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History Members 三国志編 第30回
「世知辛い世紀末に現れた一筋の流れ星はヒャッハーと笑いながら落ちていったというオハナシ」 後編

F「曲阿に入った孫策は、劉繇の敗残兵を自軍に編入し、組織を再編成している。その過程で太史慈を、自ら兵を出して打ち破って生け捕っているが、その辺のエピソードは本人の回に流すことにして。忘れていると悪いから確認するが、この頃の孫策はまだ袁術の配下だった。劉繇を討ち丹楊郡を攻略したと報告しなければならない」
Y「必要だろうな、そりゃ」
F「そこで、孫策が袁術のところに送り込んだのが、孫賁と呉景だった」
A「……厄介払いですかね」
F「袁術軍の揚州方面軍司令官は、いちおう呉景だった。そもそも袁術が任じた丹楊太守が呉景で、孫賁でも役職としてはその下だったから。ところが、正規の揚州刺史の劉繇がこれを打ち破ったことで、朝廷は周尚を丹楊太守に任じることができた。まぁ、周尚が具体的に何をしたという記述はなく、甥の周瑜は劉繇に敵対したが」
A「朝廷の人事が裏目に出た、と」
F「周家の狙いはそこにあったと僕は見ているが、そんなワケで、この頃の丹楊を誰が治めていいのかというのは割と微妙なんだ。実効支配しているのは孫策だが太守は周尚で、呉景も『俺は袁術様からこの地の裁量を任されたンだぞ!』と強弁できる立場にはある。となれば、孫策としては呉景と孫賁を丹楊から離さなければならない」
A「袁術が『呉景に任せていちど帰っておいで』と云いだす前に、だな」
F「そゆこと。かくて孫策は、ふたりを袁術の下に送りだすと軍を南下させ、呉郡と会稽郡の攻略に乗り出した。呉郡には朱治を送って許貢を倒し、自らは呼び寄せた孫静とともに王朗治める会稽郡を攻めている。敗れた王朗は東シナ海を海路で南下して交州に逃げ込もうとする、という劉繇と同じことを考えた」
A「誰か止めてやれよ……」
F「『交州まで行ってどこに身を寄せるンですか』といさめたのは虞翻(グホン)だった。台湾の向かいくらいになる東冶(とうや、地図F)まで南下していた王朗は、それでも追ってきた孫策にまた敗れたので、虞翻を孫策のところに送って降伏を申し入れ、自らも出頭している。これによって、孫策は丹楊・呉・会稽とみっつの郡を得たことになる。……のだが」
A「のだが?」
F「そうなると、袁術が何をするのかは周知の通りと云っていいだろう。いちばん手近な丹楊郡に、自分の親族の袁胤(エンイン)を太守として送り込んできた。いつも通り『あ、攻め取ったの? じゃぁ、こっちで太守決めるからキミは帰ってきな』と云いだしたワケだ」
A「孫策への態度がなにも変わっちゃいないワケか」
F「孫策としても、南下している最中に祖郎辺りが背後を脅かしたらまずいので、周尚のもとに周瑜を残していた。だが、周瑜(と周尚)は袁術の決定に従い、袁胤に丹楊を明け渡して寿春に移っている」
A「美周郎でも、まだ袁術には敵対すべきではないと考えたのか」
F「そうでもない。孫策は兵を出して袁胤を放逐し、丹楊を奪い返しているンだ。さらに、長江北岸の歴陽(れきよう、地図C)に兵を送って袁術への敵対姿勢を剥きだした。自分で得た土地を今度こそ渡すものか、という姿勢が見えている」
A「いいのか? そんな強気に出て」
F「この頃の袁術は、陶謙の死と呂布の介入で生じた徐州の混乱にちょっかい出していて、揚州にそれほど意識を割いていなかったようなんだ。袁術が孫策を『あんな息子がいればなぁ』と云っていたのは有名だが、どうも袁術は、本当に孫策を息子と考えていたのがうかがえる。息子が得た土地を親がもらってやるぞ、ありがたく思え、とな」
Y「……この一件に関しては、お前の親子観は間違っていないな」
A「救われねェ、誰も……。でも、孫賁か呉景が攻めてこないか? 孫策の行いの責任をとれって。血で血を洗う真似は避けたいところなんだけど」
F「歴陽に送った兵を率いていたのは、孫賁の弟の孫輔(ソンホ)でな」
A「……孫策の側には血で血を洗う覚悟はできていた、と」
