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1−2
「あれ、雪さん……お早う。今、起こしに行こうと思ってた」
相変わらず割烹着の螢が、火元に立ったまま振り返った。
いつもなら、螢に二度三度と起こされても、まず素直に起きたものではない雪が、
今朝は独りで起きてきた。
「シャワー浴びたの?」
彼女の濡れた髪を見て、螢は訊いた。
「うん……コーヒーちょーだい」
雪はダイニングの椅子に座ると、タオルで髪をぬぐった。
螢は、すぐに湯気を立たせたマグカップを持って行く。
「雪さん――何か、有ったの?」
雪が、「え……」と見上げると、螢は彼女の髪に触れて、
「禊(みそぎ)したんでしょ? 髪も体も、冷たいもの」
もう秋だというのに、朝から水浴びもない。となれば、やはり「禊」と考えるのが妥当だろう。
しかし雪は、滅多に禊などしない。大体、「形式」というものには、窮屈さしか感じない
タイプである。たまに、本家の仕事を手伝う時に行う程度だ。
「……『夢違(たが)え』よ」
雪は、すぐに何ということは無さそうに呟き、コーヒーに口を付けた。
「夢見が悪かったの?」
螢が尋ねても、もうそれ以上、雪は応えなかった。それを無理に聞き出す螢でもないから、
彼は、ふ……と溜息をつくと、雪の茶碗を持って、またそこを離れる。ご飯をよそいながら、
「そういえば雪さん、昨日、遅かったでしょ? 青海さんから電話が来たんだ。
ちょっと数日遠出するから……朝早くても良いから、電話くださいって」
雪と青海は、まあ同業者と言える。しかし今まで、雪は青海が、実際にどんな仕事を
するのか、見たことはない。
「じゃ、かけてみましょうか。新宿の方だよね……多分」
青海もボヘミアンだから、こちらから捕まえるのも容易でない時がある。
しかし、雪の電話を待つというからには、いつものマンションに居るのだろう。
雪は、お膳を揃えてくれた螢に礼を言うと、背後の電話台から、コードレスの受話器を取った。
「……あ、ハルミ? あったっし。電話くれたんだって? ごめんね、居なくって。
……うん、良いけど。お昼? 昼抜けだと、こっち来てもらえると助かるなー」
お互い、朝はノンビリもしていられないから、さっさと用件を話して切る。
「螢にヨロシク、だってさー。いただきまーす」
雪は手を合わせると、純和風の朝食を食べ始めた。螢も一緒に食卓につく。
「青海さんって、働いてるんだ」
「とてもそう見えないけどね。――前にも、ちょろっと仕事の話は聞いたけど、
寺の息子みたく、大仕事があると手伝いに呼ばれるみたい」
雪と違って、青海は自分の事務所は持っていない。
しかし、実家が「宗教法人・妙見教」の教主(親らしい)から指示があると、
アチコチ行っては仕事をするようだ。
青海の家というのも、謎に満ちている。一世紀に及ぶ歴史を持つ
新興宗教教団である妙見教を率いる教主一族・妙見家だが、そのルーツは
教団創設以前にはたどれず、開祖が一体何者であったのかは不明。
妙見という姓も、北斗尊星王、または北辰(北極星)の化身とされる、
妙見大菩薩から取ったもので、本名ではないと言われている。
「――ちょっと大仕事に行ってくるから、しばらく留守にするわ」
昼休みにイタリアンで合流。オーダーを待ちながら、青海は言った。
「そんなに大仕事なの? 地方に行くんだ」
「東北の方にね。止雨の法を頼まれてるの」
雪は、ズルッと肘が滑った。
「……アンタ、そーいや夏の頃には、『ちょっくら雨降らしに行ってくるわ〜』とか言って、
出かけてなかった?」
「そりゃ、農協の依頼だから、祈雨もあれば止雨もあるわよ。ほら、今あっちは長雨でしょ」
雪は、はぁ〜っと溜息をついた。
「東方は日照不足が深刻ってのは聞いてたけど。でもホント、『大仕事』ね。
教団挙げてのイベントでしょ」
「向こうも、結構イベントのノリだしね。県会議員とかも援助してるみたい」
「うわー、政治がらみ? それ、政教分離的にどうなのよ。いつもそんな仕事ばっか
やってんの? ハルミは」
青海は、ハッと笑って、
「んなわきゃ無いでしょ。くだらない……って言っちゃあマズいけど、些細な悩み相談から、
医療、何でも屋だね。夫婦和合の呪法もすれば、眼病や痔を治すのもあり」
「人生相談付きお医者さん代わり?」
「でも、ズボラで医者行かなかったり、ヘンな医者に引っかかったりって程度の病人なら、
さっさと知り合いの院長さんに紹介するわよ」
「あ、それってスクープ! 何処の病院と契約してんのよぉ」
「言えるわきゃないでしょーが」
ひとしきり笑い合うと、雪は溜息をついて、
「それに比べたら、私なんて気楽なもんだよねー。ね、アメフラシのハルミに比べたらさ」
「ひとを海洋生物みたいに言わないでくれる? ……あんただって、似たようなもんでしょ。
心の治療をしてあげることだってあるんだろうし」
雪は、目の前に置かれたパスタの皿に目を落とした。
