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2−1
とにかく、依頼人には帰ってもらった。
……何故、引き受けてしまったのかと、後悔はあった。
慧に頼まれたわけでもなく、彼女が自ら承諾した上で引き受けた依頼。
本格的な「仕事」。心が晴れようわけがない。だが彼女は、引き受けてしまった。
理由は――
「……あぁっ、もぉ!」
椅子に腰掛けたまま、雪は肘をつき、ぐっと額を押さえた。
“触れたくない傷”――それは、彼女が依頼人である若妻に向けて言った言葉。
表面的には癒えたように見えても、禍根は、その傷痕の奥深くに残されたまま。
それを完全に取り除こうと思うのなら、もう一度、傷痕を深くえぐらなければならない。
それだけの勇気を持てる人間が、どれ程いるものだろうか。触れたくはない傷痕。
ふさがった傷の下に眠る過去。人は何故、必要の無い記憶をも、忘れずに
背負い続けなければならないのか。「忘れてはいけない」からなのか。
だとしたら……大人の童話は、永遠に続く残酷劇だ。
「忘れられない」から、「思い出させるもの」から逃れようとする。
記憶の断片を繋ぐものを遠ざけ、今朝見た夢すら、思い出すことを拒む。
憂鬱な気分のまま事務所を閉め、雪は正面玄関から外に出た。
そして、そこでハタと立ち止まった。
薄墨をぼかしたように広がる宵の色にも沈まず、鮮やかに夜へと誘う案内人――
影小路透麗がいた。彼女を待ち受けていたのか、堂々と正面に車を停めている。
彼女との視線が繋がると、闇をも酔わせる笑みが、彼女だけに向けられる。
「お疲れ様でした、雪さん」
雪は、無言で彼の前に立った。
「……あなたの方は、これから夜のお仕事じゃないの?」
そう表現すると、やたらいかがわしい。まぁ確かに、いかがわしくないとは言えない。
が、透麗は動じず、
「私も働き蜂ではありませんから、大切な女性と過ごす時間も必要です」
「そ……。またタダ酒飲みたくなったら遊びに行くけど。あなたのお店には」
雪は、VIP御用達、超高級クラブ“薔薇龍”の店主である、『男爵』こと影小路透麗の
「大切な女性」ということで、顔パス。庶民は、まず立ち入れぬような場所で、高い酒でも
フリーチャージ。雪も節操ないが、別に透麗が好意を示しているだけだと考えれば、
こちらから頼んでいるわけでなし、弱みにつけ込んでいるわけでもないので、気が向けば
遊びに行く。
「――今宵は仲秋名月ですよ」
「へぇー……そうだっけ。風流に月でも愛でようって言うの?」
「そうです」
皮肉ったつもりが、全然ペースを崩す相手でなし。雪は、ふうっと溜息をついた。
「お月見ねぇ……」
そう呟くと、透麗の手が差し伸べられた。何だか、彼には不似合いな、ほのぼのとした
イメージが浮かぶ。
「私……どーっちかっていうと、『花より団子』の人なんだけど」
とか言いつつ、既にその手は、透麗の上に重ねられている。自分でも、ちょっと
子供っぽいとは思っているが、それは何処か甘えた声のようにも聞こえる。
そんな彼女に、透麗はクスッと笑った。
「“花”で……我慢してください」
そう優雅に呟くと、彼女の手に口づけた。
* * * *
「つっきみだ月見だ、お団子だ〜い♪」
はしゃぐのもまだ可愛い新米雑誌記者・倉橋トオル君は、風呂敷包みの重箱を
抱えながら、軽やかに歩いていた。その隣では、大して年齢は違わないのに、
やたらスカしたツラして歩いている先輩・椙本雄生が溜息。
「ったく、ガキじゃあんめぇし、月見団子にはしゃいでんじゃねぇよ!
