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1−3
その言葉を聞いた途端、雪の顔色が、サッと変わった。
「――あなた、まだ生まれてもいない子供に、責任をなすり付けようっていうの!?」
バンッとデスクに両手をついて立ち上がった雪の剣幕に圧倒され、若妻は泣くのをやめた。
「よくも……そんなこと言えたもんだわ、この事態を招いた責任は、あなたにあるんじゃないの?
呪われているですって……? あなたが呪っているんじゃないの!」
こんなに激怒されては、泣き出した依頼人も立場がない。びっくりして泣きやむ子供のように、
呆然としている。だが、雪もすぐにハッとして、自分を取り戻した。それでもまだ、胸の中に
渦巻くものを消せないのか、舌打ちして座る。
「……申し訳ございません。お見苦しいところをお見せしました。大声を出したこと、
お詫びいたします。お怒りになるのも、もっともなことです。……どうぞ、お帰りください」
今度こそ帰るだろう――と思った雪だったが、若妻は帰る気配がない。
「あの……私こそ、甘ったれたことを言って……不愉快に思いになったでしょう……。
――何もかも、お話いたします。あなたに……あなたを信頼して、お願いしたいと思います」
額に手を当てていた雪は、ふと顔を上げた。依頼人は、真摯な眼差しで、雪を見つめていた。
どうも、思ったより違う展開に転ぶらしい。
「実は私……誰かに、怨(うら)まれているように思うんです」
「悪夢は、その怨念だと思われるんですか?」
若妻はうなずいた。いきなり具体的な話が始まってしまったが、彼女が静かに語り始めるのを
止めることも出来ず、雪は黙って聞くことにした。
「主人は……いわゆるプレイボーイでした。私と結婚するまでに、どれだけのガールフレンドが
いたのか、私にも分からないくらいです。――そんな人でも、好きだったし……結局は、
私を選んでくれたのだから、それは皆、昔のことと思って。……彼が、私と結婚するまでに
付き合った女性のことなんて、もう良いと割り切りました」
「御主人が浮気をしていると、お疑いなのですか?」
単刀直入に雪が尋ねると、若妻は言葉を濁した。
「……分かりません。でも、あの人が私を選んだことによって、捨てられた人が何人いたのか。
主人はそんなことについて何も言う人じゃないし、私も聞きたくなかったし……。
だけど、こうなってみると、誰かに怨まれているような気がしてならないんです」
雪は、この仕事を引き受けるのは、気が進まなかった。
どうも厄介な仕事になりそうだし、この女性に、イマイチ好感を持ちきれないでいた。
だが……彼女のお腹の子供のことが、気にかかる。
「分かりました。何とかやってみましょう」
おそらく、この場限りでの解決はムリと思ったが、取りあえず雪は、依頼を受けることにした。
そして、ちょっと考えてから顔を上げて、
「その夢……今、ちょっと見てもらえますか?」
「……は?」
唐突な言葉に、若妻は眉をひそめた。
「あなたが夢を見ている間に、それが誰かの念に依るものかどうか、軌跡をたどってみます」
そんな、説明とも思えない説明では、戸惑うばかりの依頼人。
雪は一息つくと、席を立ってブラインドを閉め、部屋の灯りも消した。
「――お手伝いします。緊張しないで。……軽く、目を閉じて」
「あの……」
「怖がらなくても大丈夫です。ちゃんと、夢からは起こしてあげますから」
雪が、若妻の手を握った。薄暗い室内で、不安に揺れる彼女の気を、雪の気が大きく包む。
ヲンマカラガバザロ……ウン・バン・コク――
やはり、ずっと睡眠不足だったせいか、静かな雪の咒(しゅ)が始まると間もなく、彼女はデスクに、
そっと倒れた。『眠り』の次は、『夢』を召還する、乞夢咒。
――夢が、始まる。雪も咒を唱えながら、その中へと滑り込む。
……なるほど、彼女の言った通り、「真っ白な闇」だった。
何かが 駆けて くる
ゆっくり……と。スローモーションの画面のように。
――こらぁ、怖いわぁな。
しみじみ、雪は思った。
この夢の主である若妻が、必死の形相で駆けてくる。それを追うのは、まさに『鬼』。
牛の頭に、鳥のくちばし。体は、ヒトとヒヒが合体したようになっている。
若妻は必死に逃げているのだが、このスローモーションでは、今にも捕まりそうな
瞬間が、延々と続く。それだけ恐怖感が煽られる。そして、とうとう捕まれば、
鬼の爪が、彼女の腹を引き裂いた。若妻は、恐怖と苦痛にゆがんだ表情のまま、
生きながらにして貪られていた。
「げえー……グロ」
傍観しながら、雪は眉をひそめた。今は隠形により、雪の姿は夢に映らない。
だが、いつまでもこうして、目の前の依頼人が(夢の中とはいえ)ガツガツ食われている
のを見物するだけとういのも、非道な気がする。
「――もうそれくらい食ったら、十分じゃないの?」
隠形を解いた雪は、夢の中に降り立った。鬼は、背後に現れた闖入者を振り返る。
近くで見ると、更に凄まじい。大したSFXだと感嘆してしまうほどの造りだった。
顔中を血に染めた鬼は、くちばしの端に臓物をぶらさげたまま、食い散らかした
若妻の体を投げ捨てると、雪に向かって突進してきた。
「夢の中なら、何でもして良いと思ってるの? 鬼さん、こちら……」
雪は大胆にも、くるりと背を向けると、くすくす笑いながら、鬼を挑発するように呼んだ。
鬼は、雪の背からガシッと抱きつき、その首にもかぶりつこうとした。
「ヲン……!」
雪が両手で印を結び、聖語を唱えると、彼女の首に巻き付いてた鬼の、毛モジャの手が
ジュッと焼け、鬼は、ヒトならぬものの悲鳴を上げた。
鬼が離れると、雪は再び振り返り、微笑した。
「あなたは何……あなたは誰? ――あなたは鬼。夢の中でしか生きられない、幻の存在」
そして、若妻の血を、自らの血で洗うように、赤鬼の姿となった魔物を見ると、
よく通る声で、悪夢を退ける咒を唱え始めた。
ヲン、シュチリキャラ、ロ、ハムケン、ソワカ……
鬼が、溶け始める。本性を見極めるチャンスだ。
しかし……雪には、若妻が疑いを抱いたような、『女』の影は、見いだせない。
そうしている内にも、鬼は日向に晒された氷のように、無惨に溶けてゆく。
これでは……
ヲン、アクム……!
――思ったよりも、ずっと早く。鬼は、あっという間に溶けてしまった。
怨念には間違いない。しかし……何かしら、やり場のない苦しみに絡んだ、
悲しいものに思われた。鬼の残影には、深い苦悩と悲嘆が満ちていた。
眠りを解くと、若妻も目を覚ました。
「……明日、私の家の方にいらしてください」
部屋の灯りをつけると、雪は依頼人に、そう言った。