F「さてどうするね、と云わんばかりの孫策の態度に、呉景はあっさりと孫策のところに逃げ込んでいる。そのせいで孫賁は袁術からにらまれたようだが、妻子を捨ててやっとこ逃亡。孫策の側は袁術を親とは思っていなかったワケだ。僕なら、思っていても公然と戦争できるがな」
A「云わなくてよろしい……」
F「こうなれば、周瑜が寿春に移った理由も判ろう。呉景や孫賁が逃げたのを見届けた周瑜も、県令になりたいと袁術に申し出て、外地に出されると魯粛を連れて孫策のもとに帰還している。ふたりが袁術の下から逃げられたのには周瑜の手引きがあったと考えてよさそうだ。なお、周尚のその後に関する記述はない」
Y「一連のどさくさで死んだというワケじゃなさそうだが、まぁ何の功績もなく人生を終えたというところかね」
F「周忠もそうなんだが、どうにも周家はいまひとつ頼りないところがあるからなぁ。これにはさすがの袁術でも怒り心頭で、祖郎に官位を与えて丹楊で叛乱を起こさせる。また、陳珪老のいとこにあたる陳瑀(チンウ、袂を分かったもと袁術配下)が、厳白虎と組んで兵をあげたモンだから、孫策は東西に敵を抱えることになってしまった」
A「さぁ大変、というところか」
F「だが、孫策は慌てなかった。一軍を割いて陳瑀を攻撃させると、自らは祖郎の討伐に向かった。いつも通り先陣に立っていたようであっさり包囲され、孫策の乗った馬の鞍に祖郎の刀が喰いこんだりしている」
A「お前、何やっとんね!?」
F「程普がからくも救い出して、何とか打ち破ったけどね。で、陳瑀も部下が平定していたので、残る厳白虎にも自ら討伐に乗り出している。さすがにこの段階では厳白虎も時流が読めていて、弟の厳輿(ゲンヨ)を孫策のもとに送って和睦を求めたところ、孫策はサシでの会談に応じている」
A「まぁ、態度としては間違いではないだろうね」
F「間違っていたのは、交渉が通じる相手じゃなかったことでな。厳輿が席につくと、孫策は『お前さんは、身のこなしが抜群だそうじゃないか』と抜き身のダンビラでカーペットに斬りつけ、震え上がった厳輿が『いや、刃物を見ると身体が動くンですよ』と応じると、手戟でブっ殺している」
Y「なんだ、太史慈に返してなかったのか」
A「そーいう問題じゃねーでしょーが……」
F「弟頼みの厳白虎軍はこれで戦意喪失して、あっさり打ち破られている。会稽攻めの前に、呉景たちは先に厳白虎を討つのを考えたンだが、孫策は『あんな奴はただの群盗で、いつでも倒せる』と豪語して相手にしなかった。それが事実だったというワケでな」
A「しかし、戦場でも使者には手を出さないのが筋じゃなかったか?」
F「孫策は、かなりこういう男なんだ。いつぞや触れた通り、揚州における後漢の影響力は割と弱く、都市部ならまだしも山間部では山越の勢力がはびこっていた。ために、劉繇も王朗も追い詰められると、山越を恐れて陸路ではなく水路・海路での逃亡を余儀なくされている」
A「ふむ……」
F「孫策が兵を入れたのはそんな危険地域。それだけに、笮融や厳白虎相手には道理を用いずに、大航海時代の白人宣教師じみた態度をとっている。従うならそれでよし、逆らう奴は殺すという態度でな。態度としてはどうかと思うが、成果そのものは認めざるを得ない」
Y「江南生まれとはいえ所詮は漢民族か」
F「まぁ、本人の性格と云ってしまえばそれまでなんだがな。……さて、ちょっと長くなりすぎたかな? さすがに孫策では一筋縄でいかんとは思っていたが、ここまで時間がかかるとは」
A「スペシャル版のペースだよなぁ」
F「じゃぁ、ここらでところでと締めに入ろう。ここまでで見てきて判るように、孫策という男は戦上手と呼んでいい。どこまで強いかは評価が難しいところだが、純軍事的には父を凌いでいたと評価していいと思う」
A「だな」
F「だが、曹操と戦えばまず負ける。曹操は、たとえ自軍が壊滅しかけて息子や甥が死んだとしても自分は逃げ延びる男だが、孫策は先陣に立つから、顔良よろしくそのまま討ち取られる危険性があるンだよ」
A「……まぁ、曹操は、祖郎や太史慈のようには甘くないからなぁ」
