2010年ドラフト物語 (最終章)

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 ドラフト会議だけではなく、抽選などには必ず言われる言葉がある。
    「残り物には福がある」
 6球団の抽選の末、快腕・大石達也投手の交渉権は西武・渡辺久信監督の手に。
それは5人の監督が気持ちを込めて入れた手をすり抜け、最後に残ったものだった。
 関西担当のスカウトは焦っていた。大学選手権で見せた投球で左腕ではNO1の評価をされている大野雄大が登板しない。「肩のケガのようだ。」「登板出来ない訳ではないが、大事を取って投げていないようだ」。状況はそれほど重くないという観測が流れ、ネット裏では会話されていたのだが、それにしても全く登板する気配がない。最終の3連戦は京都学園大との優勝をかけた戦い、登板するという噂も流れスカウトが顔を並べたものの、結局登板することは無く佛教大は優勝を逃した。夏までの評価はドラフト1位だろう。しかし秋に一度も登板しなかった肩のケガはどの程度の状態なのか、それともどこかの球団と・・・。様々な憶測が流れ、評価をしきる事ができず多くの球団が判断に迷うことになる。大野投手も不安のままでドラフト会議を向かえる。

 八戸大の塩見貴洋は順調に勝ち星を残す。富士大戦では2失点するも17奪三振で完投勝利、防御率こそ1.34でリーグ2位となったが3勝0敗でチームを優勝に導く。「ストレートはそこそこだがコントロールが良い」「完成度が高く、即戦力」こうした評価に留まったものの、間違いなく1位で消える選手との評価を残して、勝ち続けた塩見貴洋の大学野球はドラフト後の明治神宮大会へと続く。

 中央大・澤村拓一は春からもう一皮向けたピッチングを見せる。春までは「変化球が甘いため、ストレートを狙い打たれる」とスピードの割に評価が割れていた。9月21日の亜細亜大戦、その評価は大きく変わる。相手投手は2年生・東浜巨。相手にとって十分であった沢村は、真っ向勝負で向かっていく。ストレートは外角低めに吸い込まれ学生最速の157kmをマークすると、カーブ、フォークも完全に物にしていた。132球を投げて1−0で完封、三振は16を数えた。この投球に翌日の新聞はスカウトのコメントが踊る。「春から大きく成長した」「ドラフト1位で競合するのは間違いない」。
 しかし、その熱気は2週間後の一つの新聞報道で大きく変わっていく。
 「沢村、巨人!」「意中の球団以外の場合はメジャーも」 10月8日の報知新聞だった。このような事はこれまでも何度かあった。「またか!」ネット裏のスカウトもファンも、度を越した熱気を見せていた。

 東京六大学、一つの衝撃がヒーローに火をつけた。
 斎藤佑樹は早稲田大学野球部100代目主将として、エースとして、そして早稲田のユニフォームへの最後の思いを胸に戦いに挑む。その思いは大きなプレッシャーとなり、体を、フォームをバラバラにし開幕の法政大戦で敗戦する。そのエースを見て、1つ上の年だが1年生の時から斎藤を見ていた福井優也が2戦目で奮起、法政大から11三振を奪い1失点完投勝利で3戦につなぐ。しかし3戦目も斎藤は5回で2失点し6回から大石達也の4イニングのロングリリーフで何とか勝利し勝ち点を挙げた。
 続く明大戦でも斎藤は5回で降板し大石のリリーフで勝利、2回戦は福井で勝利。「やはり高校の時の方が良かった」「高校からプロに入った方が良かったのでは?」 プロでは同世代の広島・前田健太がセリーグのエースとして活躍を見せる。斎藤佑樹を応援しているからこそ、厳しい評価がされる。
 NHKの番組ではないが、このような中その時がやってくる。10月2日、東京大学1回戦。
 自らの30勝をかけた試合で、斎藤佑樹は東大に敗れた。平成17年以来の東大戦敗戦。主将として、エースとして屈辱であった。「やはりダメなのか」。
 しかし主将としての斎藤佑樹には心強い仲間がいた。2回戦では福井優也が完投勝利で斎藤に繋げる。3回戦、斎藤佑樹は今期初完投を完封で飾って見せた。大石達也が、福井優也が、同じくドラフト候補ながら早大に進学した宇高が、2006年の夏を共に戦い、今また戦っている山田、後藤、白川がいた。主将と一緒に戦う仲間達にエースとしての結果を残して応えて見せた。

 リーグ優勝をかけての決戦となる、早慶戦を週末に控え、斎藤佑樹大石達也福井優也はドラフトに臨む。
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 10月28日のドラフト会議に向けて12球団の駆け引きは佳境を迎える。
 10月8日の「澤村拓一、巨人」の報道は日に日に確証を得ていく。本人はルールにより意中の球団を発言することは出来ないが、周囲からも巨人が意中の球団であることが明らかになっていった。
 中日が沢村に調査書を送る。西武が中大を訪れ練習を視察した。状況を確認したいためだ。戦略上、沢村投手の指名を含みつつも、「沢村から撤退」で動き始めていた。
 各球団のスカウト会議の間隔が短くなり、1位指名候補の名前が挙がり出す。「東北楽天は大石」「横浜も大石でいくようだ」「オリックスも大石だが、伊志嶺翔大の可能性もある」。
 広島は「候補を大学生投手5人に絞り、直前に決める」とした。千葉ロッテと東京ヤクルトは初志貫徹、斎藤佑樹の指名は変わらない。気になるのは他球団の動向だった。大石に指名が集まりすぎる。嫌な予感はしていた。そして、
「ソフトバンクは斎藤の可能性がるようだ」、情報が飛び込む。「地元の大石か、王会長が視察をした斎藤佑樹か」決断はドラフト当日のスカウト会議で決める。また北海道日本ハムは当初から斎藤佑樹をマークしており「斎藤佑樹でいきそうだ」という情報が入ってきた。
 その後も阪神、西武が大石指名の可能性が高くなり、大石達也には横浜、楽天、オリックス、阪神、西武、広島の6球団が競合する可能性が出てくる。スカウトは外れ1位の候補を絞るため、他球団の情報を必死に集めシミュレーションを始めた。
 指名がハッキリしないのは中日、大野雄大に高い評価をしているものの、澤村拓一にも興味を示しており、もし沢村を指名するなら中日だろうという観測が流れた。