「……結局、そうなのかな」
結局――汀家の『血』から、完全に離れてなどいない。
雪は、本家を飛び出してからも、『血』の業を感じ続けている。
本末転倒。『血』の力を使って、『血』の呪縛から逃れようとしている自分の
愚かしさに気付く時、やり場のない苛立ちを覚える。だが今は……螢が独り立ち
できるようになるまでは。雪は、そんな思いのカケラをつなぎ合わせて、
『今』という時間を通り過ぎてきた。
その後は……どうするのか。そんなことは、今は考える気は起こらなかった。
* * * *
青海と別れて、午後からの仕事に入った雪は、どうもスッキリとしない心持ちだった。
こういう時には、集中力散漫になり、当然仕事にも響く。
あまりにも調子が悪いので、異例に30分の休憩を入れさせてもらった。
そんな最悪コンディションの一日、最後の依頼人は、一人の若妻だった。
年は、雪とさほど違うとは思われない。短大卒で、2年勤めて寿退社のクチだろう。
切り下げ髪の、可愛らしい女性だったが、どうも顔色が良くなかった。
「夢に……魘(うな)されるんです」
神経を患ったような気をまとう彼女は、そう呟いた。
同じ会社に勤めていた、6つ年上の夫と結婚してひと月。本来ならば、
まだ幸せの絶頂期にあるはずの新妻の彼女だが、結婚前から悩まされていた
不眠症が、結婚後ひどくなり、ここ一週間は、ろくに眠れていないという。
「その夢が、とても恐ろしくて……。眠るのも怖いし、眠ってもすぐに起きてしまいます。
夜だけじゃないんです、昼間に、うたた寝をしても……やはり悪夢に襲われるんです」
「どんな夢ですか?」
雪は既に、チラチラと不安定に揺れる、依頼人の周りの気に、幾つかの理由を
見いだしていた。水谷(みずたに)というその若妻は、キュッと肩を寄せると、
語ることすら恐れるように、小声で話し始めた。
「追いかけられるんです……鬼に。『鬼』なのかどうか、ハッキリと分からないんですけど
……そう表現するのが、一番近いように思います。とても恐ろしい顔の……ヒトと
ケモノがくっついたような姿で。ばけもの、と言えばいいんでしょうか――その、鬼が、
追いかけてきます。何もない場所……真っ白な画用紙のような空間が、何処からか、
何処までもなのか……永遠に続く白い闇のようで。今は、すぐに目が覚めますけど、
その鬼に捕まると、私は……」
「――鬼の爪に五体も引き裂かれて、臓腑までえぐられる」
雪が言うと、彼女はハッと顔を上げた。夢を言い当てられて、驚いたのだろう。
雪は、じっと彼女の目を見つめた。
「心当たりは無いんですか?」
何もかも突き通して見るような占い師の視線に、若妻はたじろいだ。
「心……当たり、ですか? 私に?」
「不眠症なら、医者の領域です。でもあなたは、占い師の元に来た。
医者では解決できない問題だと、あなた自身、判断されたからでしょう?
何か……ある特殊な事情があった。理由、或いは、心当たりが、ある」
雪はデスクに肘をつくと、溜息をついた。
「水谷さん……あなた、妊娠していらっしゃいますね」
その言葉に、また依頼人はビクッとした。
「どうして……それを? 私も、一昨日、やっと病院で知ったのに」
「あなたのプライバシーを覗くつもりはありません。ですけど、ことによっては、
ちゃんと言ってくださらなければ仕事になりません。結果的にそういうことに
なってしまいもするでしょう。――あなたがここにいらした切っ掛けの一つは、
そのお腹のお子さんにある。そのご様子では……悪夢についても、お子さんのこと
についても、まだ御主人にはお話になっていないのでしょう?」
「えっ……」
「悪夢を解消する特効薬など有りません。そんな都合の良いものはないんです。
触れたくない傷を放っておけば、表面的には治癒しても、禍根が残ります。
それを防ぐためには……ハッキリと原因を突き止めるためには、あなた一人の
胸の内に隠し通そうと思うものにも、触れなければなりません。――勿論、私も
プロですから、プライバシーは絶対に守ります。それくらいの信用もしていただけない
のであれば、今の内にお帰りいただくしかありません」
かなり厳しい口調だが、どうもこれはマジな仕事になりそうだという懸念から、
雪はあえてそうしていた。そういう仕事は、本家の慧からの紹介でもない限り、
まず引き受けないことにしている。
「やはり……何もかも、お見通し……。隠しても、仕方ないんですね……」
雪を見上げていた若妻は、握りしめていたハンカチを目頭に当てると、
うつむいたまま、軽く首を振った。そして、堰を切ったように、ワッと泣き出した。
「……別に私は、あなたを泣かせようと思って言ったわけではないのですけれど」
雪は気が重くなった。ま、これなら懲りて帰るかな、と思った頃。
不意に彼女が、自分の腹を押さえて呟いた。
「この子は……きっと、呪われている……。この子は、呪われた子なんです……!」