私釈三国志 120 孫権即位
4 権謀術数
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うっかり長兄「……てっきり、三国志平話で黥布が孫権に転生していることを挙げて、黥布の裏切りで項羽が滅亡したことを理由にすると思っていたンだが」
F「おいおい、それがどうして孫権が孫策を殺すことにつながるンだ? 今までに三国志平話について語れなかったのは関係がないからだぞ」
A「孫権が殺ったってオハナシこそが、いまだに信じがたいンだが」
F「順を追ってみていく。孫策をして小覇王(覇王=項羽)と呼んだのは羅貫中だ。正史には直接のそんな表現はないが、孫策伝の注に引かれた江表伝に『孫策は武に通じ、項羽の風格がございます』という記述がある。それを発展させて、この称号を与えたンだろう」
A「誰の台詞?」
F「ひともあろうか、孫策暗殺の主犯たる許貢だ」
A「……笑っていいか?」
F「孫策時代の孫呉と曹操陣営が友好的な関係にあったのは以前見た通りだ。同じ頃に袁家が最盛期を迎えていたから、曹操としては孫策まで敵に回して東にも憂いを抱くわけにはいかなかった。そこで、さまざまな手段をもって孫策を手懐けようとしている。基本的には婚姻政策だが」
A「当時だと、孫策の子供はまだ若かったよな?」
F「うん、ためにターゲットは弟たち。末の弟(四男)には弟の娘をくっつけ、孫権と直下の弟(三男)を手元に招いて官職につけている。また、息子のひとりに孫賁(孫堅の甥、策・権のいとこ)の娘を娶らせてもいる」
A「一族丸囲いを目論んだのかね?」
Y「曹操が『狂犬とケンカができるか!』と大声を上げ、孫策の江東攻略を悔やんだともあるがな」
F「つまり、曹操にすれば、孫呉の当主は孫策でなければ誰でもいい情勢だったワケだ。となれば『人並み外れた風貌をもち、高貴な位にのぼる兆しが見え、寿命でも他兄弟より長生きする』孫権が眼につく」
Y「宮廷に仕えたことがあり、のちに敵対しても気遣うような書を送るほど可愛がっていた者なら、都合がいいワケか」
F「200年当時に孫策は、江東に領土を得ていた。だが、さっき云ったがその領土は、揚州内部でも五郡のみ。しかも、領内にはまつろわぬ山越の民が数多く居住している。それだけに生き残るための戦いは相次いだだろうから兵はいやでも精強になり、孫策自身の指揮能力と相まって無視できない勢力となっていた」
A「潜在的な強敵と判断した曹操は、その勢力を謀略で崩すことを目論んだ……のか」
F「孫権が野心家だったのを否定する者はいないだろうな。小なりとはいえ曹操が恐れる勢力のヘッドを張れるなら、兄を謀殺するくらいやりかねない……と考えられんか」
Y「動機としては充分だが、手段としてはどうだ? お前がいつぞや云っていた、犯罪が成立する条件だが」
F「この場合の手段となるのが、肝心の許貢だ。正史の記述を総合すると、この男、呉郡の都尉だったが孫策の江東攻略と同じくらいに太守の座をのっとって、朱治と一戦交えるも打ち破られた。厳白虎のもとに逃げたものの、その厳白虎も敗れたモンだから降伏し、呉郡の太守に返り咲く。ところが、曹操に通じたり食客を集めたりの頻繁な活動が孫策の眼に触れ、結局殺されている」
A「察するに、曹操派の武将か?」
F「いち時期曹操に仕え、孫堅と豫州を賭けて戦った武将を直接殺したのが許貢なんだ。それでいて曹操に『"小覇王"を宮廷に召さないと危険ですぜ』と上奏したことを、孫策は裏切りと考えて処断した」
Y「……評価が難しいな」
F「曹操に通じていたのは事実なんだが、どういう経緯で呉郡太守に返り咲いたのか判らんのだ。曹操の横槍だとしたら、その時点(196年くらい)から曹操は謀略のタネを仕込んでいたことになる」
A「ありそう」
F「曹操ならやりかねない、と思うのは悪意ではないだろう。目的のために手段を選ぶのは浅はかだ。かくて孫策は許貢を殺したところ、その食客に襲われ呆気なく世を去った。200年4月のことだが、このとき曹操は江東に兵を出すことを考え、だが当時曹操のもとにいた張紘から『喪にある軍を攻めるのはどうかと……』といさめられて、むしろ孫権を手懐けることを選んでいる」
Y「……前後関係だけを見るなら、曹操と孫権が許貢を間に挟んで結託していたようには見える。動機・手段はいいだろう。では、被害者は? 孫策は孫権を警戒していたのか?」
