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漢楚演義 01 奇貨可居

F「はい、本日もご来いただきまことにありがとうございますー」
A「……ナニを始めた、この雪男は」
F「うん。思いつきと宿業ではじめた『私釈三国志』も、不思議なことにすでに70回を突破。そこで、今回から特別編というコトで、項羽と劉邦のオハナシをしようと思って」
Y「ネタのストックが尽きたのか?」
F「いや? これから関羽とか曹操とか劉備とか、バタバタと死んでいくわけだから、いくらでもネタはあるぞ。こーいうのをはじめる理由はおおむねふたつ。まず、漢王朝成立に先んじて起こった一連の抗争を判っていると、三国志というものがより深く楽しめるということ」
Y「400年経ってるのに、同じコトやってるって話か」
F「……もうひとつは、劉邦が漢(この場合は前漢)を興したのが、70回で劉備が抑えた漢中の地だからね。回数としても区切りとしてもちょうどいいわけだ」
A「なるほど。……で、始皇帝からか?」
F「その時代を語るには、どうしても外せない人材……というか人傑だからね、始皇帝は。ちなみに、厳密には221年に即位するまでは秦王なんだけど、ここでは始皇帝で通すので」
A「本名だと字が出ないかもしれないもんねぇ」
F「ここに、ひとりの不幸な少年がいた」
2人『始皇帝はどーした』

 名をマサ君と云った。
 地方ヤクザに過ぎなかった組を、実質一代で周辺最大の組に成り上がらせたのが彼の曽祖父だった。だが、曽祖父の死後、祖父・父と相次いで早逝。マサ君は13歳で組を継ぐことになったが、当然、大方のシマは離反した。
 若いながらも、父を支えた金庫番の補佐で組を切り盛りしていたマサ君だったが、周辺はもちろん組の内部からも評価は厳しかった。これは無理からぬことで、そもそもマサ君の父は他の組に人質に出されてたほど継承順位が低かったのに、金庫番のゴリ押しで組の後継者となったのだから。ために、年の近いいとこが他の組と組んで、マサ君の命を狙ったことさえもあった。
 いとことの抗争を何とか平らげたマサ君を、次に襲ったのは母だった。もともとは金庫番の愛人だった女だが、父に見初められマサ君を産んだ。そんな出自ゆえに、いとこは「アレはひいじいさまの血なんぞ引いておらん!」とマサ君を罵倒したほどだ。そんな母が巨根の愛人を寵愛して、子まで設けたものだからたまったものではない。巨根の愛人は母の寵愛をいいことに、マサ君を殺して自分の子を組長に仕立てようと目論んだ。
 この抗争も何とか鎮めたマサ君だったが、もう周りのオトナを信じられなくなった。母(殺さなかった)は幽閉、金庫番は地方に回して、のちに殺す。その鬱憤をぶつけるように、周りの組との抗争に明け暮れ、曽祖父を上回るシマを獲得した。それだけに恨みを買い、襲われたことも一度や二度ではない。盟友だった男からも鉄砲玉を送り込まれ、本当に死にかけたことで、マサ君はさらに頑なな性格になってしまう。
 そんな性格を息子からも指摘されたものだから、もう息子も信じられず、地方に回した。自分以外誰ひとり信じられなくなったマサ君は、結局、シマの視察中に死んだ。享年、50歳だったという。

