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漢楚演義 13 狡兎良狗

F「かくて儒者は死に、儒教の聖地たる魯は、項羽の首を確認してようやく漢に降伏した。西暦では紀元前202年、の正月。始皇帝の大陸統一から、わずか19年後のことであった」
A「まぁ、始皇帝は統一に26年かけたンだから、その意味では悪くない数字なんだけど」
F「だが、マサ君には先人がいなかった……いや、武霊王は惜しかったな」
A「今度は『春秋演義』か!?」
F「やんないやんない。えーっと、始皇帝には先人がいなかったのに、劉邦には始皇帝と項羽がいた。この差を考えると、やはり劉邦の才能は始皇帝に及ばないと云わざるをえんだろうな。現にマサ君は、26年のうち最初の9年間を、秦国内の平定に費やしていたンだから、実質17年で天下を盗ってる」
A「うーん……」
F「2月。皇帝になった劉邦がまず手をつけたのは、論功行賞だった」
Y「またかい」
F「当然だろうな。まず、北国をやると云った韓信は、方針転換して楚全てを割譲し、兵を取り上げ楚王に任命。彭越には東国を与え梁王に。功績の大きかった方から順番に、各地に封じていたンだけど、張良を連れて宮殿を歩いていたある日、将軍たちが庭の片隅に集まっているのを見つけた」

劉邦「……あいつら、何してんのかな?」
張良「あ、ご存知なかったンですか? 叛乱の相談ですよ」
劉邦「何でそうなる!?」
張良「陛下から、功を賞するお達しがなかなか来ませんからね。待ちわびているうちにキレたンでしょう」
劉邦「あーもぉ、ワシにも都合があるってのに……。どうすればいい?」
張良「とりあえず、ひとり侯に封じてしまいましょう。なるべく、陛下が気に入らない男を。あんな奴でも報奨を受けたンだから、自分たちも……と安心するはずです」
劉邦「……よし、雍歯を呼べ」

Y「相変わらず、劉邦の思いきりのよさには呆れ返るな……。よりにもよって故郷の豊で、劉邦に叛乱した男だろ?」
F「この頃には雍歯も漢に仕えていたンだね。そんなわけで諸将は安心して、とりあえず叛乱のオハナシは流れた」
A「……とりあえず?」
F「えーっと、韓信、彭越……黥布だな。コレが淮南王(六から南)。韓王の信・燕王の臧茶・趙王の張耳は残留とされたンだけど、張耳がこの年の七月に死んだので次男(妻は、蹴落とされた劉邦の娘)が趙王になった。蕭何は、関中から途絶えることなく補給を続けたため、功績は天下第一とされ、相国に就任」
A「諸将が文句云うンだよな? 一度も戦場に出なかったのに、どうしてアイツが第一の功なのか、と」
F「対して劉邦は『猟犬が獲物を獲ってきたら、その獲物は飼い主のモノになるだろう。お前たちは犬で蕭何は飼い主だ』と、その文句を退けている。一方、事実上このテロ軍師のおかげで天下が盗れたと云っていい張良には『どこでもいいぞ、三万戸を選べ!』と大盤振る舞いな発言をするンだけど、本人がこれを固辞。留だけを拝領した」
A「……劉邦に拾われた街だっけ?」
F「そゆこと。その後張良は、劉邦は都を洛陽に置いていたンだけど、長安に遷都するように進言し、政治の第一線から身を退いている。理由は健康上のもので『韓の復讐と復興をなし、陛下の知遇を得たからには、もう充分です。この上は仙人でも目指しましょう』と、屋敷にこもって導引にふけっていたという。また、垓下で降伏した項伯には、かつての恩義を忘れず、劉姓を与え侯に列した」
A「こんなことしてるから、諸将が怒るンじゃね?」
F「違いない。……さて、ある宴席でのことだった。酒が入って気分のいい劉邦は、唐突に切り出した」

劉邦「列侯諸将よ、遠慮なく云ってみろ。項羽が天下を失い、ワシが天下を盗ったのは、なぜだろうな」
将「そーですなぁ。陛下は傲慢でヒトを嘲りますが、気前はよかった。項羽はヒトを愛しますが、功を賞せず封地を与えなかった。陛下はヒトに天下と利益を分かちましたが、項羽はヒトを認めなかった。その辺が理由でしょうね」
劉邦「んー、まだまだだな。謀略を運らすコトでワシは張良には及ばん。政治力では蕭何に及ばん。軍を率いることでは韓信に及ばん。これらは英傑だが、ワシはコレらを使いこなした。それが、天下を盗れた理由さ。項羽にもなるほど范増がいたが、野郎は范増ひとりさえ使いこなせなかったンだよ」

