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2−2
螢は、用を足すわけでもないのに、何度もロビーのトイレを出入りしていた。人が、妙に自分を
見ているようで落ち着かない。気のせいかと思ったのだが、そうではないらし。何かおかしいのかな……
と、つい気になって席を外す。だが、鏡に映る自分には、何の異常も見いだせない。そしてまた彼は、
鏡を見て溜息。こんなに精神的に疲れる場所は、初めてだった。だが、雄生との約束の時間はもうじきだ。
あと少し……と気を取り直し、背伸びをしてから、またロビーに出て、座ろうと歩き出した時。
――螢は、ふっと背筋が寒くなり、立ち止まった。何だろうと思って辺りを見回すが、分からない。
――えっ……えっ!?
何を考える間もなく、体中の力が抜け、目の前が真っ暗になった。これは一体……と、螢は
めまいを抑えながら歩こうとしたが、胸の中をザワつくような悪寒が走り、膝を折ってしまった。
霊気……それも、何やら重い――彼を押し潰そうとするような、暗い、重いものだった。
予想もしなかった出来事に、螢は困惑した。何故こんな場所で……特に「陰」の気が淀んでいた
とも感じなかったのに。
「あうっ……つっ……」
苦しくなり、螢は胸を押さえた。これも一種の「逢魔ヶ刻」……いや、「通り魔」かと、考える余裕は
有っても、何の対処もできない。
「雪さんっ……」
助けを求めたのか、彼の口から、姉の名前がこぼれた。
ふと、目前を見ると……霞む目に、人影が映った。辺りは闇――その人影は、白くボンヤリと彼の目に
浮かび上がっていた。
「誰……」
背の高い……“男”だろうか。自分が知っている人間? それすらも分からない。
「誰……です……?」
自分に近付く、白い影。螢は、チリィーンと、耳鳴りがしたように思った。彼の耳にしたピアスの石が、
震えて鳴いている。チリチリチリ……何かに怯えるように、石が悲鳴をあげている。
こんな激しい反応は初めてのことだ。何が起こっているのか、螢にも分からない。ただ、押し潰されるような
胸の痛みと、悲しみや苦しみ……そして憎しみといったものが、泥のように混ざり合った感情の波動を、
敏感に感じ取っていた。そして、彼の体の中――血の中で騒ぐものは、その強い波動に応えようと、
もがいているようだった。それを押さえつける強大な力が、彼の胸を締め付けているのか……
それとも、その逆なのか。
ハッと気づくと、その白い影は、既に彼の目の前にいた。そしてその影も、螢と同じように膝を折ると、
横に長細いものを、彼の目前に差し出した。それが何であるのかは、“影”の顔かたちすら判別できない
螢に分かるものではなかったが、しかしどうやら、鞘に入った刀のように見えた。
「これに……見覚えはないかな」
そう言った男の声は、何処かで聞いたことのあるような。だが螢は、その声よりも、スッ……と、鞘から
少しずつ現れる、冷たい光を放つ白刃の、妖しい輝きに魅せられていた。
ゆら ゆら……
螢は、息をつくのも忘れる美しさに、心を奪われた。美しい……闇の中に燃える炎のようだ。
その刃に映る、青白い炎は、揺らめきながら彼の瞳をとらえ、離さない。
――呼ばれている。体の奥深い所に眠る何かが、「呼ばれている」。
螢はまた、「あっ……」と耳を押さえた。チリチリチリ……と、石は絶叫を上げるかのように、
身を震わせていた。
――抑えきれない……!