F「始皇帝の本名は政と云う」
A「……で、マサ君か。コレが、始皇帝の生涯ってコトか?」
F「そゆこと。順に見てみよう。秦の基礎を築いたのは、政の曽祖父に当たる昭襄王という人傑。この王の代に、秦は周辺諸国を平定して、強国となった。……ところが昭襄王の死後、2代続いて早死にしたモンだから、秦は衰える」
A「まぁ、そうなるか。……死因は?」
F「おいおい見ていくけど、疑えば疑える。ただし、昭襄王そのひとに関しては疑う必要はない。在位でも55年だから、完全な老衰だね(生年は不明)」
A「当時の中国にしては、それなりの長生きだな」
F「さて、政に関しては有名な逸話があるな。その出生についてだが」
A「えーっと……子楚、だっけ。そいつの子じゃないって噂だな?」
F「そゆこと。昭襄王の太子の安国君には、ずいぶん多くの子供がいてね。そのひとりだった子楚は趙の人質に出されていたンだけど、秦の趙攻撃に恐れをなして秦に逃げ帰り、昭襄王から蟄居を命じられたほどのバカ者だった」
A「戦争相手の国から逃げ出せるンだから、それなりの切れ者なんじゃないか?」
F「ブレーンが優秀だったのね。呂不韋という豪商が、ある日子楚を見て『奇貨可居』(意訳:ゲットだぜ!)と肩入れを決意する。子楚を趙から連れ出して、安国君の妃に取り入って子楚を後継者に指名させるのに成功した」
A「ところが、子楚は呂不韋の愛妾を欲したンだよな? でも、その愛妾はすでに孕んでいて、その状態で子楚に下げ渡された。生まれたのがマサ君、と」
F「そゆこと。本人の意思はともかく、噂としては流布していたらしい。ために、安国君の孫(政の異腹のいとこ)が『本当の王はボクです!』と叛乱したほどで」
Y「本人にしてみれば、叛乱じゃなくて正統な権利を主張してるンだろうがな。ところで、呂不韋はどうしてそこまで子楚に入れ込んだ? 妾まで差し出すくらいに」
F「子楚を秦の王にすれば、王太子にするのに使った賄賂や愛妾の金額くらい、取り戻せると踏んだんだろうね。実際に、政が秦王に即位した後、呂不韋は仲父と呼ばれ、相国の座に就いている」
A「富も名声も思いのままってワケか。……となると、子楚はもちろん安国君もアヤシイな」
F「そゆこと。安国君は即位の2日後に急死し、子楚も3年後に死んだ。もし、政が本当に呂不韋の子だったら、呂不韋は安国君・子楚を殺すことを躊躇わないだろうね。子楚を王にするのが目的だったとはいえ、それよりは、むしろ自分の子を王にしたいと考えてもおかしくはない」
A「忠は孝より軽いわけか」
F「……親が子に向ける感情って、孝でいいのか? ちょっと違う気もするが。というわけで呂不韋は、相国として秦を実効支配していたものの、問題は子楚の妃にして政の母たる朱姫。かつては呂不韋の愛妾だったワケで、子楚も亡き今、ヨリを戻していた。それが発覚するのを恐れた呂不韋は、巨根の男を朱姫にあてがって、関係を絶とうとした」
Y「まぁ、相国と母后が密通したら、王は存在意義を失うわな」
F「そゆこと。ところが、この巨根の男が、呂不韋と同じことを考えた。政のもとで権力を牛耳る(朱姫の口添えで出世した)よりは、朱姫に産ませた自分の子を、秦の王位に就けようと企んで、挙兵したンだね。朱姫の助力があったモンだから、この叛乱は成功しかけたンだけど、政の果断な行動力の前に敗れ、巨根男は処刑され、朱姫は幽閉された」
A「で、呂不韋は相国を罷免され、数年後処刑された、と」
F「つまり、祖父(安国君)によって捨てられ(他国に人質に出され)た父(子楚)が、実の父(呂不韋)によって祖父もろとも殺された。母(朱姫)は愛人(巨根)と組んで、自分の命を狙う。年の近いいとこにも裏切られていたマサ君は、もう周りのオトナを信じられなくなったワケだ。呂不韋を罷免した挙げ句死なせ、秦の実験を掌握したのは、政がわずか22歳のときだった。即位から、たった9年しか経過していなかった」
A「13歳で、祖父・父を失って即位し、9年で後見人に母も失ったワケか……」
F「実際のところ、政は有能だったと認める以外はない。その状況でなお、秦に天下を盗らせたのだから。ただし、統一事業は常に順調だったわけではない。楚に攻め入った折には、名将項燕の前に苦渋を喫し、20万からの軍勢の半ば以上を失った。ちなみに、この項燕には少なくとも3人の息子がいて、長子が項伯、末子が項梁だから、たぶん真ン中は項山だろう。項羽の父親だが」
A「伯の字が違う! そもそも字だろ、それ! 名は確か纏だぞ!」
F「よく覚えてたのな、アキラ? まぁ、何とか追いつめて、項山(仮名)もろとも殺したンだが。さて、政が子楚のもとで趙にいた頃、同じく人質生活を送っていた燕の太子・丹と親しくなっていた。秦の領土拡張に危機感を抱いた燕は、秦に丹を送り込んで懐柔しようと目論み、丹は政にかつての友誼を求めたのに、政は政で――親たちの事情があって――そんな気になれなかった。つい冷たくあしらったところ、丹は怒って燕に逃げ帰り、秦と敵対する始末だ」
A「刺客の中の刺客と名高き伝説の暗殺者、荊軻の出番だな」
F「個人的には好きなエピソードだけど、歴史的には大きなモンじゃないから、軽く流すよ。えーっと、丹から政暗殺を持ちかけられた荊軻は、秦を捨てた将軍の首と、燕でもっとも肥沃な土地の地図を持っていけば、疑念深い政でも自ら引見するはずだ、と策した。事実、政は自ら荊軻に会うほど、首と地図を喜んだのね。油断して殺されかけた政だったけど、侍医の機転で一命を取りとめ、荊軻は斬られた」
A「武器を持って殿中に上がることは許されないから、衛兵は手を出せない。焦って剣を抜けないマサ君を、荊軻が追いつめたところ、侍医が薬の袋を投げつけて怯ませ、その隙に斬り伏せたンだったな」
F「実行犯は『アンタを人質に逃げおおせるつもりだったが、無理そうだな』と供述しているものの、まぁ殺人未遂だね。燕は慌てて丹を殺し、その首を送って慈悲を願ったものの、翌年攻め滅ぼされている」
A「で、数年後に張良による暗殺も決行されたものの、そちらも失敗した、と」
F「南の楚が平定され、北の斉が降伏したのは紀元前221年。荊軻による暗殺未遂事件から6年後のことだった。これが中国史上初となる天下統一で、マサ君の即位から26年経っていた」
A「えーっと……39歳か」
F「中国神話……当時にしてみればちゃんとした歴史だったのかもしれんけど、そこに三皇五帝というのがある。古の帝王たちだけど、政は自分の功績がそれらに優るとして、これまで使われていた王号ではなく、天地全てを統べる者として"皇帝"の称号を自称するに到った。ここにファーストエンペラー、始皇帝が即位する」
Y「悲劇の始まり、かね。持たざれば失う苦しみは味わうことがないが」
F「歴史的評価はさておいて、ヒトとして考えてみてくれるか。始皇帝はこれまでで、祖父・父・母の悉くに裏切られた。そんなマサ君に向かって『子供は親に従わなけりゃならないんだよ!』と説教する奴がいたら、どうなると思う?」
A「……考えるまでもないな」
F「ひとりの先生に裏切られたからといって全てのオトナを敵視するな、という論法がある。が、この論法はマサ君とオレには使えない。なぜなら、親はふたりしかいないからだ。その半分に裏切られたら、全ての親を信じられなくなるのは必然だろう。始皇帝が儒教と敵対するに到ったのは、繰り返すが必然だ。親に裏切られた子供に向かって『親に従え』と口にしたら、殺されても文句は云えんぞ。呂不韋との関係は知れ渡ってたンだからな」
Y「焚書坑儒を肯定すると?」
F「焚書については僕でも非難する。だが、坑儒は肯定できる。なぜなら、儒者は『殺してください』と始皇帝に願い出たのであり、始皇帝はその望み通りにしてやったにすぎない。誤解しているかもしれんが、現在日本の刑法にあてはめるなら、彼がやったのは殺人ではない、自殺幇助だ」
A「いや、それは……」
F「殺されると判っていて儒教を広めようとしたんだぞ? 自殺以外の何だ? 僕でも殺すぞ、そんなバカども」
Y「あー、アキラ、アキラ。お前ちょっとひっこんでろ。……だが、息子には非難されたんだよな? 坑儒を」
F「うむ。この息子は父の薫陶よろしく、親に逆らうという、儒教における最大のタブーを平気で犯している」