Y「……確か韓信が、似たようなことを云ってるよな?」
F「ついでに見ておくか。のちに韓信と劉邦が、ふたりで話した会話なんだけど」

韓信「彭越や黥布は、将として素晴らしい素質を持っていますね。彼らなら、百万の兵でも使いこなせるでしょう」
劉邦「ふむ。じゃぁ、ワシはどうだ?」
韓信「陛下ですか? せいぜい10万がいいところでしょうね」
劉邦「……お前はどうじゃい」
韓信「私なら、多ければ多いほどいいですね」
劉邦「じゃぁ何でお前、ワシに仕えておるのじゃ? 多ければ多いほどいいのじゃろう?」
韓信「陛下には兵を率いる将の才はございませんが、将に将たる才能をお持ちです。それが、私でさえ陛下に敵わなかった理由ですよ。この才能は天授のものですが、まぁ人間業ではありませんね」

A「将に将たる才能……か」
F「俗に云う、君主の器って奴だな。というか、前回さらっと見たけど、孫子に『進言を容れない将は見捨てろ』との名文句がある。この辺りが判っているからこそ、韓信は項羽を見捨て、劉邦をも一度は見捨てたンだけど、乞われて漢に戻ると進言を容れられたから、劉邦に忠誠を誓っている」
A「あまり進言を容れすぎる君主がどれだけ苦労するかは、劉邦の失敗談を見れば明らかなんだが」
F「確かにな。劉邦はよく失敗していた。函谷関を閉じて窮地に陥ったり、彭城で大宴会を催して項羽に負けたり。君主には、正しい進言を見抜く能力が求められる。……だが、鴻門の会がなかったら、劉邦はどうなっていただろう」
A「ん? えーっと……」
Y「……項羽はそのまま関中に入ってきたな。その時点で劉邦が、項羽に勝てるどころか戦うことさえ考えにくい。何事もなく、劉邦は項羽の下につけられただろうな」
A「いちおうは義兄弟だったンだけど、范増の云うことをまだ聞いていたワケだから……下手をすると漢中じゃなくて交州とか并州に流されていたことも考えられるのか」
Y「いや、関中に最初に入った者を王にしろって、懐王が命じていただろうが」
F「函谷関を閉じていなかったら、項羽のために関中を攻略したみたいなかたちになるだろ? 現に樊噲は『項羽を待っていた』って発言してるンだし。どうあがいても関中を拝領されたってコトはないよ。実際に、先鋒になって函谷関を抜いたのに、黥布が与えられたのは南方だったじゃない」
Y「むぅ……」
F「というわけで、もっと悪い事態になっていた可能性があるンだ。天険の地に送られたからこそ、韓信は逃げるのに手間取ったし、張良や張耳も逃げ込んできた。さらに云えば、中原に出るための障害が章邯だったからよかったようなモンで、韓信のいない状態で陳余(+李左車)や黥布と戦闘しても、勝てたかどうか」
Y「一戦してある程度の脅威だと思わせたのが、影響していたわけか」
F「つまり、鴻門の会は歴史的に必要だったンだ。天が劉邦に与えた試練で、それを果たしたから劉邦は漢中に送られた。……だが、彭城の戦いはまずかった。あの時の劉邦は、韓信の進言を完全に忘れていた」
A「……何だっけ?」