F「そゆこと。ただし、孫策軍の強さの一因はそこにある。将自ら陣頭に立って指揮を執るから、兵の士気は上がるンだ。孫子は『武勇に頼るな、勢いに乗せろ』と云っているが、孫策は自分の武勇で兵に勢いをもたせたと云える」
Y「それで張紘に怒られた記述があるがな。孫権も、のちに同じことをして張昭に怒られているから、張昭にも怒られたと考えていいだろうし」
F「うん、その通りなんだ。実は、正史の記述をしっかり見ると、孫策は足に障害があった可能性があってな」
A「へ?」
F「笮融攻めのとき流れ矢にあたって負傷したのは正史の注に書かれてある。それを利用して、死んだという誤報で笮融の兵を陣地から引っぱり出しているンだが、この傷が治っていないのか、祖郎との戦闘で包囲されて程普に助けられている。また、偵察の途中で太史慈に出くわして、そのままタイマン張っているのも常識で考えると変だ」
Y「配下の隊長クラスならまだしも、主将自ら相手はしないだろうな」
F「そゆこと。普通なら、孫策は逃がして黄蓋たちが足止めするだろう。これだって、孫策を逃がそうとしたものの太史慈に囲みを破られて追いつかれてのことだった、とも考えられる。それで戦闘ができるのかは微妙なモンだが、少なくともうまく馬を使えなかったのは確かだ」
A「シャレになってないな……」
F「孫策はそういう男だった。自分が傷ついてでも戦場に立つことで兵を奮い立たせ、敵を打ち破ってきた。それによって連勝を続ける一方で、思わぬ事態を呼び起こしている。名と顔が知れ渡っていたンだ。劉繇軍で冷や飯喰っていた太史慈が孫策の顔を知っていたのは、その辺が原因だろう」
A「狙うにはあまりにも狙いやすい、ということか」
F「結局、そういう次第で死んでいるンだから。先陣に立っているせいで、兵の信頼と声望を集める半面、敵からの怨嗟も一身に引き受けた。攻略には武勇と智略の限りを尽くすが、そのあとのことには割と無頓着で、王晟を討ったときは一族郎党皆殺しにして『お前、そこまで殺らなくても……』と母にいさめられている」
Y「生かしておくと何をしでかすか判らないから皆殺しにするのは、必ずしも間違いではないからなぁ」
A「間違ってるよ!」
F「いや、使い方次第だ。繰り返すが、もともとこの辺りは漢王朝の支配力があまり強くなかった。だから『俺に逆らう奴ァただじゃ済まんぞ』と一罰百戒的な言動をとるのは間違いではない。王晟本人は逃がしたことからも、一族郎党殺し尽くしたのは見せしめだったと考えれば、それほどずれちゃいない」
A「ぐっ……」
F「だが、孫策はその辺りの政治宣伝で殺っていたというよりは、本人の性格で殺ったように思えるンだ」
Y「孫策が根っからのひと殺しだと考えるのは『真・恋姫』のヤりすぎだと思う」
F「張紘がどういう経緯で孫策に仕えたのかは以前触れてあるな。母の喪に服している張紘のところに乗り込んで、鼻水たらして泣き落したンだが、どうも張昭も似たようなモンだったようで、生きている張昭の母にご挨拶していたという記述がある。挨拶の内容も推して知るべしというところだろう」
A「……自ら赴いたのはともかく、態度そのものはよろしくないンだったな」
F「実は、はっきり云ってある。僕は『HM』はじめてから基本的に『人物』という云い方を続けているけど、今回、孫策については『呉の二代め武将』と云っていた。孫策は武将なんだよ。少なくとも、本人は自分のことを武将だと考えていたとしか思えない言動が目立つ。二張への対応しかり、戦場でやってることしかり」
Y「またいつも通り、本当のことを云ってヒトを騙す……」
A「将たる自覚はともかく、主君としての自覚はなかった?」
F「主君と呼べるほどの影響力もなかったしな。その辺りがけっこう如実に表れているのが武官人事だ。孫堅から受け継いだ朱治たちはさておき、孫策自身が登用した面子は割と非道い。周泰蒋欽は孫策の側近から小隊長に抜擢されたが、もとは無官だった。呂蒙もそういう経緯だが、コイツに至っては囚人だったのを助けられて仕えるに至っている」
A「実力主義、ということか? それなら悪いことじゃないと思うが」