 東北楽天に星野氏が就任する。「もしかすると沢村を指名して巨人に対抗するかもしれない。」という噂も流れたが、抑えを重視する星野監督に大石指名の迷いは無かった。
 北海道日本ハムは、斎藤佑樹の指名が高いものの、塩見貴洋を単独指名する、大野雄大にも興味があるなどの噂が流れていた。ソフトバンクは斎藤か大石か迷っていた。オリックスも昨年古川投手を単独1位指名している。野手が薄い、「伊志嶺を単独指名するかもしれない。」という動きがありながら、ドラフト会議が始まる。
 結局、大石達也は横浜、楽天、広島、オリックス、阪神、西武の6球団が指名。斎藤佑樹には東京ヤクルト、北海道日本ハム、千葉ロッテ、福岡ソフトバンクの4球団が指名、澤村拓一には巨人が単独指名、大野雄大には中日が単独指名をした。
 大石の抽選は西武・渡辺監督が残りくじで見事に射止め、斎藤佑樹は北海道に決まる。
 横浜は左腕投手の指名の可能性もあったが実力派の即戦力、須田幸太投手を指名、広島は単独指名も狙っていた福井優也を指名した。阪神は社会人NO1左腕の榎田大樹を指名し、福岡ソフトバンクは高校NO1捕手の山下斐紹を指名した。
 北の左腕・塩見貴洋には東北楽天と東京ヤクルトが指名し、星野新監督がくじを引き当てた。
 野手NO1、東海大・伊志嶺翔大はオリックスが単独指名だろうと言われていたが、荻野、清田の外野手のルーキーが活躍を見せた千葉ロッテがまさかの指名で、抽選も引き当てた。
 外れ1位の抽選を外した東京ヤクルトとオリックスは外れ外れ1位でも履正社・山田哲人で競合し、東京ヤクルトが抽選を得る。抽選で3人を外したオリックスは、後藤駿太を指名しドラフト1位指名は終了した。

 2010年ドラフトでは68人が指名、育成ドラフトでは29人が指名され、合計97名がプロの世界に入っていく。
 甲子園で優勝した選手も大学で成長しドラフト1位指名された選手も、ドラフト1位候補として期待されていたが伸び悩んで下位で指名された選手も、野球への思いを捨てきれず、独立リーグや草野球チームで野球を続けて育成枠で指名された選手もいる。
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 よく、プロに入ったら同じスタートラインだと言う人がいるが、普通の社会もそうであるようにそんなことはない。ドラフト上位選手はそのフィルターを通して見られるのは間違いないだろう。また競争は97人だけではない。2009年に入った選手も、2008年に入った選手も40歳のベテランとも含めた競争となる。また来年には同じようにドラフトで指名されて選手が入ってくるし、プロに入れなかった同世代の選手が、2年後3年後4年後・・・、プロに入って挑戦をしてくる。
 限られた数少ないパイをめぐって、努力の競争が始まる。

 ドラフト終了後、早慶戦が行われ、早稲田は、斎藤、福井、大石のドラフト1位トリオが登板するも、慶應の竹内大、福谷浩司の2年生の前に連敗して星を落とす。ヒーローはこうしてバトンを受け継ぎ、時代はこうして代わって行くのだろう。
 しかし、50年ぶりに行われた早慶による優勝決定戦は、持っているヒーローに用意された舞台だったのか。斎藤佑樹は7回までノーヒットノーランピッチングを見せた。8回に5点を失ったものの大石達也が締めて、主将としてエースとして最後のリーグで優勝を果たした。
 そして明治神宮大会でも早稲田大学初優勝を達成し、高校でも最後のシーズンに全国制覇、大学でも最後に全国制覇を成し遂げ、学生野球を後にする。
 2006年の全国制覇から始まり、1年生で六大学開幕戦で勝利、4年間連続日本代表選出、早稲田大100代目の主将、50年ぶりの早慶優勝決定戦で勝利、早稲田大学の明治神宮大会初優勝、大学30勝300奪三振の結果を残して、ヒーローはプロへ飛び立つ。しかし本人が語っていたように、1年生では須田幸太からエースを受け継ぎ、松下日本代表でも国学院・村松伸哉と1年生出会い、試合ではリリーフの大石達也につなぎ、2戦目の福井優也につなぎ、リーグでは加賀美希昇らと投げ合い、沢村拓一、大野雄大、塩見貴洋の同世代の選手をライバルとし、プロで活躍する田中将大、前田健太、坂本勇人と自分を見比べ、多くの「仲間」がいた。

 11月18日、明治神宮大会の終わった神宮球場にひとすじの風が吹いていった。2006年の甲子園から吹いてきた風だろうか。1人のヒーローが多くの仲間と共に戦った場所を追って、歓声を巻き起こしては夢のように一つ一つ消していった。
 来年、その風は間違いなくプロ野球に吹くだろう。
 そして甲子園にも神宮にも、次の風が静かに砂を巻き上げている。