韓信「項羽の逆をやればいいのです」

F「劉邦の基本戦略――つーか政略はここに終始する。将兵を信頼して封地を与え、正義を旗頭に戦った結果、天下は劉邦のものになった。この点については、のちに『私釈』でも触れるが、劉備が似たようなことを云っていたな」
A「……すでに触れてなかったか?」
F「詳しくは『劉備玄徳』で見るから。……だが、劉邦は所詮ノンダクレの百姓だったようで、かつて彭城でやった失敗を繰り返している。つまり、天下を盗った途端、周りの進言を忘れて暴走するワケだが」
Y「狡兎死して走狗煮られ……だな」
F「張耳が死んだ七月、臧茶が叛乱を起こしている。これを討った劉邦は、腹心たる盧綰を燕王に任じた。続いて韓信が叛乱を計画しているとの噂に、天下諸侯は楚を討つべく起て! と檄を飛ばす」
A「何でいきなり?」
F「実は、鍾離眛をかくまっていたンだ。以前さらっと触れたけど、韓信は鍾離眛と旧知で、その伝で項梁・項羽に仕えたらしいから」
Y「というか、かくまうなよな。楚の有力武将の、最後のひとりだぞ」
F「韓信という男の本質を語るエピソードがあるンだよ。斉から楚王に配置換えされた韓信が、楚にきてまずやったことは、3人の人物を探し出すことだった。まず、かつて世話になったのにカミさんの態度が気に入らなくて去った亭長を呼び出して『恩を施すなら最後まで続けるべきだった』と、百金を与える。対して洗濯をしていたおばあちゃんには『今こそ、あの時の礼をするよ』と千金を与えた」
A「えーっと……つまり、最後のひとりは……」
F「羽柴秀吉は出世してから、幼い頃自分をいじめていた男を探し出して殺そうとしたそうだ」
Y「すでに年老いていたその男を殺させるのは忍びないと、村長は『もう死にました』と応えたンだったか」
F「韓信は、かつて股をくぐったその男を探し出すと連れてきて『この男はいい根性だ!』と、部下たちに何があったのかを話して聞かせ、自分の護衛官に任命した。……生きた心地がしなかっただろうな」
A「……つまり、韓信は鍾離眛になにがしかの恩があったから、それを果たすためにかくまわなければならなかった?」
F「当人の性格を考えると、そんなところじゃないかと思う。さすがに天下諸侯から攻撃されたらかなわんと、どうしたものかと悩んだ矢先、あるヒト(たぶん李左車)が『鍾離眛の首を差し出せば、劉邦の機嫌が取れるのでは』と……」
A「そんな外道なコトで喜ぶかーっ!」
F「本人に確認したところ『劉邦がすぐに攻め入ってこないのは、お前とオレが組んでいるからだぞ? 死ねというなら死んではやるが、お前も長生きはできまい』と、韓信の所業を罵りながら自刎する。その首を持って劉邦に参った韓信だけど、楚王から侯に格下げで済んだ。以後、屋敷にこもって参内しなくなる」
A「一命は取り留めたンだから、よしとすべきかな」
F「次のターゲットは韓王の信だ。代に領地換えされていたンだけど、この地は北狄(匈奴)に接し、しばしば戦闘が起こっていた。信は匈奴と誼を結んで懐柔していたンだけど、これを『匈奴に内通している』とにらまれ、居直った信はマジで匈奴と組んで叛逆する。劉邦は、自ら兵を率いて討伐に向かった」
A「追いつめられたワケか……。張良はどうした?」
F「すでに引退していたから、いさめたとかの記録はないな。厳しい寒さで将兵の2割は指を失ったとか。白登で匈奴の軍勢四十万に囲まれるも、陳平の策で何とか脱して、樊噲に代を攻略させ信を殺すと、兄(次兄)を王にすえた。ところが翌年、匈奴が追ってきて、兄は命からがら逃げ帰る始末。そこで、息子のひとりを代わりの代王にした」
A「ややこしいな」
F「代からの帰り道、趙に寄ったンだけど、劉邦の傲慢な態度に腹を立てた宰相が、劉邦を殺そうとして、張耳の息子(趙王)に制止されている。ところが2年後、その宰相の叛乱計画が発覚して、関係者は全員死刑か自殺。張耳の息子は侯に格下げされて、代王が趙王に配置換えになった。代わりの代王には別の息子が就任。それなのに翌年、今度の趙王の宰相が叛逆する」
A「ますますややこしい……あれ? 鉅鹿の太守じゃなかったか?」
F「んー、その辺の資料がどうにも。ともあれその男は代王を自称したモンだから、劉邦はまたしても自ら出陣した。留守を預かる蕭何は、劉邦の后(呂后)から『この隙に韓信を殺そう』と持ちかけられて、やむなく韓信を『叛乱が鎮圧できたから、祝賀に来なさい』と呼び出し、暗殺した」
Y「おい、待て? 韓信が陳豨(問題の趙相)と組んで起こした叛乱じゃなかったのか?」
F「事前に呂后に計画が漏れた、というのは考えにくいンだよ。ひとつには、呂后が彭越にしたことを考えると、韓信も謀殺されたと考えるのがまっとうだということ。さらに、韓信が本当に叛乱するなら、それは成功したであろうこと。さらに、韓信の最期の台詞が残っている」

