようでな」
A「思えば戦い続けた人生だからな」
F「従軍していたのは孫堅の兄の子にあたる孫賁(ソンフン)だ。この頃尚書郎だった桓階(カンカイ)は、父が死んだので郷里に帰っていたンだけど、郷里は長沙で、太守の孫堅に孝廉に推挙された、という経歴の持ち主なんだ。ために、劉表と直談判して孫堅の死体をもらいうけると、孫賁に引き渡している。孫賁は軍勢を率いて死体を守り、揚州に帰還した」
A「演義では孫策がやったことは、正史だと別のヒトがやっているワケか」
F「うむ。で、孫賁が袁術の下につくと、孫策もそれに従って袁術配下になっている。というか、孫賁が孫堅の後を継いだと認識されていたようで、袁術は孫賁を使って揚州を版図に加えようとしていた。まだ若年の孫策には、孫賁から孫家の家督を取り返す実力はなかったワケだ」
A「……かなり意外な展開なんですが」
F「この頃の孫策が袁術の下で不遇をかこっていた、のは有名な話だろうが。『私釈』でも触れたが『あの地を攻略したら太守にするよ』と云われて、攻め落としても太守にはなれない、というのが続いたンだ。かつて青春時代を過ごした廬江郡の太守は陸康(リクコウ)と云って、陸遜の父のいとこにあたるが、これを攻めて殺している」
A「おいおいっ!?」
F「陸康の一族で郡内の県令をしていた者が、賊に襲われて長沙太守の孫堅に助けられた、ということがあってな。ところが孫策が陸康を訪ねても、陸康は会わずに部下に応対させている。これが頭に来ていたので『今度はちゃんと廬江の太守にしてあげる!』とけしかけられた孫策は、陸康を攻め殺しているが、やはり口約束は反故にされた、と」
A「袁術はこれだから……」
F「だが、当時の孫策はその程度の存在でしかなかったのは判っただろう? 袁術のみならず、孫堅に恩のある陸康にも軽く扱われていた。さらに云えば、孫策が袁術の下についたのは孫策自身の家族、つまり孫堅の遺族を養うためだが、孫家一族そのものは孫堅の弟の孫静が率いて呉郡に残っている」
Y「一族は孫静、軍は孫賁が率いていて、孫策の手元にいたのは遺族だけ? 完全な没落生活だな」
F「というわけで、鬱屈しつつも、袁術に従い続けるしかなかったワケだ。地力をつけて見返すまでは、袁術の下から逃げられない。その辺の事情を袁術もわきまえていたようで、孫策をクチでは高く評価しつつも頤使していた、と。だが、そんな孫策にある日転機がやってきた」


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