第六章
 高校野球の3年間を彩った、そして最後の夏の甲子園を彩った選手が、
高校野球の舞台から去っていく。
 そして各自、進む道を決めていく。その決断は、自分で決めるしかない。
そしてその決断を周りは待つしかない。

 2006年の夏もそうだった...
 連日の猛暑が続く。2010年の夏はそんな夏だった。
 甲子園には3年間戦ってきた高校生たちが、各地で最後の舞台を目指す大会は過酷な条件で行われた。力がありながら涙をのんだ選手もたくさんいた。1年生から注目されてきた二人の投手は、最後の舞台に上がる事ができた。
 東海大相模の一二三慎太にとって、夏の甲子園への道は不安の中の道だっただろう。サイドスロー転向を決めたのが5月、それから2ヶ月しかない夏の舞台への大会。しかし一二三は勝った。
 興南・島袋洋奨にとって、夏の大会への出場は必然だった。昨年の春から夏への経験で冬から暑さの中での連投などの訓練を続け、万全の体制で舞台への道を駆け上がっていった。
 他にも過酷な試合を勝ち抜いて甲子園に登場してきた選手達がいる。
 成田高校、中川諒はブレない動じない。チームの打線は他のチームより劣ると評価されている、県大会でもノーシード・1回戦からの戦いであった。自分が投げきることが勝利の必須条件。千葉県大会では準決勝で山下斐紹率いる習志野と対戦、山下から2三振を奪い4−3で勝利すると、決勝では147km右腕の長友昭憲との投げ合いとなる。試合は1−0の完封勝利、中川はわずか1安打に抑え11奪三振を奪って、完璧に押さえて勝ち上がった。
 愛知では中京大中京、昨夏優勝で夏春連覇は阻まれた。狙うは夏連覇、4番で捕手の磯村嘉孝は3度目の甲子園に挑む。

 中京大中京は初戦で岩本輝の南陽工業と対戦、岩本投手は持ち前のストレートとスライダーで2失点に押さえたものの、磯村の落ち着いたリードで2年生の浅野は打たれながらも1失点で切り抜ける。リリーフで1年生の時にドラフト候補になると注目されていた森本隼平が締めて勝利した。しかし2回戦では浅野、森本の乱調を抑えることができず、6−21で早稲田実業に敗れ、昨夏の覇者は魔物の住む甲子園を去っていった。
 成田は勝ち上がる。万全の状態で望んだ1回戦の智弁和歌山戦は下馬評を覆す勝利だったが、予選で中川諒を見ていたファンは、かって当然と思っていた。それだけのブレの無さを中川は持っている。チームは勝ち進む、しかし今年の暑さは中川を削っていく。
 準決勝の試合は壮絶だった。成田VS東海大相模、中川は19安打を浴び11失点も完投した。点は奪われたが心は折れず、強気にポーカーフェースを崩さずに。相手は一二三慎太、サイドスローは1試合ごとに評価が変わっていた。2回戦は勝利したものの5失点で四死球8、3回戦は140km後半のストレートで1安打完封、準々決勝は9安打3失点で完投、そしてこの試合は14安打9四死球も7失点の完投だった。
 決勝は二人が直接対決。しかし不安を抱えながらここまで勝ち上がってきた一二三が、万全の準備をしてきた島袋に勝つ力は残っていなかった。13−1興南が悲願の沖縄夏制覇を果たし、伊志嶺翔大、東浜巨の想いを成し遂げた。

本格的な高校野球は夏をもって終える。3年生はチームから離れ新チームが動き出す。
 プロも夏の甲子園で高校生の絞込みを終える。高校生でドラフト1位候補は、興南・島袋、広陵・有原、履正社・山田、PL・吉川、習志野・山下の名前が挙がっていた。一方、一二三慎太の評価は分かれていた。

 その中で、6月ごろから囁かれていた噂が現実のものとなり、関係者を驚かせる。2006年、斎藤佑樹が出した結論と同じものを、今年の高校生もしていた。
 広陵・有原航平、早稲田大学進学
 興南・島袋洋奨、中央大学進学
 ドラフト上位候補の左右の投手が、2010年ドラフト候補から外されていく。
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 甲子園の若くて暑く、危うくて儚い戦いに比べれば、夏の暑さから切り離された東京ドームは全ての面で成熟していると言っていい。選手の身体も投手のコントロールも、堅実な守備も、そして完成された応援も。プロのスカウトも夢や将来を見ていた甲子園とはまったく違う厳しい目を選手に向ける。
 注目されたのは、東京ガス・榎田大樹、140kmのストレートを外角にコントロール良く投げるスタイルはプロのスカウトの目に、プロでも大崩はせず10勝できると映った。またJFE東日本・須田幸太も1回戦2回戦を安定した投球で勝ち上がり「右ではこの投手」とプロのスカウトは頭の中でリストアップした。またアンダースローでは日通の牧田和久が完封し、東京ガスの美馬学は抑えとして150kmの伸びのあるストレートを投げ、タイプもポジションも考えながらひとりひとりリストアップされていく。
 そんな中、1人の投手が好投を見せた。伯和ビクトリーズの七條祐樹、延岡工業から社会人の日産自動車九州に入ったのは2003年のことだ。それから成長を見せるも2006年に肩を故障してしまう。その後復活を見せるも今度は2009年日産自動車九州が廃部となってしまう。高校からプロ入りを目指してきた道のりは社会人7年間。26歳で初先発した都市対抗で10奪三振の完封勝利。最後の勝負の意気込みがバックネット裏にも伝わってきた。