 ――蒯通の策を用いなかったばかりに、女にしてやられるとは。これも天命であろうか。

F「以上のことから、僕は韓信の死を呂后の謀略と断ずる。現に劉邦は、韓信が殺されたと聞いて『ほっとはしたが憐れに思った』とある。ちなみに『蒯通の策』というのは、漢から自立して楚・斉の三国で天下を分かてという例のアレだ。韓信の遺言とも云うべきこの発言に、劉邦は(とっくに逃亡していた)蒯通を捕らえさせた」

劉邦「お前が韓信に謀反せよとけしかけたンだな!?」
蒯通「謀反とは片腹痛い。あの時代、諸侯誰もが天下を狙い、家臣はみな主を皇帝とするため知恵を絞っていたのですぞ。それが謀反と云われるなら、世界の誰もが謀反人でありましょう!」
劉邦「ワシのために働いていた韓信をワシに背かせようとした、その考え方がすでに謀反じゃ!」
蒯通「私は陛下の家臣ではありません! 韓信の家臣ですぞ!」

F「この辺の口論は、忠義とは何かを考える際、参考にすべきものである。確かに、劉邦から見れば――韓信はともかく――蒯通は謀反人だけど、それを云うなら始皇帝から見れば、陳勝・懐王・項梁・項羽・劉邦、そのいずれもが謀反人以外の何物でもない。……前回名が挙がった新九郎早雲の、有名なエピソードを思い出すな」
Y「馬泥棒に『確かに俺は馬を盗んだが、アンタは国を盗んだじゃないか!』と云われて、男を許したアレか」
F「かくして、蒯通は許された。次は彭越の番で、上記叛乱の際に兵を出さなかったのを、不仲だった侍従長が『共謀の疑いあり!』と劉邦に申し出たのね。そこで劉邦は彭越を捕らえ、身分を庶人に落とした上で蜀に追放した」
A「脇が甘いな」
F「しかし、彭越ももういい年だ。そこで呂后に、故郷に帰れるよう口添えしてもらえないかと頼んだところ、彭越を危険視した呂后は、独断で捕らえると『謀反しました!』と劉邦に云いつけて、結局一族を皆殺しにし、本人の死体をハムにして諸侯に配ったという」
A「……どういう女だ」
Y「韓信、彭越と来たら、次は黥布か」
F「えーっと、黥布で通してきたけど、本名は英布。若い頃占い師に『お前さんは罪を犯し刺青者になるが、その後王になるだろう』と云われ、事実罪を犯して額に黥されると『これでオレは王になれるぜ!』と喜んだとか。その後、項梁・項羽・そして劉邦と渡り歩いたのは、これまで見てきた通り。……僕の見立てでは、項羽が天下を失った原因だが」
A「その心は?」
F「黥布が楚軍第一の猛将であり、項梁の時代から仕えていた武将だということは、天下に知れ渡っていた。それなのに、そんな黥布が劉邦に寝返ったら『あれほどの重鎮が寝返るなら、自分も……』と考えるものは少なくないだろう。漢の使者も『黥布もが寝返ったのですから』と、楚の諸将を口説いたことは想像に難くない」
Y「交渉のテクニックとしては常套と云わざるを得んな。云っただろうし、また、云うべきだ」
F「だからこそ黥布は、寝返る前に迷いに迷ったとされている。……だが、黥布は漢についた。その時点では王の座にあった黥布だが、韓信・彭越や諸王が次々と粛清されていくのを見て、あることに気づいた」
A「次は自分の番だ、と?」
F「すでに項羽・竜且・鍾離眛は亡く、韓信・彭越も殺された。劉邦こそ健在だが高齢だ(現に、この戦闘が原因で2年後に死ぬ)。さて、漢に黥布に勝てる者は、残っているだろうか? ……いない、と判断したンだね」
A「……ぅわーっ!? 云われてみれば、大変な事態じゃないか!?」
F「韓信・彭越はその気はなかったようだが、黥布は完全に、自分の意志で叛乱を起こした。その本心が史記にばっちり残されている。劉邦に『何が不満で叛乱したんじゃ』と聞かれたときの、応えた台詞だが」

 ――オレはただ、皇帝になりたいだけだ!