他に娯楽を知らんのか。いいトシした男児が」
イノセントなトオル君は、何を言われても気にしない。
「いや〜、妙案でしたよ、すーさん! 涯見さんとお月見だなんて、ウチの雑誌で
記事にしたいくらいですよ!」
ふとした思いつきで、雪と月見をしようと、彼女の大ファンであるトオル君は、
早引けまでして団子を作った。ブツブツ言いながらも、それに付き合って雄生も
来ている。同じオカルト誌『OH! かると』で働く二人だが、オカルトマニアのトオル君と
オカルト嫌悪症の雄生と、趣向が全く合わない割には、仲が良い。
「すーさん、つまらないなら螢君も誘えば良いじゃないですか。なんだったら、
涯見さんちにお邪魔して〜、あそこなら空気もキレイだから、きっと月もよく見えますよ。
麗しい月の下で、美女と美少年にはさまれて、ああウットリ」
「あほっ」
雄生はトオル君と違って、雪とは寄ると触るとケンカしている。お互い、それだけ言いたいことを
言っているから、見ようによっては仲が良いと言うのかもしれないが。都会の荒野に孤独を
感じる男・椙本雄生は、雪の弟であり、地上に降りた最後の天使かと思われるほどに無垢な
美しさの少年・螢を、“心の泉”として、大層大事に思っている。前の彼女にフラれてすぐに
螢と出会ったために、何やら周囲には好き勝手なことを噂されているらしいが、雄生にしてみれば、
心の目が濁りきった人間の愚言だった。
「オメーがそういう言い方するから、社内でもロクでもないこと言う奴が出てくるんだよ。
螢君はなぁ……俺の、“心の泉”だっ! この都会で生きていく為に、天が俺に与えてくれた、
たった一つの希望なんだよ」
「はいはい、分かってますよ……。でも、その螢君を、あんなに良い子に育てたのは、姉である
涯見さんなんですよ?」
雄生は、その事実は完全に無視している。雪の崇拝者であるトオル君としては、いつも雄生が
雪に対して、ぶっきらぼうなのが嬉しくない。
「すーさん、絶対に涯見さんのこと誤解してますよ。この前だって、Fテレで一騒動あった時、
妙見さんと一緒に最後までケアしてくれて……でも、別に報酬とかもらってないんですよ?」
大体、心霊現象そのものをペテンと思って信じていない男に、そんなことを言っても無駄だ。
「確かに、霊能者にはインチキも多いし、ふっかける悪質なタイプもいるけど……でも、そんなの
医者だって弁護士だって大工だって一緒だし。涯見さんは、絶対にそんな人じゃありません!」
「分かった分かった……。オマエは雪に惚れてんだから、それで良いんだよ」
「なっ……違いますよ、何言ってんですか、すーさん! 僕は、そんな下心があって涯見さんと
会ってるわけじゃ……」
「はいはい、良かったね」
ムキになる後輩を、適当にあしらって、結局は無視。自分の根性も、なかなかに曲がっていることは、
勘定に入れない奴だ。
「全くもう……すーさんって、そういうとこ、子供っぽいよなぁ」
そういうとこどころか、結構何にでも子供っぽい奴だと思う。年下だが、そこは少しオトナの
トオル君は、もう諦めた。論争は低レベルであるほど、先に引いた方が、実は勝ちだ。
「――……あっ」
突然、トオル君が立ち止まり、片手でグイッと雄生を押し戻したので、雄生はビックリ。
雪の事務所は、すぐそこだった。
「何だよ、おい」
「しっ……」
真剣な表情のトオル君が、ビルの角に身を潜める。
「何で隠れなきゃならねぇんだよ」
ムッとした雄生に、トオル君は溜息。
「……先を越されちゃったみたいですね」
えっ……と雄生が身を乗り出すと、またトオル君に押し戻された。
「あーあ。やはり涯見さんには、それ相応の人が現れるものなんですね……。
『花より団子』とは言うけれど、あの“花”には、俺らじゃ勝てませんよ」
丁度、雪が透麗の手を取ったところだった。
「雪……」
思わず、雄生の呟きが漏れた。彼の知らない男――それも、貴族的なまでの
紳士。その手を、雪が取った。
「薔薇とペンペン草が張り合うよーなもんです。すーさん、帰りましょ」
すっかり気合いで負けたトオル君は、意外にアッサリ、しかし寂しく背を向け、
まだ突っ立っている雄生の腕を引いた。立ちつくしていた雄生は、グイッと引かれて
よろめいた。何だか無性にイラついて、ふんっと息を巻くと、
「おっ、男はなぁ! ……顔じゃ、ねえっ」
「――すーさん、お願いですから、そういう発言は、一つでも勝てるところを
思いついてからにしてください」
痛烈な一言をカウンター・パンチで浴びせられ、雄生はヒクッとなった。
「と……トオルちゃん……オマエ、いつの間にか、きっつぅ〜くなったねぇ?」
「僕は現実を見つめているだけです」
シビアに言い放って、美しい去り際を飾るトオル君。オカルトマニアに「現実」と
言われると、雄生は立つ瀬がない。やはりトオル君は、雪を女性としてよりも、
オカルティストとして尊敬しているらしい。それも、ちょっと歪んでいるかもしれないが。