パ シィーン……
石は、砕けた。
* * * *
「――いや、どうでしたか野坂さん」
除霊も終わり、番組のゲスト全員が中央に並び、エンディングの収録に入っており、司会が
シメにかかっていた。
「えぇ……弦元さんが除霊をなさっている時は、本当に何だか辛くて。何が悲しいという
わけでもないのに、ぐっと胸が締め付けられるようでした。――今はもう、大丈夫ですけど」
「そうですか。――いや、世の中、本当に不思議なことが尽きません。私たちは、これから更に、
こういった超常現象と、共存していかねばなりません」
おいおい……と雄生は溜息をついた。
「では皆さん、またお会いしましょう!」
フロア・ディレクターが手を上げ、回すと、ギャラリーが大拍手を送った。
「はい、終了! お疲れ様でしたー!」
あちこちから、「お疲れ」の声が上がり、一息つくムードにスタジオ中が染まった。
「さてっと……早く終わってくれて助かったぜ。おい、トオル、はよ帰ろ」
待ちかねたように、さっさと出て行こうとする雄生は、トオル君の首根っこをつかまえた。
「すーさん、そんなに引っ張らないで……」
ください――とトオル君が言おうとした瞬間。キャーッという女性の悲鳴が響き、スタジオ内の
挙動が、一斉に硬直した。
「野坂さんが、野坂さんが……!」
あの破壊的文法で喋るアイドル歌手が、唯一の取り柄である大声で叫んだ。突然、ゲストの女優、
野坂あけみが倒れたからだった。
「おい、担架!」
慌てて、その場にいたプロデューサーがADに言いつけるが、まず彼女を抱き起こしたのは、弦元だった。
「なんだぁ?」
どうでも良いけれど早く帰りたい雄生が、チョイッと振り返ると、トオル君が血相変えて、
「すーさん、カメラですよ、写真っ!!」
「へ?」
野坂あけみは、弦元に抱き起こされると、ぶるぶると全身を震わせながら、わんわんと泣き始めた。
「……先ほどの子供の霊が、憑いてしまったようですね」
弦元が呟くと、その場は騒然となった。番組収録は終わったのに、まだ仕切根性を忘れていない司会が、
マイクを向ける。(もう音声切れてるって。)
「つ、弦元さん、野坂さんは一体、どうしたんですか!?」
「大丈夫ですよ。これからすぐ治療を行いますから」
その様子を、雄生はトオル君に言われるままに、バシバシ撮った。
「……さぁ、野坂さん、起きられますか?」
「は……い、何とか……」
弦元に手を取られ、スタッフが持ってきたパイプ椅子に野坂あけみが座った頃、スタジオの隅で、
またバターンと物音がして、怪談話にありがちな、つられ悲鳴がアチコチから上がった。
「三カメの藤が倒れました!」
テレビカメラの横に、カメラマンが倒れ、弦元が駆け寄る。と、また反対側で、今度はメイクの女性が倒れた。
「皆さん、落ち着いてください! まだ席を立たないでください!」
スタッフが必死にパニックを食い止めようとするが、その間にも、ばったばったとスタッフが倒れ、遂には
ギャラリーの中にも、卒倒者が現れた。
「た、大変なことになってますよ、すーさん!」
「みんな、何やってんだよ」
素朴な疑問。
「何って……多分、雑多な霊が、どんどん憑いてるんですよ!」
「はぁー? んなことあるわけねーだろうが」
とにかく、倒れた人間は、中央に集められ、どんどん弦元が容態を見ていた。
「何か結構な数になってるけど、弦元さん一人の手に負えるんだろうか……」
トオル君は深刻な表情で、固唾を呑んで見守っていた。
――全身が痙攣している者、泣き叫ぶ者、怒声を上げる者。口走る言葉の意味は
分からないが、それは不気味な光景だった。
「集団ヒステリーってやつか? ったく、まいるよな、こんな時に」
こういう時、ミョーに冷静な雄生は、とにかく早く帰りたかった。
「――なぁトオル、もう行くべー? 俺らがいたって、解決するわけでも……トオル?
おい、どうしたんだよ!!」
トオル君が倒れると、その周囲にいた人間もビビり始めた。雄生は、ビシバシッとトオル君の
頬を叩いたが、正気に返らない。
「あーっ、もう、コイツも思いこみ激しーからよぉっ!」
「あ、あの、弦元先生に診ていただいた方が良いのでは……」
進言する者がいても、雄生は耳を貸さず、相変わらずビシバシ。
「おい、トオルっ! ……えっ?」
トオル君の唇が微かに動き、雄生は耳を近付けた。
「の……ろって、や……る……」
「――は?」
「お……まえら、みんな、地獄に落とすぞ……!」
「何エラソーなこと言ってやがんだテメーは!」
またビシバシはたくと、周囲の人間が慌てて止める。
「ムダですよ、我々の手には負えないんですから!」
「そう思いこんでるだけだ、あんたらは!」
その途端、そう言った人物も後方にブッ倒れた。雄生は、かーっ!!と頭を振って、
「あーっ、どいつもコイツも!」
帰るに帰れなくなってしまった。