F「田中芳樹氏はこの台詞を『これほど正当な叛逆の理由はない』とまで絶賛している」
A「……絶賛か?」
F「まぁ、結局黥布は項羽足りえず、敗れて民衆に殺されている。次は……盧綰か。例によって叛乱の兆しありとの報告がなされ、劉邦が病床にあったモンだから、樊噲が派遣されることになったンだけど、あるひとが劉邦に『樊噲をお忘れですか』と進言したのね。というわけで、陳平は『陛下は今錯乱してるから、ちょっと我慢してくれ』と樊噲をひとまず捕縛して、劉邦のところに連れて行こうとした」
Y「韓信のときに同じことしてないか?」
F「ところが、樊噲がたどりつく前に、劉邦があっさり死んじゃってね。呂后の妹が樊噲の妻だったから、呂后は樊噲を殺すことはせず、罪ナシとして元の封地に戻してやった(6年後死去)。ところが盧綰は、劉邦亡き今漢に味方はいないと判断し、匈奴と組んで叛乱。敗れたものの匈奴の地に逃げ込んでいる」
A「……何でそこまでするかな」
F「呂后は、自分の息子を皇帝にするために、若い妃の手足を切り落として目を繰り抜き耳と喉を潰して便所に放り込んだ女だぞ? 息子が皇帝になっても、韓信・彭越・黥布・盧綰辺りが叛乱したら鎮圧できないと危惧したンだね。だから、先に始末してしまおうと思った。同様の理由で、権謀術数を尽くして趙王(上記若い妃の子)も殺しているし」
A「理由としては判らんでもないけど……」
F「蕭何は韓信を取り立てた張本人だから、相国とはいえ連座させられるかもしれない。外様連中は云うに及ばず。張良は、呂后から助力を求められたとき『家庭の問題は良が百人いてもどうにもならんでしょう』と一度は断ったけど、是非にと乞われてついに現場復帰した。……そして、呂后の産んだ子が二代皇帝・恵帝となり、蕭何が相国としてこれを補佐する。相国の地位は蕭何の死後、曹参に受け継がれたが、曹参の死後は後漢末に董卓が就任するまで、漢王朝では誰ひとりこの座には就いていない」
A「張良……は、まだ健在か。それなら、まだ安泰だな」
F「うーん、そうでもない雰囲気だったンだが。ともあれ、その張良も死んで、三代皇帝の時代になると、呂后の態度はますますでかくなる。劉邦が『劉氏にあらぬ者が王となったら、天下を挙げてこれを討て』と云っていて、実行もしていたのに、呂后は自分の一族を王にしでかした」
A「おいおい……」
F「実質的には、この時代を漢王朝と云いたくはない……というか、漢王朝ではなかったと云っていいンだよ。恵帝の息子が三代皇帝になっていたンだけど、実はこの子供は正妻の子ではない。女官の子を正妻の子ということにして、その母親は殺しているんだ。……そうなると現実問題、果たして恵帝の子種だったのかすら疑わねばならんが」
A「何だよ、それは!?」
F「ところが、三代皇帝の素性が、どこからか本人にバレた。母の仇を知った皇帝が『いつか呂后に復讐してやる』と口にしたモンだから、呂后は皇帝を幽閉して殺し、恵帝が別の女官に産ませていた(とされている)子供を皇帝にした。とにかく呂后はやりたい放題やっていたンだけど、日食があって昼間なのに真っ暗になったのを『私のせいです!』と云っていた辺り、自分の行いを恥じてはいたらしい」
A「それなら行いを改めろよ……」
F「すでに引き返せなくなっていたンだろうね。呂后は死に際して『大臣らは必ず叛乱するから、軍を掌握して叩き潰せ』と遺言し、ついに世を去った。劉邦の死後15年、曹参の死から数えても10年後のことだ。皇帝はまだいたものの、その后は呂氏の血に連なる者だった」
Y「劉邦は何のために戦ったのか、まるで判らん事態じゃないか!」
F「憤るのはこれを聞いてからにしてくれ。挙句の果てに呂后は、甥の呂産を相国にするようにとも遺言していた」
A「なるほど……漢はこの時代なかったわけだな。この時代は漢王朝の黒歴史か」
F「かくして、項羽との戦乱の時代を生き延びた老臣たちは、呂氏討伐のクーデターを起こした。この時、兵士たちに『呂氏に味方する者は右肩を出せ、劉氏に味方する者は左肩を出せ!』と命じ、兵士たちがみな左肩を出した(左袒)したのは有名な話だな。呂一族は一網打尽にされ、呂産は便所で殺されたという」
Y「割と重要な話だが、今回どこまで続くンだ?」
F「いや、もう少し。えーっと、呂氏討伐が終わって、大臣たちは相談した。知っての通り、今の皇帝は恵帝の子ではなく、諸王の中にも呂氏の息がかかっているものは多い。ここはひとつ、劉氏でもっとも賢明な者を皇帝にしよう……というコトで、選ばれたのは代王だった」
A「……健在だったのか?」
F「劉邦の子の中では最年長だったかな。これが5代になる文帝で、前漢王朝が最大領域にいたる7代の武帝はその孫にあたる。司馬遷の史記は、その武帝の時代に編纂された」
A「長い長い戦乱の時代が、ようやくひと息ついたわけだな」
F「陳平が死んだのは、文帝が即位した翌年のことだった。ちなみに、曹参の後任として陳平の名も挙がったンだけど『才には長けるが、だから任じられない』と劉邦が云ったとか」
2人『……全部、陳平の掌の上か!?』
F「最後の元勲だな。……さて、項羽と劉邦の物語を締めくくるのに、ふさわしいエピソードを温存しておいた」
Y「何だ?」
F「黥布討伐が終わったある日、劉邦は、懐かしい沛の町を訪れ、十数日の間逗留している。まさかあの亭長が皇帝になるなんて……と、昔馴染みの老人から顔も知らない若者まで、沛は町を挙げての大喜びの大歓迎だ。劉邦も、小さな子供たちを集めて歌を教えたりして懐かしい沛を堪能し、沛を皇帝の直轄領として、一切の税を免除すると宣言した」
A「苛政は虎よりも猛し、だモンな」
Y「アホ!」
F(←笑ってない)「それは、儒教の経典の一文ではなかったかと記憶しているな」
A「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ほんとーにごめんなさいっ!」
Y「えーっと、確かマイケル・ベイの『アルマゲドン』で、政府から依頼を受けた石油採掘業者が報酬として求めたのが、生涯の税金免除だったな?」
F「……まぁ、いいだろう。そういうコトだ。この特権に沛のひとびとはますます喜んだものの、どのツラ下げたのか豊の民衆もその恩恵を預かりたいと申し出た。これに応えた劉邦の台詞が、劉邦と豊の関係を決定的に現している」

