次へ 『末日聖徒』目次へ NOVELSへ TOPへ
4−2
思わぬ出来事で、慧の足は遅れた。しかし、再び歩みを取り戻せば、程なく目的の場所へとたどり着いた。
――そこは、彼の先祖達が、永き眠りに就いた場所。土手のように高くなった場所に、ずらりと並ぶ墓石。
それにしても、地味なものだった。当主は、一人ひとり祀(まつ)られているとはいえ、丸い自然石を使っただけの、
簡素な墓。そして、その右端……一番新しい墓石の前まで、慧は歩いた。
正確に言うと、右端の墓は、左側に、一つ空きがある。先代の先代が、まだ健在であるためだった。
螢は、すっと屈むと、霊前に手を合わせた。
「伯父さん……もう、十年になりますね。僕も、汀家の当主となって、五年が過ぎました」
先代が急逝した時には、まだ慧は若すぎた。それ故に、彼が成人するまでの間の五年は、彼の祖父が
再び当主としての任に就いたが、病体となったため、実質的には八年前から、慧は当主代理を務めていた。
きっと、雪は来る。
慧は、そう確信していた。今までも、毎年来ていたに違いなかった。その度に、姿には出会わなくとも、
何者かが詣でた気配で分かった。
先代汀家当主の墓であるにも関わらず、ここを訪れるのは、慧と雪だけであろう。
皆が、禁忌に口を噤(つぐ)むかのように、この奥津城のことを語ることはない。
「僕は……伯父さんの意に反することをしたのかもしれません。でも、後悔は……してません。
雪ちゃんも、螢君も……僕は、失えなかった。――伯父さんだけじゃない、母さんも……
汀家の人間は何故、雪ちゃん達を護ろうとしないんでしょうか?」
慧が、慣習に反すると言いつつ、若くして当主を継いだのも、そうすれば彼自身の意志で、
雪達に援助ができると思ったことが、大きな理由だった。
「雪ちゃん達が一体……何をしたというんですか……」
――答えてくれると、期待しているわけではない。だが、どうしても分からなかった。
うなだれるだけ……。
慧は年を追うごとに、、自らの無力さに苛まれた。
そして今、彼は、自分の「汀家当主」としての立場、資質すら否定する男に出会ってしまった。
雪を護るどころか、自分の地位すら守れるのかどうか。
“影小路”
以前、雪が言っていたのは、あの男のことだろう。
不穏な気、不吉なまでに妖しい美しさを醸し出す気をまとった男。
間違いなく、自分とあの男は、相容れない性質、正反対の存在であると、慧は確信していた。
雪は……あの後、何も言ってこなかったが、一体どうしているのか。
何故、あの男は自分に会いに来たのだろうか。
様々な憶測が、出口を探すばかりで滞る。
「伯父さん……僕たちには、過去に戻る術(すべ)など有りません。もう、ここまで来てしまった。
戻れないんです。だから、せめて……これからの雪ちゃん達の行く末を……見守ってあげてください」
これも、期待できない願いではあった。しかし、口に出さずにおれない言葉だった。
慧ひとりには重すぎる。
雪と、螢と。そして、「汀家」という存在を護るという役目。
少しの間に、随分と雲が吹き寄せられたように見えた。
時の移ろう程に姿を変える空か。
風が冷えてきたので、そろそろ帰ろうと、彼は立ち上がった。振り返り……石段を降りようとしたところで、
ハッとした。
更に下へと降りるための石段を、丁度下から昇った所に――雪がいた。
喪服さながら、黒いワンピースに黒のグラヴ。そして、細やかな装飾品には、真珠が。
その手には白い百合の花が抱えられ、辺りにその芳香が満ち始めていた。
慧は。軽く息をつくと、ゆっくりと石段を降りた。雪も、真っ直ぐに歩いた。
が、彼女は、すっと、慧の横を通り過ぎた。
「雪ちゃん……?」
戸惑った慧が呼びかけると、その後ろ姿もピタリと止まった。だが、振り返りはしない。
「お願い……慧ちゃん」
震えるような声が、背後の彼に向けられる。
「今の私を、見ないで。どんな顔……どんな眼をしているか。誰にも、自分にも見られたくない。
――私を労(いたわ)ってくれるのなら……このまま私を、振り向かせないで」
慧が、黙って立ち去った後、彼がそうしたのと同じように、雪は、そっと墓石の前に屈んだ。
志の白百合の花は、そのままそっと置かれた。
「……ただいま。――お父さん。この一年は……どうでしたか?」
静かな声は、まだそれ程、心の波の乱れを映してはいない。
「私の方は……色々なことがありました。もう、十年……ですものね。螢も、もう高校生になります。
体も、随分と丈夫になったし」
淡々と日常を語る言葉は、とても穏やかなものだった。だが、それも話が尽きてしまうまでのこと。
やがて言葉を無くせば、幾度も繰り返された問いかけが、再び巡ってくる。じっと墓石を見つめていると、
懐かしい面影が、浮かび上がってくるようにも思える。懐かしい……愛してくれていたはずだった人の。
――不意に雪は、視界が潤んだ。それに、自分でもハッとして、瞬いた。だが、そんな仕草が可笑しくなって、