F「実は、孫権に国を任せようとしていたようでな」
A「へ?」
F「孫策が孫権を『天下は盗れんが国を富ませる手腕では上だ』と評価していたのは36回で見た。事実、宴を開くと招いた客をして『彼らはいずれお前の家臣となる』と孫権に云っている」
Y「正史にあった台詞だな。孫権の政治手腕を認めていたワケか」
F「このエピソードの発生時期は不明だが、孫策の子がすでに生まれていたなら、それをさしおいて孫権に後を継がせるつもりだった、とも見える。それでいて、孫堅が死んだ折にはその爵位を自分では継がず、末の弟(堅四男)に譲っている。また、先に見たようにいとこや三男も曹操から眼をかけられていた」
A「……孫策がいなくても孫一家が成り立つよう手を打っていたようにも見える、と?」
F「孫策は孫堅を超えたかった。それは間違いない。だが、超えたあとでどうするのかまで考えていたのかもしれん。国そのものは孫権にゆだね、自身はあくまで前線にあり続けようとしていた。ところが兄の心弟知らず。孫策がそれを口に出していなかったのか、それとも『兄の下で領国統治に専念した孝行弟』より『兄の後を継いで国を支えた孝行弟』のがいいと考えたのか、孫権は許貢の残党をけしかけて孫策を殺させた。……そう思える」
Y「どうしてそう思える? 息子よりも孫権を評価していた証拠はあるか?」
F「ある」
Y「……拝聴しよう」
F「孫堅の三男と四男、つまり策・権の弟ふたりだが、その字がすこぶるつきなんだ。確認してみろ」
Y「いつも通りだが、名を出さないのは何でだ? えーっと、三男・翊、字が……叔弼。四男・匡、字が……季佐!?」
F「伯仲叔季のルーティンはともかく、ふたり併せて佐弼だぞ。最初から下の弟ふたりは補佐役に回すと公言しているに等しい。それなのに孫権だけはちゃんとした字だ」
Y「いや、だが孫策が弟の字をつけたと……」
F「孫堅が死んだのは孫権でも十歳の時だぞ。その弟ならさらに若い(翊は年子)し、孫策の息子も生まれていない。当然、字を名乗る頃には父が生きておらず、代わりに孫策ないし孫策の意を汲む者が名付け親になった公算は高い」
Y「……名や字には明確なルールがある、だったか」
F「まとめると、孫策が江東に領土を得たのを警戒した曹操は、弟たちと婚姻し、また、孫権を宮廷に招いて手懐けた。このとき孫権を可愛がっていた曹操は、多少のリップサービスを含めて、孫策に孫権を高く評価して伝える」
A「それを聞いた孫策は、自分は『軍勢を率い天下に覇を競』い、『賢才を用い国を富ませること』は孫権に任せることにした……」
F「爵位のことを考えると、いち時期はその役割を末の弟に期待していたようだな。ところが200年、袁紹との対決に集中したい曹操は、孫権に孫策暗殺を指示。タイミングよく処刑された許貢の食客をけしかけ、孫策を殺す」
Y「孫権が、孫策の死後に泣いたのは?」
F「孫権が聞いていなかったなら『嗚呼殺っちまったよ……!』の涙で、野心なら『ザマぁみろ』な涙だろう。ちなみに、孫権は帝位についたとき、父孫堅にはさかのぼって帝位を追贈しているが、孫策には荊州の王号を贈ったのみ」
A「過分に意思が明らかだな」
F「どちらにせよ、哭している孫権を、張昭は『今のご時世、内からも外からも謀略が途絶えないのに、泣いていてどうしますか!』と、ほとんど関与を自供しているような台詞で怒鳴りつけ、喪服を脱がせると馬に乗せ、そのまま軍の視察に向かわせた」
A「……ちょっと非道くないか?」
F「なお、正史には張昭が『服を着せた』という記述はない」
A「着せたと思えよ、書いてなくても!」
F「それなのに、僕が行間を読むのには否定的なんだよな、お前たちは」
A「いや……それはそれ、というレベルじゃないかな? うん」
F「さて、項羽を殺したのは誰だっただろう」
2人『………………むぅ』
F「というわけで、羅貫中は孫権に劉邦のイメージを重ねた。なぜか? 項羽を死に追いやったのが劉邦だったからだ。正史の行間から、孫策が孫権に殺されたと考えた羅貫中は、演義の行間にそんなメッセージを仕込み、その疑惑を後世に伝えた……というのは考えすぎだろうか」
A「……はっきり考えすぎだとは思うが、それを口に出せないアキラがここにいる」