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5
“お前に降りかかる災厄は、すべて祓(はら)い雪(そそ)がれるように。
お前の身は、いつも清らかなままであるように。
名付けよう……雪。私の、大切な娘――”
――あれは、いつのこと。まだ見ぬ記憶……? 優しい声が、彼女の眠りを包む。
まどろみの中で、心に刻まれた言葉。温もりが、懐かしい。忘れてしまいたいほどに……。
その記憶とはまた異なる温もりが、彼女に触れていた。
「ん?」と薄目を開けると、何だか腕枕をされているらしいと気付く。
ハッと目覚めた雪は、大声を上げそうになった口を、両手で押さえた。
口から心臓が飛び出るような思いだった。
雪が腕枕して寝ていたのは、透麗の腕。おまけに目の前には、彼のどアップがある。
――なっ……なっ、な……どっ!!
「れ、冷静に……」と思うが、目覚めたらイキナリ朝、記憶にないベッド、おまけに
アブナイ男と二人で――となれば、いくら雪でも心臓が持たない。とっさに起き上がろうと
するが、彼女の髪の上に透麗が寝ていて、起きられない。んもう……と舌打ちして胸元に
手をやると、滑らかな肌触りの、シルクのローズピンクのナイトガウンに触れた。男物ではない。
しかし透麗は、少なくとも上半身は……
――げっ……ゲロゲロ……まさかスッポンポンじゃないでしょうねぇっ。
確かめる気にはならんし、動けないし、ハアッと溜息をついた。
そして、ふ……と、改めて彼の寝顔を見た。
「同じだ」――彼女は思った。あの時と……同じ。あの『夢』? の中。
彼女が、夢とうつつをさまよいながら渡っていた時に出会った、透麗の寝顔。
少年のような、あどけなさ。彼のような男でも、寝顔はこんなにも穏やかなのか。
雪は、その端正な面差しを見つめた。やはり……あれは、夢ではなかったのだろうか。
別に、あの場所は、過去であっても未来であっても構わない。その可能性はある。
でも……だとしたら、何だというのだろう。ハタと雪は、考え込んでしまった。
あれが『夢』ではなかったとして――それが一体、何だというのか。
今まで幾らでもあった『夢渡り』。こだわるのは、やはり見知った人間が関係している
からなのか。それとも……『彼』だからなのか。
その時、パッと透麗が目を開け、雪はビクッとした。二人の視線が、モロに繋がる。
彼が少し体を起こした隙に、雪は自分の長い黒髪をグイッと引っ張ると、ベッドの
端ギリギリまで飛び去るように後ずさった。その姿はさながら、全身で防御態勢に
入った猫のようで。
一方、透麗は、そんな彼女に笑みをこぼし、枕に片肘をついた。
「お早うございます、雪さん。よくお休みになれましたか?」
「わけないでしょおっ……!!」
「そうですか。少なくとも、私が眠る前には、良くお休みのようでしたが」
雪は、屈辱で真っ赤になった。
――私としたことが……!!
この、得体も知れぬ男の側どころか、その横で、正体もなく寝こけてしまったとは!
その事実は、彼女に相当なダメージを与えた。
「女性の方は神経質なので、心を許さない者の側では決して安心して眠ることはないと
聞いていましたので。……嬉しかったですよ」
「喜ばないでよ!」
「何か、お気に障りましたか?」
「さ……障りまくり……っ」
「あなたが眠っている間に、あなたに指一本触れるようなことはしていません。
――そんな面白くないことは、しませんよ」
雪が、もうキレるっ!という寸前まで追い詰まって、透麗が少し眉を上げてクスッと笑った
ところで、ビュッと平手が飛び出す。
「……勘弁してくださいよ雪さん。あなたはずっとお休みでしたから良いでしょうけれど、
私は六時間も運転した後で、まだ疲れているんですから」
軽々と片手で受けとめられ、身を乗り出したようになってしまったところでグイと引かれたから、
雪は彼の方に倒れ込んでしまった。
「離してよ!」
「いくら疲れているとはいえ、体は健全ですから、刺激しないでください。何もしていないのに
抵抗されると、却ってその気になります」
「何もしていない、だぁ〜!?」
「だから……落ち着いてください」
この体勢で落ち着けというのも、結構ムリな注文な気がするのだが、絶対優位はアチラだし、
彼がニッコリ笑うので、仕方なく雪も、おとなしくすることにした。
「じゃ……抵抗しなければ良いわけ?」
そうですよ、と言われて、ふうっと溜息。平常心平常心……と思い、そっと目を閉じると、
その一瞬に、透麗が口づけた。雪が蹴り上げるのをかわして、彼はベッドの脇に立つと、
自分のガウンを椅子から取って羽織った。下は履いていてくれたのが不幸中の幸い――
とか思うより、雪は髪の毛を逆立てて怒鳴った。
「抵抗しなくても同じじゃない、嘘つき!!」
透麗は背を向けたまま、くっくと笑っていた。そして、その笑いをこらえきれぬように、
ベッドの上に正座している雪を振り返ると、本当に可笑しそうに、
「あなたは本当に可愛いひとですよ、雪さん……。ますます好きになりました」
「いたぶるのも、いー加減っ、に、してよねっ」
「あなたが興味を持たれていた寝室にお連れしたのですが。――ご感想は?」
「サイテーっ」
おやおや……と、透麗は溜息をつくと、ベッドの脇に腰掛けた。
「お帰りになりたい時は、お送りしますよ」
「その前に……シャワー浴びさせて。……髪に、煙草の匂いがしみついたわ」
「そのままでは弁明が立ちませんか」
「どうしろっていうの?」
雪は、自分の髪を、体の前に束ねた。
「そのままを話せば良いじゃありませんか」
「……言ってくれるわね」
ハッと息をつくと、雪はベッドの脇に降りた。
「疑われると思うんですか?」
「螢は、疑わないわ。……私の言葉なら、信じるでしょ」
「やはり、螢君のことだけですか……。あなたの心には、彼のことしかないようだ。
いけませんよ、近親相姦しちゃ」
「大きなお世話よ。いい加減にしないと……本気で怒るわよ」
「本気でなんて怒りませんよ、あなたは。――螢君が、悲しみますからね」
……絶句。
雪は、あきれ果てて溜息をついた。
「あなた、だから私が、何やっても怒らないなんて思って、好き放題やってくれるわけ?」
「いいえ。単に、あなたの反応が可愛いので、遊びたくなるだけです」
……もっと始末が悪い。――けれど今、彼女の心に、曇りは無かった。昨日まで引きずり続けた、
過去の重み。それらから解放され、彼女らしい、自由な感情のままに、息をしていた。
そんな『自然』に彼女を導いてくれたのは……やはり、透麗の所業ということになるのだろうか。
それを認めたくなど無い雪だろうし、またきっと、そんな現象の理論には、まだ彼女は気付いていない。
だが、それに気付くのも、そう遠くない話かもしれない。
――その時、彼女は、何を思うだろう。