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私釈三国志 120 孫権即位

6 多数死去
F「さすがに長くなったのでページ分割。さて、今までずっとほったらかしていたが、正史での太史慈は206年に死んでいる」
A「赤壁の前なんだ。死因は?」
F「曹操から『当帰(我が軍に来ないかい?)』という手紙が届いて数年後、41歳で死去。臨終に際して『男に生まれたのに天下を盗らずに死んじまうのか、俺は!?』と云い遺している」
A「……わざと怪しまれるような云い方してませんか?」
Y「まぁ、正史に書いてある通りは書いてある通りなんだが……」
F「実際のところ、太史慈には劉繇が敗走してから自立した群雄だった時期があってな。孫策の討伐を受けて降り、劉表への抑えを張っていたンだ。例の手紙を受け取ったのは孫策存命の頃だが、死んだのが206年というのは、それが発覚するのに時間がかかった……という見方もできる」
Y「正直、この男に関しては粛清説を認めるぞ。演義ではともかく、正史では割と野心家だからな」
F「陳寿も思うところがあったようで、劉繇や士燮といった孫家に敵対していた君主たちと同じ巻に、太史慈の伝を立てている。ちなみに、太史慈は若かりし日、母が世話になった孔融を救うべく劉備に直接の借りを作っている。これも割と無視できないように思える」
A「……魏・蜀に通じている可能性があったワケか」
F「通じる、といえば"二張"の張紘だな。この男をして加来氏は例の『孔明の野望』で『呉における親曹操派の筆頭』と評している。先に見た通り、いち時期曹操の下にいたことでも判るように、それは正しいと思う」
Y「それじゃ先の当帰同様、孫権に目をつけられても仕方ないのか」
F「虞翻も疑わしいひとりで、もともと王朗の配下だ。偏屈で知られ、糜芳や于禁をボロクソにけなしたのみならず、酒の席で孫権をないがしろにしたモンだから『曹操は孔融を殺したのに、どうして俺は虞翻を殺せんのだ!?』と逆鱗させている。ついに張昭まで罵倒したモンだから、即位の頃には交州送りになっていた」
A「黄蓋や程普はどうなんだ?」
F「両者とも病死したようだな。えーっと、まず程普だが、彼は孫堅の代から仕えた武将では最年長だったとある。周瑜とともに赤壁で功績をあげたのち、周瑜の後任として南郡に張っていたが病死した」
Y「死ぬ百日あまり前には、叛逆者数百人を火の中に飛び込ませて処刑しているな」
F「黄蓋は赤壁のあと、武陵・長沙の叛乱を平定してから病死。いずれも正確な没年は不明。ふたりとも赤壁で功績をあげたことと病死していることから、疑えば疑える。ただ、呉国内にあって孫一族に次ぐ重鎮(孫家一門衆を除くといちばんの昇進を果たした)朱治は、69で死去している」
Y「孫堅時代からの宿老でも、前線で手柄を立てたのと後方を守っていたのとでは扱いが違うのかね?」
F「たぶんな。蒋欽も病死したひとりで、こちらは関羽戦役から帰還する途中での死去。このように、孫堅・孫策の代から呉に仕えていた武将には『病死』している者が多い。それも、功績をあげたか後任ができたかのタイミングで」
Y「使い捨て……ねェ」
A「怪しいと思って見ると怪しく見えるのは確かだね」
F「一方で、怪しくないのが甘寧だ。アレは益州で水賊をしていたが、20年くらいして劉表を経て黄祖に降っている。それから数年(淩操を討ってから呉に走ったのは5年後)して孫権に仕え、死んだのが13年後。15で水賊始めたにしても、少なくとも53歳だ。当時の水準では若くして亡くなったとは云えない数字でな」
A「……ただの老衰ですか」
F「だから羅貫中は戦死イベントを組んだンだろうな、きっと。賀斉は山越討伐に必要不可欠、全jは娘婿、淩統は孫権をかばって死んだ淩操の忘れ形見、丁奉は271年に亡くなっているンだからひと世代は若い。怪しくないのも多いが、暗殺・謀殺・粛清されたように見える奴はもっと多いワケだ」
A「確かに、これだけ列挙されると怪しくは見える……」
Y「待て。道具は?」
A「何の?」
F「粛清の。でも、道具を持っていたからって、それだけで罪に問えるワケじゃないと云っているだろうが」
Y「だが、腕が肩から上に上がらんお前には、樹上の李を盗ることはできん。孫権が家臣たちを『病死』させたのなら、それを実行したのは誰だ? 毒の扱いに長けた者が、孫権の配下にいたのか?」
F「いた、と僕は見ている。その誰かは、第一に孫堅ないし孫策の時代から孫家に仕え、第二に孫権の信任が篤い。そして第三に、演義において毒ないし薬を扱えるエピソードが挿入されている。そんな武将だ」
Y「……第三がよく判らん」
F「羅貫中は孫権を劉邦になぞらえて演義を編纂した。ということは、演義に採用されたエピソードの中に、家臣団粛清の実行犯も秘められていると考えるべきだろう」
Y「今から演義を読み返せと云うのか?」
A「……その条件みっつとも満たしているのが、いるけど」
Y「早いな!?」
F「ほれ、正史。4巻と7巻な」
Y「4巻? 呉書は6巻から8巻だろうが」
F「必要なのは、魏書の終盤に掲載されているものだ。結論から云えば、アキラの考えたそいつだと、僕も見ている」
Y「誰なんだ?」
A「周泰……」
F「演義で採用された、孫権をかばって重傷を負った周泰が華佗に治療されるエピソードは、正史華佗伝(ちくま学芸文庫4巻収録)にも周泰伝(同7巻収録)にも、ない」
A「孫策の代から孫家に仕え、請われて孫権付きになり、演義では華佗に治療されていることから、事後療養のために自分でも薬の扱いはできると考えていい……」
F「加えて、ある程度の地位にある。孫権の側近たる将軍が、他の将軍の見舞いに訪れても不審はあるまい? そうやって孫権は、気に入らない走狗たちを煮て回ったように思える。正直、羅貫中がなぜ周泰が華佗に診察されるエピソードを採用したのか、そうでも考えなければ説明ができんのだ」
A「薬も過ぎれば毒になる……周泰は、毒を扱えると暗示するため」
F「そこで思い出してほしいのが張遼だ。病身とはいえ張遼を、孫権が恐れていたのは101回で見た通り」

