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3−1
「螢、足袋(たび)が見つからないんだけど……」
“本日の特売品”の詰まった買い物袋を抱えて帰ってくるなり、白い上衣に緋の袴を
着けた雪に出迎えられ、螢は面食らった。
「雪さん……もう帰ってたの」
いつもならば、あと2時間は帰ってこない。それに、どう見ても仕事の服装だった。
「足袋なら、雪さんの部屋のタンスに入ってるよ。あ、一番上の隅っこに、箱に入れて
しまったっけ」
家の中のことは、螢の方がよく分かっている。彼は靴を脱ぐと、取りあえず荷物を置きに
台所へ。雪は、足袋を探しに、部屋に戻った。
「――ああ……有った有った」
奥から声がして、雪が戻ってくると、足袋をはきながら台所の戸口に手をついた。
「雪さん……これから仕事なの?」
家で、というのが珍しいことなので、螢はテーブルの上の買い物袋を片づけながら尋ねた。
「ん……」
雪は、気のない返事しかしない。どうも、あまり乗り気でない仕事なのは確かなようだった。
「……ゴメンね。ちょっと、マジな仕事なもんで、こっちに来てもらうことにしちゃった。
――でも、すぐに終わる」
「そんなの構わないよ。でも……雪さん、大丈夫? 何だか、顔色良くないし」
螢は、雪に歩み寄る。
「そんなに……しなくちゃならない仕事なの?」
「ん……そういうわけでもないんだけどね……」
「――無理しないでね。僕、養ってもらってる身だから、偉そうなことは言えないけど……
今は、二人でも贅沢な位の生活をしているし、わざわざ辛い仕事しなくても」
「バカ。大丈夫よ。お金のためにやってるんじゃないし」
雪は、クスッと笑うと、それでも心配顔の螢の頬に手を触れて、
「完全結界を敷くけど……一応、これ貼っておいて」
そう言って、鎮宅の護符を渡した。螢は、深刻な表情でそれを受け取り、また雪を見た。
「……そんなに大変なの?」
「違うわ。でも、うちでやるの久しぶりだし……ちょっと、注意しすぎてるだけ。仕事といっても、
略式でやっちゃうし」
「――気を付けてね」
いつまでも心配顔の螢に、雪はふうっと溜息をつくと、ぐいっとその肩を押しやって、
ぱしっとお尻を叩いてやった。
「さっさと夕飯でも作っとれ! そんなに姉さんの仕事が信用できないの?」
「そういうわけじゃないけど」
きっと、その時の雪は、本当に顔色が悪かったに違いない。総ては昨日の朝――
あの『夢』から始まっていた。そして、『月』。彼女の精神(こころ)を乱し、迷わせ、惑わす、
美しい夜の神。
* * * *
離れに、小さな祭祀所がある。ここには、螢は立ち寄らせずに、掃除も雪一人がやっている。
雪が、螢が仕事に関わることを好まないことは螢もよく理解しているので、ここには近寄らない。
――自性清浄なる一切諸法よ 我は自性清浄也。
略式とはいえ、完全結界を敷かなければ、近くに居る超過敏体質の螢が影響を受ける危険を
避けられない。それには術者である雪自らが、まず身を浄(きよ)めていることが条件となる。
そして立ち会う依頼人、ならびにその場所自体。それらが総て浄められていなければ、
結界は不完全なものになる。
雪は、祭祀所の入口で残りの咒も唱える。
まだほとんど欠けていない月が、雪の横顔を神々しく照らす。
依頼人の若妻は、都心の事務所で会った時とは、全く異なる神秘的な雪の姿に
不思議な美しさを感じつつ、立ちつくしていた。
五種の印を結び終わると、雪はスッと視線を上げ、何をしたら良いのか分からずに
黙って立っていた若妻を振り返ると、今度は彼女の心身の浄除咒を唱えた。
「……どうぞ、お入りください」
ピタ、と声がやみ、その次に雪が口を開いたのは、その言葉。
「えっ……」
突然に背を押された若妻だが、戸は開けてもらっても、中が真っ暗で心細い。
「あの、電気……あります?」
「ありませんけど。そこにいらしてください。すぐに灯りをつけます」
どうせ細々と説明しても納得いくまいと思う雪は、とにかく早く終わらせたいので、
若妻の背を押して中に入れてしまうと、自分も入り、くるっと戸口の方を向くと、
そこにもまた咒を唱えた。そうしてからピシッと木戸を閉ざすと、その境目に
護符を貼り付けた。――が、既に中は闇なので、若妻には雪が何をしているかは
分からない。
「転ぶといけませんから、そのまま動かないで待っていてください」」
雪は、闇の中でも勝手が分かっているから、さっさと動ける。
そして、カチッと音がして、火が灯る。正面から、左右で一対、灯明が立っている。
その光景は何やら厳かで、現世とは隔絶されたような雰囲気を醸し出すのだが、
点火に使ったのがチャッカマンだったりするのが、妙に現代的だった。
「本式は護摩段を焚くんですけど、消防法とか面倒でして、略式でやらせていただきます」
「は……はぁ……?」
やっと灯りが灯り、辺りの様子が次第に分かってきた若妻は、靴を脱いで中に上がると、
雪の所まで歩いてきた。
正面には、何かの掛け軸。しかし灯りが乏しく、何が描かれているのかは、よく見えない。
そして、その前には小さな祭壇と思しき白木の段。その上に、鏡などが置かれている。
雪は、その前に、小さな香炉を置いた。
「薫りはきつくありませんか?」
「……大丈夫です」
雪の斜め後ろに座布団を敷いてもらって、若妻は座った。
「あのう……」
「何ですか?」