 日本選手権がドラフト後となり、社会人選手の絞込みは都市対抗で行われる。プロ12球団が大学生投手が本命と話し、指名が集中しそうな雰囲気が既に満ちている。その中で社会人選手の絞り込みは、戦略的に重要な位置を占めている。大学生投手を避けて単独1位を狙っても良い選手なのか、抽選で外したときに獲得できる選手なのか。既にドラフト会議のシミュレーションが始まっていた。

第五章
二つの想いが神宮へ
一つは2006年の甲子園から続く球児達の想い
もう一つはその球児たちをずっと追い続けたスカウトたちの想い

二つの想いは、空の広いこの球場で重なっていく。
 プロ球団は次々とスカウト会議や編成会議を開き、今年のドラフト指名方針んを決めていく。日々報道されるスカウト会議後の報道は、「今年は大学生投手中心」「即戦力投手を狙う」など。それだけ、大学生投手に注目が集まっていた。その中でこの頃から「ドラフト1位候補」と呼ばれる選手が出てくる。
 ドラフト1位候補に名前が挙がる両左腕は3年生からの好調を維持し、リーグ戦では敵なしの投球を見せる。北の左腕、北東北リーグ・八戸大の塩見貴洋は7試合で失点0、防御率0.00、4勝0敗。チームは1敗もせず完全優勝を果たす。西の左腕、京滋リーグ・佛教大の大野雄大も大谷大戦でノーヒットノーラン、防御率0.55で7勝1敗。こちらもリーグを制覇した。
 東京では舞台に出揃ったドラフト1位候補達の競演が見られる。スピードでは、澤村拓一は155kmのストレートを見せる。しかしスカウトの評価は割れていた。ストレートは速いけど狙われると打たれる、変化球がキレが無いと勝てない。その評価通り5勝を上げるも3敗し優勝には手が届かなかった。
 早稲田のドラフト1位トリオ、そう呼ばれるようになった。斎藤佑樹は第100代主将となるとストレートのこだわりを捨て、かっこよさを捨てて変化球で勝負する。投球を見てもはっきり「これぞドラフト1位候補」といえる人はいなかったろう。それを補う実績と投球術、度胸を持っている。しかし、東京六大学のつわものにはそれだけでは通用せず2勝3敗に終わる。斎藤の不調を補うように、福井優也が最後の年に集大成をみせた。140km後半のストレートと大きなスライダーで3勝0敗の結果を残す。しかし勝てば優勝の早慶戦で1戦、3戦で敗れて敗戦。1、3戦はエースに勝利を託す試合である。主将としてエースとして託された優勝を勝ち取ることがきなかった。この悔しさで思い出したのではないか。高校3年生のセンバツで横浜高校に大量失点して敗れたあの春を。そして思い出したのではないか、その4ヵ月後のあの甲子園で全国を制覇したことを。

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 大学野球選手権、アマチュア野球ファンによっては一番楽しみな大会なのかもしれない。少なくても自分はそうだ。
 同志社大・藤井貴之、大阪学院大・小林寛、中央学院大・秋吉亮といった地方のエースや広島経大・柳田悠岐などのスラッガーが競演する。そんな中、顔見世ともいえる1回戦で最も輝いたのは、佛教大・大野雄大だった。強豪・東北福祉大を2安打12奪三振で完封、151kmのストレートはもちろんだが昨年の秋は90%ストレートだったものが、スライダー、カーブ、フォークをコントロール良く投げわけ、変化球でもバンバン空振りを奪う。スカウトの評価も大きく変わった。翌日の新聞では12球団に加えメジャー球団も大野雄大に注目という記事が紙面を賑わせた。
 そして北の左腕と西の左腕がいよいよ直接対決、八戸大VS佛教大。大野に1回戦のようなキレが見られない。それでも6回まで無失点に抑えたが7回につかまり2失点で降板する。対する塩見は防御率0.00の投球を見せる。5安打7奪三振で完封、完成度の高さを見せた。
 決勝に勝ち上がったのは東洋大と東海大。王者とプリンスと行ってもいい、決勝の常連だ。東海大・伊志嶺翔大は輝いていた。大体大戦ではコールドに手をかける特大の3ランホームランを放つと、準決勝でも慶應の息の根を止めるホームランを放った。春のリーグ戦では左太ももの肉離れというアクシデントで出場さえ危ぶまれていたが復帰すると25打数11安打を放ち、この日本選手権では長打力も見せ、大学生投手が注目される中、野手でも大学生がNO1であることをスカウトに印象付けた。

 日本で開催される世界大学野球選手権、全国の大学のつわものが集まる。斎藤大石福井澤村大野塩見榎下藤井秋吉加賀美。3年生でも菅野藤岡野村中後中根など。この中で選ばれたのは、4年生の斎藤、大石、沢村、乾と3年生の菅野、藤岡、野村、中後。大野、塩見、福井、加賀美はまさかの落選となった。初の全国晴れ舞台に選ばれた沢村、いよいよ斎藤佑樹らと競演かと思われたが、わき腹を負傷して辞退、加賀美が選手される。
 野手でも伊志嶺をキャプテンとし、捕手に小池、内野手に東北福祉大の阿部などが選ばれ、3年生のスラッガー、慶大・伊藤や中大・井上などが選ばれた。