 ――やだなぁ。

Y「故郷に錦を飾りたい一心で天下を失った項羽と、天下を盗ったら故郷を省みなかった劉邦、か」
F「どちらが天下の主としてふさわしいのか、歴史ははっきりと示している。最終的な勝利者として劉邦は選ばれ、王莽による新を挟むものの漢王朝は四百年の長きに渡った。そして、今もってかの地の原住民は漢民族と呼ばれている」
A「原住民ゆーなっ!」
F「要するに、現在に到るまでの中国の、基礎というか基盤はこの時代に築かれたンだ。今の中国がその頃から、果たして進化しているのかは別問題として」
Y「……中国が嫌いなのか?」
F「そんなこと、ないですよ? えーっと、そんなこんなで『私釈三国志』1周年記念企画としてお送りしました始皇帝・項羽・劉邦の物語『漢楚演義』は終幕です。長々おつきあいいただきありがとうございました」
A「そんな企画意図があったのか?」
Y「つーか、『私釈』の最終回がどうなるのか不安になってきたな。今回、普段の倍近い分量だろ?」
A「喜ばしいじゃないか〜♪ それが『秋風五丈原』でも『諸葛亮孔明』でも、倍でも3倍でもやってくれれば♪」
F「いや、いちおうの予定では『天下泰平』になるかと」
Y「ぶははははははははははっ!」
A「何じゃそれは!? 孔明が死ぬのが天下の安泰につながるとでも云ーたいのか、お前は!? 笑うなヤスも!」
F「はいはい、アンタたち仲良く……」
A「原因お前だよ!」
F「まぁ、日本人共通の問題をアキラも抱えているのを確認したということで。次週は一回お休み入れさせていただきますが、時代をめぐって『私釈三国志』の連載を、再開させていただきます」
A「いよいよ曹操が死ぬンだな!」
Y「その前に関羽、その後に劉備が死ぬがな」
A「それを云うンじゃねーっ!」
F「はいはい、今度こそ仲良くしなさいなアンタたち。それでは、毎度のお時間と参りました。今後とも『私釈』をお見捨てなきよう、お願い申し上げます」
A「ご用とお急ぎでない方は、またお立ち寄りくださいな♪」
Y「では、今回は3人で。……せー、のっ」

 ――続きは次回の講釈で

漢楚演義 End

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