F「孫策に見る目があるのは事実なんだが、孫策時代に登用された武官にも文官にも、揚州出身者がほとんどいないというのは常々云われていたことだ。賀斉なんかはある程度体制が固まってから仕えているが、揚州出身の文官なんて、陸康の息子の陸績(リクセキ)くらいしかいなかった。コイツはコイツで孫権の時代に『私は漢の臣下です』と書を記して、早死にしているンだが」
A「どー考えても孫権に殺されてないか!?」
Y「血筋で云っても、孫策に仕えたというより、孫策に拉致されたようにしか思えんしなぁ」
F「どうにも孫策は、江東の士人の評価を得られなかったようなんだ。厳白虎はともかく、劉繇や王朗は正規の官職にあったンだから、それを討てば叛逆者ととられてもおかしくない。そもそも孫策は、揚州に入ってきた当時は袁術の旗を掲げていた。その袁術が自滅したとはいえ、揚州の民衆から見れば孫策は袁術の息子も同じでな」
Y「それじゃ、呉の名士はなびかんわな」
A「いつまでも、孫堅からの家督継承が上手くいかなかったのが響いているなぁ……」
F「だからこそ『逆らう奴は叩き潰す』的な所業を繰り返さざるを得なかったワケだ。士人との折衝は自分では行わずに二張や孫権に任せていた感がある。つまり『俺は戦場に出て天下を競うから、お前は賢者をよく使って江東を守れ』という態度だ。その体制を維持できれば、呉はどこまで大きくなったのか……というのは興味深い」
A「まぁ、な。孫権でなく孫策が呉を率いていたらどうなったか」
F「だが、孫策は死んだ。なぜ死んだのかは周知の通りで、曹操が官渡で袁紹と相対している最中に、兵を挙げて許昌(きょしょう、当時の曹操領本拠)を狙おうとしたため暗殺された……ということになっている。まぁ、その辺の真偽を僕が追及すると割と評判が悪いので繰り返さないが、実際に、孫策が死んだことの一因を担っている人物については当時触れていなかった」
Y「誰だ?」
F「呉国太」
A「母親!? 待て、何で母親まで孫策暗殺にかかわる!?」
F「いや、云い方が悪かった。この母親が余計な口出しをしたせいで、結果として孫策は殺されているンだ。曹操に『孫策は項羽みたいな奴です』という書状を送ったから許貢を殺したが、先に王晟の一族郎党皆殺しにしたのを母にとがめられていた。ために今度は、逃げた許貢の末の息子や食客を殺さなかったところ、そいつらに襲撃されているンだから」
Y「……一概に呉国太を悪くは云えんが、無関係とも云えんなぁ」
A「責任があるかないかで云えば、あるよ……それは間違いない」
F「結局のところ、孫策が生き急ぎ、そしてあっさり死んだのには、孫堅からの家督継承が上手くいかなかったのと、次の父たる袁術の悪名を継いだこと、そして母の呉国太の悪影響があったと云える。子が親を選べないという神がヒトに科した最悪の試練を、孫策は、孫策でも乗り越えられなかったということになる。羅貫中も編纂にかかわったという水滸伝にも小覇王の綽名をもつ周通(シュウトウ)がいるが、アレを見ても判る通り、小覇王は項羽に及ばない。項羽ならば許貢の子供や食客が生き残ることはなかった」
A「ただ強いだけ……か」
F「常に先頭に立つことで兵の士気を高め、名と顔を江東に知れ渡らせた孫策は、その強さがある種の脆さとなって我が身に降りかかる火の粉を払えなかった。江東を攻略はしても統治はできず、結局人心を得られなかったと云える。後を継いだ孫権が興した国が豪族の集合政権に近かったのは、そんな失敗を反省してのことだったかもしれない」
A2「……花は散る散る桜は枯れる、ぶどうの酒もいずれは尽きる」
Y「だから、それ別のゲームだ」
F「続きは次回の講釈で」


孫策(そんさく) 字は伯符(はくふ)
175〜200年(父を超えるべく走り続けてコケた)
武勇6智略4運営2魅力5
揚州呉郡出身の、呉の礎を切り開いた武将。演義に曰く「小覇王」。
江東を力で制圧し孫家躍進の足がかりを築いたが、根が単なる武将の域を出ず、刺客の手にかかって短い人生を終えた。


津島屋幸運堂は『真・恋姫†無双 萌将伝』を応援しています。
真・恋姫†無双〜萌将伝〜応援中!

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