 世界選手権、予選1回戦の韓国戦は斎藤が6回9奪三振、乾も2回5奪三振で抑えの大石達也につなぐと、大石は三者三振で締めくくり、完封リレーで幸先の良いスタートを切る。
 決勝トーナメントでは準々決勝の台湾戦を3年生菅野の好投で圧勝すると、山場のアメリカ戦。先発を任されたのは1年時の日米野球でアメリカを打ち破った斎藤佑樹。しかし、初回に満塁弾を浴び、その後好投を見せるも追いつくことは出来なかった。

 甲子園のヒーローが、容赦なく打ちのめされた。しかし斎藤佑樹の顔は明るかった。初回以降の投球でヒーローは密かに自信を取り戻していた。思いは最後の秋に・・・。

第四章
 荒木大輔も、桑田真澄も松坂大輔も甲子園のヒーローであった。
 甲子園でも大学でもヒーローとなろうとしている選手がいる。

 7年間、着続けた早稲田のユニフォームが、
これほど似合う選手はいない。
 2009年秋、来年が豊作であることはスカウトや関係者だけでなくても認識していた。「斎藤佑樹がいよいよプロに入る年」である。プロ球団も早くから動いた。
 09年秋の投球を見ると、不安にならざるを得ない。大石や沢村が150kmを超すストレートを安定したフォームで投げる中、斎藤佑樹のストレートは甘いといわれる神宮球場のスピードガンでも140km中盤も数球しかマークしない。焦りもあったのかフォームはスムーズとは言えず、見る人のほとんどは「高校の時の方が良かった」という。それでも、千葉ロッテが11月に斎藤佑樹投手1位でスカウトの意見を集約、応武監督に伝えるとともに公表した。すると高校時に斎藤佑樹1位指名を予定していた東京ヤクルトが黙っていない。早稲田大出身の小田スカウト部長は青木、田中、武内など早稲田大の選手を上位で指名して早稲田大との強い縁を作ってきた。U26VS大学選抜の試合には高田監督、小田部長など5人が姿をそろえ、年末には編成部とスカウト部を統合し、斎藤佑樹投手獲得のための組織を作った。そしてもう1球団、北海道日本ハムも動く。早稲田大出身の大渕スカウトディレクターが背番号18を用意して待つことを明言した。
 プロのスカウトはその場の状態で判断しない。高校から大学1年、2年、そして3年の状態をトータルでの判断、実績・活躍、そしてケガをせず投げ続けるその資質を見ていた。

 もう1人、斎藤佑樹が戦うことの出来ない場所にいるライバルが注目を集める。大石達也のストレートはプロのスカウトはもちろん、新聞記者もネット裏の観客も「モノが違う」と感じる。ストレートと分かっていてもバットにあたらないストレート、150kmを越えていない140km中盤のストレートでも同じように空振りを奪い、奪三振率は12を越えていた。斎藤佑樹はこのストレートに幻惑され、ストレートのパワーアップを目指してフォームを崩したと言ってもいい。しかし、大石は先発ではなぜか力を持続できず試合を作る力は斎藤が上であることを認識していた。
 この大石に、早稲田大OBの岡田監督が動く。岡田監督は阪神時代、中継ぎ抑え投手を揃えて勝利の方程式(JFK)を作り上げてチームを強くしており、オリックスでもエースだった小松や岸田を抑えに転向させ、09年のドラフトでも左の中継ぎ候補だった古川秀一を単独1位指名するなど、その方針は変わっていない。また大石の出身高校である福岡大大濠の中野監督は早大野球部時代のチームメイトでもあり、縁・補強ポイントともピタリと合っていた。
 その岡田監督の後を継いで阪神の監督となった真弓も動く。中継ぎ久保田の先発転向を画策し、ポスト藤川として大石に注目する。大石達也の父・博美氏は柳川商(現柳川)で真弓の先輩であった。
 福岡ソフトバンクは迷っていた。地元福岡出身の大石はその素質から見てもNO1の評価だった。しかし早稲田実業出身の王球団会長が斎藤佑樹の高校時に早稲田大入りを進め、その後も成長を見続けている。最終的には王会長の意見が反映されるだろう、スカウトはそう思っていた。
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 春、第82回センバツ大会、高校BIG3が出場する豪華な大会となり、昨年の菊地・今村の投げ合いも期待された。
 一二三慎太の調子がおかしい、大会前のオープン戦でも打ち込まれるなど不安を覗かせると、昨年秋に見せたオーバースローからの力強いストレートが見られず、初戦の自由が丘戦で4失点し姿を消してしまった。この投球内容により一二三は悩み、サイドスロー転向を決意させる。
 広陵の有原航平は1回戦の立命館宇治戦で7−6と接戦を演じながらも13奪三振で完投を見せると、続く宮崎工戦では2安打10奪三振で完封、チームも0−0の9回裏に1点を奪いサヨナラで勝ち上がった。準々決勝では夏春連覇を狙う中京大中京が相手。4番となった磯村嘉孝を押さえて準決勝に勝ち上がる。
 3回目の甲子園となる興南・島袋洋奨は自信を持っていた。どこにも負けない練習量と、昨年経験した甲子園で自分達が何をやればいいかを知っていた。初戦の関西戦では10安打を打たれたがマウンドでは余裕を感じさせる。ヒットを打たれても狙って奪った三振は14を数え、失点は1しか許さなかった。2回戦でも強豪の智弁和歌山が相手だが、同じく10安打を打たれたものの2点しか許さない。三振も11を奪う。準々決勝でも強豪・帝京を相手にするが、5−0の完封勝利でベスト4に勝ち上がった。
 準決勝は広陵VS日大三、興南VS大垣日大。有原投手と島袋投手は8回途中でマウンドを降りることになる。有原は12安打13失点と打ち込まれて力尽き、島袋投手は2安打に抑えて翌日に力を残すための降板だった。
 興南が優勝を果たす。伊志嶺翔大、東浜巨から受けたバトンを受け取って走り出した。