雪は、自分の前に、細長い棒のような包みを置いた。
「これから……一体、何をなさるんですか?」
遠慮がちに、しかしどうしても気になるという様子の若妻が、正座した膝の上に、
両の手を揃えて尋ねた。雪は特に表情も変えず、そっと床に手をつき、若妻の方に
くるりと体を向けた
「あなたのご依頼の通り……その悪夢の原因を明らかにし、できることならば取り除きたい
と思っています。あなたが誰かに怨まれていると仮定して……それが、一体何者なのか。
あなたは、御主人の昔の恋人か、愛人だと思っていらっしゃるようですけれど」
「別に私は……!」
「今からでも、まだ仕事はキャンセルできます」
半分立とうとした若妻が、ハッと硬直した。雪の眼は、嘘をつかない。少なくとも、何でも良いから
だまくらかして依頼料を取ろうとしている者の眼ではない。寧ろ、「仕方ないから」――やっているのだ
という、重苦しいまでに腹の据わった眼だった。
「……あなたは、心に病を抱えている。恐ろしい夢……それを、お腹の子供のせいとまで思い詰めて、
遂には、その子が呪われている、などという妄想にまで高じて。――私は信じません。
その子は、呪われてなどいません。悪夢も必ず消えるでしょう。……その子を堕ろしたりしなくても」
雪は、彼女が内密に堕胎を考えていることも、気付いていた。だが、それ自体について
声を荒げることはしない。
「私は……“そういうこと”は、あなた自身にも決定権はあるとは思います。けれど……」
“けれど”――そこで、言葉を濁した。これ以上は、言うべきではないと思ったからだろう。
若妻は、ストン、と肩を落とし、うつむいた。
「まず、あなたの『夢』の中に出てきた、『鬼』の正体をつきとめようと思います。もしそれが、
実体を持つ存在、つまり、ある特定の人物であれば……その存在は顕在化されるでしょう。
その後の処置は、その都度考えます」
何とも大雑把な解説だが、やはりそれも、雪が何か予見するものがあってのことだろう。
「何が起こっても、一度お引き受けした仕事であるからには、依頼人であるあなたの身の安全は、
私が保証します。だから、それはご安心ください」
微かに震える若妻の手を、雪は、そっと握った。かといって、そんなに簡単に、『鬼』は正体を
現さない。『仕事』で費やされる時間の八割は、相手が姿を現すまでに費やされると言っても
過言ではなかった。
雪は、ひたすら咒を唱え始める。
灯りはチリチリと揺らめき、香煙は静かに立ちこめてゆく。
その中に、雪の低めの声だけが通る。いっそ静寂の方が、まだ心が落ち着くだろう。
得も言われぬ緊張が、小さな閉ざされた空間を、押し広げるように増長する。
しかし、十分、二十分……三十分と経てば、傍観者の集中力が持続しようはずもない。
初めはコチコチになって、雪やその周囲を、眼を皿のようにして見守っていた若妻も、
溜息をこらえるのに精一杯になっていた。しかし雪は、相変わらず咒を唱え続ける。
それから、しばらく。
それまで閉じていた彼女の目が開かれた時、香炉から立ち上っていた煙が、
妙な形に揺らめいた。
雪の声は、途切れない。しかし彼女は、目の前に置いてあった細長い包みを
そっと取り上げると、くるくると紐を解いた。
その時の、シュル……という衣擦れの音に、若妻は顔を上げ、突然濃厚になった煙の中に
現れた、人の顔らしい形に、声にならない悲鳴を上げた。
雪は冷静に、包みの中から一振りの刀を取り出す。外見は古びてみすぼらしいが、
ひとたび抜けば、神も魔も断つと思われるような、鋭い光を放つ白刃が現れるのだが、
霊刀であるが故に、この『洸月』が抜かれることは、滅多と無い。
そして今もまた、その鍔は未だ切られていない。
「やはり……生き霊のようね」
雪の呟きは、誰に向けられたものでもなかった。つまり、彼女が唱えていた咒は止んだことになる。
しかし、その頃には既に、吹くはずのない風が空間を揺らし、香煙は生有るものの姿態の如く、
身をくねらせていた。
「いき……りょう……?」
「おそらく、あなたを呪っている相手は、自分が『鬼』の身となっていることを、自覚していません。
あまりにも思い詰めた結果、意識下の念が体を離れて、あなたを苦しめる夢に現れる『鬼』となった。
……望んでそうなったというよりは、苦しみの果てに心が引き千切られて、人間の心の一番暗い
部分が、暴走してしまった結果です」
「そんな……きゃ!」
風が吹き付けるように、煙が二人の方に覆い被さる形になり、若妻は後ろ手をついて、のけぞった。
「砕っ!」
刀を逆手持ちに立てた雪が一声を発すると、煙はバッと散ったが、すぐに元の形を取り戻そうと
しているのが分かった。
「水谷さん……これがあなたの運命です。ここからの選択は、あなたの自由」
ざわざわと煙が立ちこめる中、後ろで結んだ雪の長い黒髪も揺らめいた。
若妻は、雪が何をしようとしているのかは理解せずとも、彼女の手の刀と、段の上の鏡とを、
交互に見やった。
雪の咒が、一層強い声になり、空間が張りつめる。
そして、ふっ……と、雲が途切れたように晴れた瞬間――若妻は、鏡に映った人物の顔を見て、
思わず叫んだ。
「岩本さん……!?」
空間が軋(きし)むような、奇怪な音。それが、悲鳴のようにも聞こえる。
雪は、完全に刀を鞘から抜き、香煙の中に現れた鬼の実体を、両断した。
「やめて!!」
若妻が顔を覆って、床に倒れた。
――耳の奥に、聞こえるはずのない声……叫びが、こびりつく。