自分で、ふっと笑った。可笑しい……とても可笑しい。なのに、彼女は今、独り。独りきりで笑うことなど、
できない。その悲しさが、すぐに彼女から笑みを奪った。
うつむく瞳。語られる言葉は、恐れながら、しかし尋ねずにはいられない疑問への問いかけだった。
「お父さん……。やはり私は……“呪われた子”なのでしょうか……?」
忌まわしい過去を、何故今更にえぐり出さなければならないのか。
物言わぬ父は、肯定も否定も、してはくれない。
「どうして……」
――答えてくれはしない。どんなに声を枯らして叫んでも、血を吐くように祈っても。
もう、答えは永遠に閉ざされた闇の中。正しかったのか、偽りであったのかすらも分からぬままに、
永劫の闇を、疑問符ばかりが漂い続ける。これからも……ずっと。
「呪われている」との烙印を押されたまま、生き続けてきた。そして、これからも、ずっと。
それに、いつまで精神が耐えられるのか。雪には、分からなかった。
十年の歳月を経て尚、その耳にこびりついて離れない言葉が、愛されていた頃の記憶すら覆い隠す程に新鮮に、
彼女の記憶を焼き尽くす。いっそ、真っ白に、何もなくなるまで燃やしたい程なのに、それだけは無い。
薄れるどころか、次第に色濃くなっていくようにすら思える時がある。
――答えてください……。
望めない言葉でありながら、心は常に求め続けていた。
もう、これから家に帰る気力すら、失せているように感じた。しかし、帰らないわけにはいかない。
螢がいる。
螢が……彼女の帰りを、待っている。それだけを気力に繋ぎ、雪は家路につくことに決めた。
今ならば、まだ最終の新幹線まで間がある。雪は、静かに立ち上がった。
涙など、一粒も零さなかった。そんな不毛なことは、しない。
少なくとも、運命は、もう分かたれてしまったのだから。十年前の、あの日より。
それぞれの運命……雪には、もう戻れぬ過去にまどろむのではなく、前へと進むことしかできない。
彼女独りなら、前者の可能性もあっただろう。けれど――螢がいた。螢を、愛していた。
そして螢も、雪を愛していた。
雪には、まだ失うものが残っていた。
誰にも頼れない。誰も、彼女の涙をぬぐってはくれない。だとしたら、何故涙を流すことがあるだろう。
無意味だった。
そうやって雪は、自分自身を抑え続けることができた。
けれど、ろくに前も見ずに、石段を降りた。ほんのひととき……現実から目を背けたかったのだろう。
そんな時もある。だが、またもう一つの石段を下ろうとした時に、ふと、目を上げた。
すると……思わぬ光景に、出くわした。
影小路透麗が、その下で待っていた。
まるで、彼女が仕事を終えて、事務所を出てくる時のよう。
それを待ち受け、「お疲れ様でした」と手を差し伸べる姿と、何ら変わりない。
そんな、現実の中の現実のような光景のはずが、今は不思議な光景に見えた。
何故……今、彼女を迎える人物がいるのだろうか――と。
彼女は、独りであったはずなのに。
雪は、胸の動悸を抑え、ゆっくりと石段を降りた。
もう辺りは、薄暗くなっていた。彼には、こんな薄闇が、よく似合う。紫の空に霞む夕陽――美しい、宵の口。
下まで降りて、彼が間近な存在となった時、彼女の喉元に、焼けつくような感触が生じた。
何故、彼がここにいるのか。それを問うことすら愚かしく思える、美しいひとときだった。
心迷う口実には、事欠かない、こんな夕闇。
見上げれば、穏やかな彼の視線が、用意されていたかのように彼女を迎え、そして柔らかい抱擁を与えようと、
待っている。
「私……知っているのよ」
彼女の第一声は、そんな言葉だった。そして、喉元の熱さは、焼けた石を飲み込んだように、激しくなった。
「貴方、そんなに優しげに私を迎えるけれど……本当は、ちっとも優しくなんかないんだって。
見せかけだけの、偽りの笑みで、私を惑わすのね……? でも私……それを、知っているのよ」
透麗は、何も言わなかった。ただ、変わらぬままに、彼女を待っていた。
肯定もしなければ、否定もしない。
「貴方……ずるいわ。人の弱みに、つけ込んで」
その頃には、もう吐き出さずにはおれない程に、喉が苦しかった。喉だけではない。全身が……頭まで熱く、
ボウッとしていた。
「だけど……」
声が震えた時、すっと彼の手が、差し伸べられた。そして、彼女を待たずに、抱き寄せた。
「楽だわ……。分かってても……知ってても……」
独りならば、それなりにまたそれで、耐えられたに違いない。けれど彼女は、独りではなくなってしまった。
独りで立つつもりが、歩くつもりが……抱き寄せられてしまった。
もう、独りでは立てない。
この腕の暖かさ、その中の安らぎ。知ってはならなかったものを、知ってしまった……。
「――可哀相に、雪さん。……どこまでも気丈ですね」
やっと開かれた、彼の言葉。それを聞いた途端、雪の喉のつかえが、一気に融(と)けた。
そして彼女は、透麗の腕の中で、泣き崩れた。
涙と一緒に滑り落ちてしまいそうになった彼女を支えたのは、彼の腕だった。