第三章

DX Broadrec (出典:wikipediaコモンズ)
 あるプロ野球OBが言っていた。
プロ野球選手は2つに分けられる。甲子園に出た選手と出なかった選手だと。
日本の野球の原点が高校野球ならば、甲子園への想いは、過去も未来も全ての選手にあてはまる。
 この舞台に立った選手は次のステージに目標を定め進んでいく。この舞台に立てなかった選手は、この舞台に立った選手を目標に進んでいく。
 この2つに差は無い。
 2年間ケガに悩まされてきた。気な強いと周りから言われる左腕、マウンドでは変化球をほとんど投げず、ストレートの力で相手をねじ伏せた。自信を取り戻した左腕はもう誰も止められない。佛教大・大野雄大は春季リーグで負けなしの5勝0敗、防御率0.23。
 甲子園で準優勝をしたことがある、でもそれは自分の力ではなかった。2005年の夏の甲子園、京都外大西は長年チームを指揮してきた三原進二郎監督の勇退が決まっていた。監督が勇退した後のエース候補として期待されていた大野雄大は背番号17でベンチ入りを果たすも、チームは1年生・本田拓人の活躍により決勝まで勝ち進む。「監督の最後の年を優勝で飾りたい」、しかし決勝では同じ2年生の駒大苫小牧・田中将大が立ちふさがった。
 自分は甲子園に出場していた。決勝で田中将大と投げ合える舞台に上がっていた、けれど投げる事は出来なかった。斎藤佑樹になれたかもしれない。そう思った事はないだろうか。

 同じく2年間ケガに悩まされた左腕が東北にいた。八戸大・塩見貴洋。帝京五では今治西の熊代聖人の壁を崩せず、ことごとく跳ね返されて甲子園に手が届かなかった。そんな左腕も3年生となった春のリーグ戦で5勝0敗、防御率0.50をマークした。

 春のセンバツ大会は清峰の今村猛、花巻東の菊地雄星の投げ合いが注目されたが、2010年の高校生選手の競演の舞台でもあった。島袋洋奨は1回戦の富山商戦で延長10回に2失点して力尽きたが19奪三振をマークし、全国の舞台に自分の足場を作った。習志野は1年生の時から注目された強肩捕手・山下斐紹が4番に座り、1回戦で勝ち進んだものの2回戦で敗退した。
 PL学園の吉川大幾は1回戦で西条の秋山(現阪神)から3ベースを放ち勝ち上がる。南陽工業・岩本輝は1回戦で前橋商業と対戦、同学年で1番センターの後藤駿太に2安打を打たれながらも完投で勝利。2回戦ではPL学園と対戦すると、同じく同学年で1番センターの吉川大幾に3ベースを打たれるも1安打に抑えて、2試合連続完投勝利。準々決勝では花巻東と対戦、菊地雄星は先発しなかったものの6回まで3−1とリードを奪い、ついに6回から引っ張り出す。岩本輝は高校NO1投手との投げ合いに意気込んだが、7回に3点を奪われ3−4と勝ち越されると、チームは菊池雄星から点を奪うことはできなかった。

 その熱気は季節を夏に進めると、PL学園の吉川大幾は大阪大会で5本のホームランを放ち、偉大な先輩・清原和博に並ぶ。その3本目は準決勝の履正社戦で放たれた。山田哲人は同じ2年生の放つホームランを見上げていた。
 甲子園でも吉川は県岐阜商戦でホームランを放ち、一躍高校NO1スラッガーの称号を得ることになる。智弁和歌山では1年生の春に4本塁打を放った天才・西川遥輝が左手を故障しながらも、天性の感覚で安打を量産し、4割の打率を残した。九州国際大付属は2年生の4番・榎本葵が2回戦・樟南戦で9回に勝ち越しとなる豪快なホームランを放つ。スラッガーの活躍が目立ったこの大会で優勝を果たしたのは中京大中京。磯村嘉孝は2年生で4番堂林の後ろを打ち、花巻東戦でホームランを放つなど相手を打ち崩した。
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 ヒーローの様子がおかしい。どんな試合でも勝利を残してきた斎藤佑樹がストレートを追い求めてフォームを崩し、秋は3勝2敗に終わる。大石達也も2年生の時ほどの安定感が無い。28回1/3で35三振、ベストナインにも選ばれたのだが、防御率は2.22で星を落とす試合もあった。
 そんな中で、甲子園に出られなかった投手がヒーローを追い越そうとしていた。高校時にストレートの速さでは期待されながらも、3年生では投手としてチームで3番手、外野手でプレーしていた中央大・澤村拓一投手は、大学で高橋善正監督と出会うと、人生が変わった。いや自分で人生は変えられることを教えられた。下半身を徹底的に鍛え上げ、神宮球場で156kmをマークすると4勝を挙げたのだった。U26プロ選抜VS大学選抜の試合でも、1番・巨人の坂本勇人を149kmのストレートで三振に切って取り、甲子園に出場しプロでも活躍を見せた同期に肩を並べた。
 九産大の榎下陽大は絶対的エースに成長すると、明治神宮大会では創価大を相手に149kmのストレートで、1安打11奪三振完封勝利を挙げる。大野雄大は秋のリーグ戦でも5勝0敗で圧倒的な力を見せると、明治神宮大会ではその九産大戦で先発し、151kmのストレートで押しまくる。101球の投球で変化球はわずか10球、2安打完封勝利だった。
 そして佛教大は準決勝で立正大と対戦する。先発は同学年の南昌輝と大野雄大。大野は9安打で4失点と崩れるが、南は3安打13奪三振で完封勝利、立正大はその勢いで優勝を果たした。
 神宮球場での榎下陽大大野雄大南昌輝と続いた完封の競争は、ヒーローを追う選手達の、姿の無い神宮のヒーロー・斎藤佑樹と投げ合いを繰り広げる姿に見えた。
 そして2010年、ヒーローと同じ舞台に立ち、学生最後の戦いが始まるのだった。



