握りずしの時代江戸時代の後期、さまざまな形態のすしが生まれるなか、その最後を飾る
かた
ちで、にぎりずしが誕生した。ときは文政、場所は江戸市中である。
時代は地方農村が荒廃する頃で、職を求める人々が集まってくる江戸は,とりわけ男性人
口、が増えた。そうした事情と貨幣経済の発展により、かせいだ日銭が外食するという習慣
が
定着する。
江戸の街では、低廉な飲食産業や外食産業,一膳飯屋や屋台の食い物売り
が軒を連ねるにいたった。すし商もその例外ではない。
やがて、一部のすし屋のなかには、高級化路線を歩み、世にいう天保の改革の奢侈禁止令
に触れて罰せられる者まで出てきた。
そんなかで、握りずしが世に登場する。考案者は特定されないが、歩き売りから商売をはじ
め
て超高級店にまで成り上がったすし商・花屋与兵衛の改良により、江戸中の評判になったと
いう。
当初から商品としての位置づけが濃厚で、高級店はもちろん、場末の屋台でも売られるよう
に
なる。「外で食べるもの」「買って食べるもの」として世の人々に受容され、そのイメージが今も
っ
て存続していることは周知の事実であろう。
握りずしは,いわば「江戸の郷土料理」であった。東京の握りずしが他の郷土のすしよりも一
歩
抜きん出る素地があった。また、大正12(1923)年の関東大震災では、罹災したすし職人が
これを機に故郷へ戻るなどして、握りずしの技術が各地に伝えられたという。さらに太平洋戦
争
では、戦災を避けて、あるいは焼け出されて、東京を離れた人は数知れない。
彼らもまた東京の情報を地方に伝え、このことが握りずしの普及に一役買ったことは容易に
知
れる。悲惨な歴史も、握りずしには追い風となったのである。
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