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2−3
あらゆる恐怖の記憶の断片が、縫合され、歪められ……やがては死のイメージへと導く灯となる。
あれは、いつのこと。雪は、自分の首に食い込む指の感触を思い出していた。
優しく彼女を抱き上げた時と、全く同じ温かさの指が……今は彼女の首を絞めるのか。
――お父さん……?
優しい顔ばかりが浮かんでいた。そしてそれが次第に歪み、狂気へと変わっていく。
――ドウシテ……
抵抗することなど、考えつきもしなかった。今、何が起こっているのか、何故こうなったのか……
考えることすら拒否していた。しかし目の前に広がるのは、揺るぎない現実。
瞼の裏に、赤く輝く、星の群れが映った。苦しさも忘れる程の美しさに、永遠の焔(ほのお)を見た。
殺される……その瞬間まで、戸惑い続けるのだろう。あの、赤い火に、惑わされながら。
そうして浮かんだ、もう一人の影。
――……螢!
呆然と見開かれた瞳。まだ年端も行かない彼は、世にも恐ろしい光景を理解する前に、
父親に取りすがった。幼い彼は、父の片手で突き飛ばされる。
薄れ行く意識の中で、螢の泣き叫ぶ声が響く。そこに飛び込むのが、十年後の雪の意識。
“螢……ダメよ、いけない……!”
いつの間に、泣き声が、一切の感情の色を持たぬ「呪」を唱える声に変わる。
――螢……!
……温もりが伝わる。といっても、あの恐ろしい、汗ばんだ手ではなく、優しい手だった。
そして首にではなく、彼女の手の中に。彼女を包み込む、柔らかい「呪」。人を呪うものではなく、
護るための。うっすらと目を開けると、一心に呪を唱える慧の姿が目に入った。彼は右手に
刀印を結び、左手で彼女の片手を握っていた。
「雪さん……!」
ベッドの反対側の椅子に座っていた螢が立ち上がった。そしてその後ろには、雄生が立っていた。
「……慧……ちゃん?」
彼女が気が付いたことを知ると、慧は呪を唱えるのをやめ、そっと目を開けると、息をついた。
「……良かった」
慧は、ひどく精神力を使ったせいか、その顔には疲労の影が差していた。
「とんだ“逢魔が刻”に捕まったらしね、雪ちゃん」
雪は、まだよく頭が回らない。ここが何処かも分からなかったが、ちょっと見るとホテルの一室のよう
なので、慧の滞在先だろうと察した。記憶のカケラをかき集めると、やっと少し、筋が通る。
「――けい……螢……?」
ゆっくりと起き上がって、隣の螢の姿を、もう一度確かに見ると、雪の瞳が潤み、螢の背後にいた雄生は、
ドキッとされられた。
「雪さん……」
螢も安堵に崩れそうな声で、雪の手を取った。このまま感動の抱擁……かと思われたが。
「ばかっ!!」
――いきなり雪が螢をビンタしたので、雄生も慧も、あっと息を呑んだ。雪は、先程まで意識不明
だったとは思えぬ剣幕で、
「何て無茶なことするのよ、あんたのは馬鹿力だって、何度も言ったでしょう!? 周りの人も
巻き込むかも知れないのよ!?」
「き、雪、螢君に何を……!」
雄生が慌てて、呆然としている螢を保護しようとすると――
「もう……あんたに何かあったら……どうしたら良いのよ……」
またアレッと思う間に、今度は螢を、ぎゅっと抱き締めた。
「バカ……ばかっ!」
そして零れた一筋の涙に、雄生はポカンとしてしまった。
「……ごめん、雪さん」
螢は、怒られることは分かっていたのか、素直に謝った。
「――雪ちゃん、でもどうやら……君を助けたのは、そちらの彼らしいよ」
「え?」
まだ螢を抱いたまま、雪はふと顔を上げ、雄生を見た。雄生は突然注目され、ちょっと戸惑い。
「……どういうこと?」
雪は、あの時、雄生が居たのは覚えているが、てっきり螢が彼女を助けたのだと思っていた。
だからこそ、螢をビンタまでしたのだが。
「あの結界を……彼が破ったって言うの?」
んなバカな――と言う前に、まだギュウギュウ抱き締められていた螢が、
「雪さん、雄生さんは……あれだけ凄い障気にも何ともなくて……」
「へ?」
雪は、螢の顔と、雄生の顔を見比べた。
「まぁ螢君は並はずれて気の影響を受けやすいけれど……彼のように、まったく微塵も影響を
受けないというのも珍しいね」
慧が、溜息のように言った。雪は、「うーむ」としばし考え込んだが、面倒になったのか、
「『凄い』と言うのか分からないけど。いんや、やっぱりすんごい図太さよ」
感心したように言われても、何だか雄生はムッとした。
「悪かったなっ、神経が太くて」