第二章
 松坂世代、ハンカチ世代とその世代を代表する選手がいる。その選手が誰なのか、高校野球の舞台に上った瞬間から、主役争いは始まっている。
 2010年の主役の登場は、明らかに他の投手と違っていた。
 2008年の夏は暑かったのだろうか?
 7月は平均よりも暑い日が多く、西日本で猛暑日が続いた夏だった。その中でも沖縄の夏は熱く、2008年7月12日、北谷公園野球場は高校野球ファンに注目されていた。沖縄尚学VS興南の準決勝、沖縄尚学は3年生・東浜巨投手の活躍によりセンバツで全国制覇を成し遂げ、沖縄の悲願である夏の大会制覇に向けて順調に勝ち進んでいた。一方、興南の先発は1年生ながら準決勝まで2試合で完投勝利を挙げている、171cmのトルネード左腕・島袋洋奨。入学してすぐに145kmをマークし、名前は既に全国に響き渡っていた。
 初回に東浜がいきなり1点を失うと、島袋は3回までノーヒットピッチングを見せる。6回にポテンヒットで沖縄尚学が同点に追いつくものの、7回まで1−1の投手戦、3年生と1年生の投げ合いが続いた。8回裏に島袋が力尽き、タイムリーを浴びて2失点、3−1で沖縄尚学が勝利を収めた。
 この投げ合いで力を使い果たしたのか、翌日の決勝戦で東浜は初回に5点を失い、春夏連覇の夢は沖縄の空に散った。思えば東浜投手もこの2年前の2006年に1年生エースとして注目を集め、当時3年生だった伊志嶺翔大と頂点を目指したが同じ準決勝で敗れていた。
沖縄の悲願は、センバツ全国制覇のプロ注目の投手と投げ合い全国NO1の打線を3点に抑えた1年生左腕に託され、2年後に春夏連覇を成し遂げることになる。

 もう1人、神奈川の東海大相模で1年生投手がデビューした。中学時に大阪の名門・ジュニアホークスでプレーし、140kmを超すストレートで少年野球の最高峰とも言うべきジャイアンツカップで優勝を果たして、世代を代表する投手として名前の挙がっていた一二三慎太投手。噂に違わぬ15歳と思えない180cmを越える身体から投げられる140km台の重いストレートは、抑え投手として全国一の激戦区の相手をねじ伏せていった。

 世代を代表する投手がいる。高校野球の舞台に上った瞬間から、主役争いは始まっていた。決着は2年後。
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 大学野球では東都大学連盟の東洋大の乾真大投手が活躍を見せる。春のリーグ戦で4勝を挙げて最優秀投手となると、全日本選手権の決勝で東海大と対戦、2番打者として出場していた伊志嶺翔大を抑えるなど7回まで9奪三振の好投を見せて優勝を果たす。
 その東都では1部2部入れ替え戦が行われていた。対戦カードは1部6位の駒沢大、相手は中継ぎに2年生の速球派・澤村拓一、抑えに4年生の美馬学を据え、美馬がMVPの活躍で2部1位となった中央大。澤村はピリッとせず失点するもチームは2勝し1部昇格を果たす。
 東都大学連盟、秋季リーグ戦の開幕カードは中央大VS立正大、1戦目は立正大の2年生エース南昌輝の速球が冴えて1失点完投勝利。続く2戦目は中央大はこちらも2年生の澤村拓一が先発すると、わずか1安打に押さえる準ノーヒットノーランのデビューを果たした。

 東京六大学ではヒーローとそのライバル達が益々輝きを見せる。4年生となったエース須田幸太が不調の中、斎藤佑樹は7勝を挙げて防御率0.83の堂々の1位となると、大石達也はリリーフで8試合に登板16回を投げて無失点、なんと34三振を奪っていた。2度目のリーグ制覇を成し遂げると、明治神宮大会では、斎藤-福井優也-大石のリレーで1回戦で勝利するも、2回戦の東北福祉大戦では斎藤が8回3安打0点に押さえるも福祉大も譲らず、9回からリリーフした無失点男・大石が10回にサヨナラの1失点を喫した。

 早稲田を支えた4年生は松本啓二郎、上本博紀、細山田武史、はプロへと進み、須田幸太はJFE東日本に進んでいった。

 参考:2008年ドラフト会議の結果


序章

油谷サトシ(出典:wikipediaコモンズ)
 高校野球ファンなら誰でもあの試合を覚えている、そういう試合がこれまでいくつかあったと思う。
 2006年の夏のあの試合は、これまでも何度も映像が繰り返されてきた。その度に1人のヒーローが思い出される。いや、そのヒーローが活躍をし続けるので、あの試合の映像が繰り返し流されたのかもしれない。