 ――いくら病気だからって、相手は張遼だ。絶対に敵対するな。いいな、気をつけろよ!

F「周泰がすでに死んでいたと考えている傍証がコレだ。薬殺のエキスパートたる周泰が死んでしまったために、張遼を殺した自信がなかったンじゃなかろうか」
A「でも、孫権が張遼を恐れていたなら、合肥の敗戦後すぐに手を打つンじゃないか?」
F「どうやって?」
A「それは俺が聞きたいよ!」
F「たとえば曹操なら、確実に自分で手に取る関羽の首に毒を仕込んで送りつければいいが、張遼に薬殺する隙があるかと云えばどう考えても難しい。暗殺の研究はしているが、国境を守る主将を殺すとなると極めて困難だぞ? 張遼の防諜能力の高さは演義でも評価されていて、太史慈の死因は張遼に罠をかけようとしてのカウンターだ」
Y「……待て。夏侯惇も毒殺の疑いありと79回で云っていたのはそれか?」
F「この手段なら相次いで死んでも『関羽の祟り』で済ませられる。共犯者がいるような気もするし」
Y「張遼はともかく……そうか、それで曹操があっさり関羽の後を追ったように見えるのか。動機、手段、被害者、道具、いずれもあるな。信憑性はずいぶん乏しいが、節としては通る」
A「気持ちと理屈は判った……」
F「ここぞとばかりに云おう。ところで、韓綜は本当に悪かったのだろうか」
A「ここでそんなの来たー!?」
Y「孫堅四天王・韓当の息子でありながら呉を捨てた男、か」
F「裴松之は否定的だが、許貢の食客は韓当の兵と名乗って孫策に近づいたとの記述がある。韓綜が悪いという正史の記述は、どうにも疑わしく思える。僕の気持ちと理屈も判ってもらえると思う」
A「これだけ事例が居並んでちゃな……」

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