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3−2
雪は静かに息をつくと、刀を鞘に収め、また別の咒を唱えた。――若妻は、それからどれ程の間、
そうして伏していただろうか。彼女がやっと顔を上げた頃、雪の咒も終わった。
「……何故、岩本さん……何故……?」
途方に暮れた瞳がさまよい、静かに刀を布袋にしまっている雪のところで止まる。
「仕事は終わりました」
平然とした雪の言葉が、若妻を戸惑いへと突き落とす。
「どうして、岩本さんが私を呪っていたの!?」
雪は視線を移さぬまま、静かに呟いた。
「あの男性……岩本さんとおっしゃる方。御主人の後輩ですね。あなたと御主人が出会うより、
ずっと以前からの」
若妻の肩は、ガタガタと震えていた。女……ではなく、男。それも――
「連れて行ってくれなかったのは、彼なのに……私、結婚は取り止めても良いって、そこまで……!」
「――彼が愛していたのは、あなたではなかったということでしょう」
淡々とした雪の言葉に、彼女は一瞬、その意味を理解しかねて眉をひそめた。だが、その途中で
何かに気付いたのか、ハッと口を押さえた。「まさか」という、認めたくなど無い思いに満ちて。
だが、そう考えれば辻褄の合う記憶を次々に思い出したのか、わななく唇は、それを否定
し得なかった。
「彼が欲しかったのは……私じゃ、なかった」
呆然と雪を見つめる若妻に、彼女は応えなかった。運命の選択の手助けになるような発言は、
何一つする気はなかった。
「そんなことよりも、あなたにはもっと考えなければならないことがあるでしょう。――あなたは、
岩本さんに好意を持っていた。今の御主人との結婚を止めても良いと思える程に、心揺れていた」
あまり、気は進まない。しかし、言わずにはいられなかった。
「けれど……結局、あなたは御主人と結婚された。そして、日ごとの悪夢。――あなたは、自らの疚(やま)しさを、
御主人のかつての行状から来る疑いにすり替え……そして、お腹のお子さんが岩本さんの子供かもしれない
という不安を隠し、忘れる為に、すべてを物言わぬ胎児に押しつけ、流してしまおうと考えた。
……すべては、あなた自身の疚しさ、そして猜疑心から生じたことです。鬼が夢に現れたのも、あなたに、
付け入られるだけの要素があったからです」
決して責める口調ではなかったが、若妻はワッと泣き出した。
――雪はそれを、しばらく放っておいた。自分の不義に対する不安を忘れる為に夫を疑い、胎児を呪った。
そんな彼女の弱さを、雪は責めはしない。人間とは、そんな愚かな存在なのだから。
「ここからどうなさるかは……あなたの選択です。だけど、これだけは考えてください。子供は親が無くとも
育つ、とも言われています。でも、愛してくれる人がいなければ、どんな人間……オトナだって、
生きてはいけません。生む生まないの自由は、あなたに有るとも言えます。でも、もうその子は……
あなたの内で、『夢』を見ています。……生まれる以前の記憶として。人として生まれるならば、
当然に望む幸せ――その可能性は、あなたの手に委ねられているということを……考えてください。
『呪われている』なんて言われたら……子供は……どうしたら……」
そこで、声が詰まった。……感情的になってはいけない。そう心に言い聞かせ、必死に平静を取り戻す。
それからまたしばらく、重苦しい沈黙が続いた。
「――岩本さんは、今……何処にいるんですか?」
細く、かすれた声が、伏したままの若妻の口から漏れた。雪は軽い溜息をつき、髪を縛っていた組紐を解いた。
「おそらく……自分が何をしていたのか、気付いてしまったでしょう。これまで自覚はしていなかったでしょうから。
……彼が、これからどうなるのかは、私には分かりません」
理性とは異なる、自分では押さえられない感情。時としてそれは、人の哀しい性(さが)を、浮き彫りにしてみせる。
『呪うもの』とて、『呪われるもの』以上に哀しいのだと。
「会社は、とうに辞められたのでしょう? あなた方のご結婚の前に、姿を消していますね」
雪の問いに、若妻は、ゆっくりと顔を上げ、頷いた。
「今、誰のことを考えるかも、あなたの自由ですけれど。……よくお考えになることです」
「私――主人に話します。……岩本さんのことも」
不意に、静かな、しかしきっぱりとした声で、彼女が言った。体を起こしたその瞬間に、雪とも、しっかり目が合った。
「主人を愛していると……確かにそう思います。だから、この子は生みます。彼の子だと信じて。それで彼が
許してくれなくても、私は彼を愛していると、それだけでも……伝えたいと思います。でも――岩本さんにも、
謝りたい」