 そして、今年は、何回もあの夏のあの試合が流されるのだろう。そう思った。
 2006年の熱い夏は予告も無く訪れた。世代を代表する田中将大の駒大苫小牧が3連覇を果たすかどうかが注目の大会だと思っていた。田中将大は2年生だった2005年の夏も4試合に登板して駒大苫小牧の2連覇に貢献、その後、国体、明治神宮大会を制覇し、無敵というべき活躍をみせていた。しかし野球部長の暴力に加え3月に卒業する3年生の飲酒が発覚し、夏春連覇確実を言われていたセンバツ出場を辞退。ブランクがあったもののその圧倒的な強さは衰えず、夏の甲子園でも優勝候補に挙げられていた。
 そのセンバツでは、八重山商工の大嶺、2年生の成田の唐川が1回戦で活躍を見せる中、光星学院の坂本勇人が関西のダース匡から3安打を放ったものの敗れると、勝利した関西高校は1回戦に北海道の北海道栄に勝利した早稲田実業と対戦する。試合は9回まで7−7の点の取り合いとなり、関西は先発の中村からダースの継投しそのまま延長に入ると、延長では互いに点を許さず15回引き分け再試合となった。早稲田実業のエースは斎藤佑樹、1人で投げきった。翌日の再試合では斎藤は先発はしなかったが、3回から登板し4−3で勝利を果たした。その翌日の準々決勝では横浜高校と対戦、先発をしたものの大量失点で敗れた。
 PLの前田健太がエースで4番として活躍し準決勝まで勝ち進んだ。田中将大不在の中、田中の背中を追ってきた選手達が活躍をみせ、後にドラフトで1位指名をされ、プロでも早くから活躍をみせる選手達が集った大会であった。

 2006年夏、駒大苫小牧は接戦を演じながらも、その強さを感じさせ順調に勝ち進む。準々決勝では東洋大姫路と対戦、田中将大は1回に林崎遼に2ランホームランを打たれるも7回に乾真大から勝ち越して5−4で勝利した。
 決勝の相手は10年ぶりに夏の大会に出場したセンバツベスト8の早稲田実業。2回戦では大阪桐蔭の中田翔をノーヒット3三振に押さえた斎藤佑樹が準決勝でも鹿児島商工の榎下陽大との投げ合いを制し、ほぼ1人で投げて勝ち上がってきた。大会前はそれほど注目されていなかった斎藤投手はこの頃には甲子園のアイドルとなっていた。
 そして、あの試合が始まる。斎藤は先発して15回を投げきり16奪三振1失点、田中は3回途中から登板し10三振1失点、1−1で88回大会初の決勝の引き分け再試合となる。再試合でも斎藤は先発し13奪三振で3失点に抑え、9回には打者・田中を相手に147kmのストレートで三振を奪い優勝した。7試合で6完投、948球を投げ甲子園歴代2位となる78奪三振を記録。アイドルはヒーローとなり、この戦いは伝説となった。 
 
 2006年は二人のヒーローに注目が集まったが、田中将大は4球団競合の末、東北楽天に入団、そして斎藤佑樹はプロ入りではなく早稲田大学進学の記者会見を開く。

 参考:2006年ドラフト会議の結果
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 2006年の熱気は、大学野球にそのままもたらされた。2007年、東京六大学の開幕戦には18,000人の観客が詰め掛けた。早稲田大VS東京大の対戦、開幕戦に指名されたのは1年生の斎藤佑樹。6回8奪三振で勝利を挙げると、そのまま4勝をマーク。堂々のベストナイン入りを遂げた。全日本選手権でも1年生エースとして3勝を挙げ、高校に続いて大学でも全国制覇、MVPに輝いた。夏には日米野球のメンバーに1年生で選出されると、1年生として初めて勝利を挙げるなどの活躍でアメリカ開催の大会で初の優勝を遂げる。順風満帆のスタートとなった。

 その大会でもう1人の1年生がいた。国学院大学・村松伸哉。光星学院では坂本勇人とチームメイトだが控え投手で投げている程度だったが、春のリーグ戦で153kmをマークし日米野球ではリリーフとして3試合に登板し1点も許さないピッチングで1年生で最優秀投手となった。190cmからのストレートはメジャー予備軍も打つことができず、斎藤の新たなライバルとして注目されると思われた。

 また2007年は大阪に1人の少年が登場する。富田林シニアの勧野甲輝。140kmのストレートと2年間で20本を越えるホームランを放ち、世界大会でもエースとして活躍をみせた。清原を越える選手として高校野球で争奪戦が繰り広げられていた。

 斎藤佑樹は秋季リーグでも4勝2敗、防御率はリーグ1位の0.78を記録するなど、活躍を続けたが、チームにもライバルが出現する。1人は大石達也投手。福岡大大濠高校でも注目されていた投手だが、野手としての評価が高く春先には内野手として練習をしていた男だ。しかし投手をあきらめることができず、応武監督に直談判して投手としての練習も続けると、秋季リーグ戦でリリーフとして9試合に登板、24回で30奪三振を記録した。
 もう1人は福井優也投手。2005年のセンバツで優勝し、夏に田中将大に敗れた斎藤の1年前の甲子園のヒーローで、2005年に巨人から4位指名をされたが評価の低さから入団を拒否、1年浪人して早稲田大に入学した。肩のケガで1年目は棒に振ったが、オープン戦で150kmをマークし、エースを狙っていた。

 プロに入ったライバル、東北楽天の田中将大は1年目で28試合に先発し11勝7敗を挙げ、プロでも既にエースクラスの活躍を見せていた。巨人の坂本勇人は7月に1軍に上がると9月には初安打が初打点で決勝点となり、ヒーローインタビューを受けるなど、頭角を現す。

 新たなライバルとともに斎藤佑樹はヒーローを演じ、実力でも活躍を見せる。2010年のドラフトは大豊作の年といわれるのに時間はかからなかった。