儒教教育学三原則(抜粋)
第一条 子は親の命令に従わねばならない。

Y「……ちっ、反論できねェ」
F(←笑ってない)「長男は扶蘇と云ったンだけど、この息子はおデキがよろしいようで、親に逆らい、親の行いを咎めている。殺された儒者は、扶蘇の行いをどう評価するのかぜひともお伺いしたいところだなぁ」
Y「あー、アキラが震えてるから、話を戻せ。お願い」
F「む。……ふーぅ。そういうわけで、始皇帝は扶蘇を北に送って厄介払いし、自身の支配権を確立した。始皇帝に意見できる者はいなくなったワケだ」
Y「傍から見ると、そんな野郎によく国が治められるな」
F「秦が強国として成立できたのは、法家の思想を中心にすえたことが根拠と云っていい。役職にある者はその役職にみあった働きをし、作られた法制度は厳守されねばならない、という考えだが」
Y「法を絶対とする思想体制か。一歩間違えると共産主義に成り下がるな」
F「法による秩序を絶対とし、それに背く者は何人でも許さず、というのが法家の主張だ。法という力による締めつけは発展途上国ではよくやることだが、これにはふたつ欠点がある。ヒトの倫理や感情といったものを否定するワケだから、反発を受けやすいということ。そして、法に支配力がなくなったら、あっさりと霧散することだ」
Y「……法家を貫けるだけの支配者がいなくなった場合、か」
F「かくして、親・子・友その他もろもろの全てを敵に回し続けた始皇帝は、齢50で世を去った。秦の圧制に苦しむ者にしてみれば、それは、新たな時代の幕開けに思えただろう」
Y「締め、だな」
F「続きは次回の講釈で」

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