そんな都合良く、円満に解決するものとは、雪には到底思えなかった。知らない方が良いことだって、世の中には
幾らでもある。――だが、まあ良い。それは、彼女の人生なのだから。巧くいこうといくまいと、それもまた彼女のたどる
運命の一過程。他の目にどう見えようとも、その選択は彼女のもの。
雪は、そっとうつむいた。
「先程……最後の術として、安産の法を行いました。――これは私個人の願いでやったことですから、お代は頂戴しません」
「涯見さん……」
「今おっしゃった言葉を、大切にしてください。そして、あなたの愛する人を」
雪の膝の上で、きゅっと拳が握られた。――愛してくれるものがいなければ、人は生きられない。まして、愛しているものに、
“呪われている”などと、言われたなら……。
若妻が去ってからも、雪はそこを動かなかった。相変わらず、灯りはチリチリと灯り、香炉からは、うっすらと煙が
立ち上っている。そしてまた、灯りが、ジリッ……と燃える。
雪は正座をしたまま、軽い震えを堪えていた。
「――いつまで……続くの……」
血管が、熱い血に満たされている。全身が、ジワジワと熱を帯びていく。
「この世の……末日(おわり)まで……?」
自嘲にも似た、遠い溜息が漏れる。ガクッと片手を体の前につくが、段々と迫る胸の苦しさは変わらない。
そして、ハッと気付くと、目前に置かれた『洸』月に、異変が起こっていた。
カチカチカチ……チリーン……と、ひとりでに音を立てている。まるで、全身を震わせ、すすり泣くように。
……叫びを上げるように。雪は、そっとそれを見つめた。今までにない、異様な現象だった。
「私の血が……欲しいの?」
深い息をついて灯りを見上げると、ポウッと、赤く、霞んで見える。
「ダメよ……今は、まだ。待っていて……?」
切なさが胸にこみ上げ、更に目前が、揺らいだ情景に歪む。
――赤い、霧? 黄……橙……赤。灯りの色の所為と、彼女の目の所為なのか、辺りが赤い霧に
包まれるような錯覚が始まっていた。
「な……に……?」
香炉の煙が、その色に染まり、血脈のように、ドクン、ドクン、と脈打った。それは、心臓……?
人体を形成し、やがて――雪にはそれが、次第に、見覚えのある人物の顔になるのが分かった。
「……お父さん?」
熱い――体の中から、焔が燃え広がっているようだった。
「い……や、お父さん、やめて……!!」
幻覚、なのか? それとも? ぶよっとした手形が、彼女の細いうなじに巻き付く。
「また私を殺すの……? お父さん、死んでからも、まだ、私を殺さなきゃならないの……!?」
苦しい――本当に息が詰まっていた。これは彼女の思念の現れなのか、それとも本当に、冥界よりの
来訪者の仕業なのか。雪に判断はつかない。彼女は既に、全身を地獄の業火に焼かれるような痛みと、
煙に巻かれる息苦しさに囚われ、動けなくなっていた。
――私は、死ななければならない? この世の初めから、生まれる前から、そう決まっていた……!?
気が遠くなる。瞼の裏に煌(きら)めくのは、赤い星の群れ。美しい……実に美しい。血の色……死の色か、罪の色か。
「け……い……」
――彼女は一言も、「死にたくない」とは、言わなかった。ただ、この一言。
螢への思いのみが、雪を現世に縛り付けている。それがなければ、とっくに冥界に引きずり込まれている
ところだろう。
「雪さん!!」
バシッと戸が開かれる音がして、雪の全身を締め上げていた霧が、ふっと消えた。螢が、雪の異変を感知して、
駆けつけたらしい。
「雪さん、どうしたの!?」
仄かな灯明のみの下、床に倒れた雪を、螢が抱き起こす。
「け……い」
やっと、気道に空気が通る。雪は、ごほっと咳き込んだ。螢には何の異変も顕れてはいないやはり……
雪の幻覚だったのだろうか。
「雪さん……大丈夫?」
「……熱い」
雪は、ハアッと息をつくと、螢の首筋に抱きついた。触れ合った箇所が、螢にも彼女の熱を伝えた。
「雪さん、熱が……?」
「螢……お願い」
「なに?」
「――足袋を……脱がせて」
螢は、そっと雪の腕を解くと、彼女の足袋を脱がせてやった。つま先まで熱くなっていた雪は、やっと息が
出来るというように、深い息をついた。素足に触れる、冷たい床の感触が、心地よい。
「あぁ……気持ち良い。――頭から、水かぶりたい」
「風邪ひいちゃうよ……。ホントに、どうしちゃったの?」
寝転がったまま、床にべったり手足を伸ばす雪。そんな彼女の横に、螢はチョコンと座り、そろっと彼女の顔を
のぞき込んだ。その螢を、雪の腕が捕まえた。
「わっ!」
「夢を……見たの、かな。昔の……『夢』」
ぎゅっと、胸の上で、螢の首を抱いていた。
手に触れられぬものに、連れ去られぬように、この世のものとして、抱き留めていた。