先刻、一瞬でも雪を可愛いと思った自分を後悔。雪の方は、全く悪気なんか無いから、
「ううん、お陰で助かったわ。有り難う」
にっこり。雄生は「……」。
「――結局、何だったんだ?」
ちょっと説明したくらいでは納得しないくせに、雄生は螢に訊いた。もう少し療法の呪を続けるという
慧と雪を残し、雄生と螢は別室に移った。螢はまだ落ち着かないように、窓際で行ったり来たりしている。
「僕も……雪さんから、話で聞いたことしかなかったんですけど……“『陰』の気が淀(よど)みやすい
場所”というのが、結構ゴロゴロある有るそうなんです」
うろうろするのも雄生が気にするだろうと思ってか、螢はチョコンと一人掛けのソファーに座った。
「そういう場所は、何気ない所に散在してて、まぁ普通の人だと、そこに近付くと怒りっぽくなったり、
良くない感情が起こったりして、犯罪の切っ掛けになることもあるみたいで。『犯罪地帯』なんて
呼ばれている所は、陰の気が淀みやすいし、逆に気が淀んでいるから犯罪が起こりやすいって
いう場合もあるし。それが、いくらか霊感の有る人だと、気分そのものが悪くなって……雪さん
くらいになると、それどころか、かなり危険らしいんです」
「危険って、どういう風に?」
「僕はそういう目に遭ったことがないので分からないんですけど……。霊的な影響というのは、
それだけでは物質化されることはなくて、必ずそこに、人間の心が介在する。人の心が感じてこそ
実体として意味を持つんです。つまり、ああいった現象は、雪さんが 『感じる』ことがなければ
起こらないってことらしいです」
――それって“気のせい”ってヤツじゃないのか、と雄生は心の中で呟いた。
「雄生さん……こういう話はお好きじゃないんですよね」
説明が押しつけがましくなるのを懸念してか、螢は、そこそこに話題を打ち切ろうとした。
「いや、別に……」
相手が雪だと、「なにバカ言ってんだテメーこの詐欺師!」と聞く耳持たないのだろうが、螢が
相手だと、ちょっと信じてあげたくなる気分になるから、雄生も勝手だ。
螢は、ただ、雪の状況を説明しようと、付け足した。
「雪さんは『強い』んです。矛盾するようだけど……さっきの“逢魔が刻”みたいな状況では、
それだけ感じる力が強いと、その強さがあだになるんです。邪気邪霊は、雪さんの力を感じて
反応してくるから」
そんなこと言われたって、雄生には何も見えないし、感じられないから、ピンと来ない。
「雪さんはいつも……僕を護ることばかり考えて。今日のことだって、自分があれだけ危険な
状態にさらされていたのに、僕を危険から遠ざけることばかりに必死になってた、なのに……
僕は雪さんを助けることも、抱き上げることもできないなんて……」
「そ、それは……それはだな!」
何か泣かれそー怖くて、雄生は慌てた。
「君はまだ未成年なんだし、そうそう、あと何年かすれば立場逆転するって! な、な?
そーいや……」
何とか話題転換を強引に図ろうとするが、ネタが浮かばない。うっ……と、微妙な沈黙が
バランスを崩しそうな寸前、苦肉の策。
「そう、あの人……誰なんだい? 君、『兄さん』って呼んでたけど。本当の兄弟じゃないだろう?」
「慧兄さんのことですか?」
「そう、慧さんって言ってた」
何とか逸らせたようだと、ホッとする。
「あの人の方が、雪よりよっぽど占い師っぽい感じだな……っつーか、神主さんぽい?
何か着物にハマってるし、神社に居そうな」
彼、汀慧が長髪を束ねていても、軽薄さやベタくささが感じられないのは、その神主さん的な
雰囲気に負うところだった。
「雪の同業者か?」
「従兄です。でも、ずっと本当の兄弟みたいに育ちましたけど」
「……ふーん」
「どうか、しましたか?」
雄生が、ちょっと考え込むような感じで視線を横に滑らせたので、螢が問いかけた。雄生はハッとして、
「い……や。恋人かな……とか思って」
螢は、その言葉にクスッと笑った。
「慧兄さんは、僕達に本当に良くしてくれます。昔から優しい人ですよ」
「そういや、君もあの人も、『けい』なんだね」
「えぇ。僕があやからせてもらったみたいです」
「成程ね。……で、占い師の一族なんだ」
よう分からんが、そういうアヤシゲな一族なんだろうと安易に考えるあたり、雄生も感覚がマヒして
きている。オカルト大嫌いと言いつつ、いい加減だ。単に考えるのがメンドウなので、勝手に
解釈して、飲み下している。
「で、あの慧さんがまじないすると、雪が元気になるんだ」
「はぁ、まぁ……」
螢も、あまり長々説明しても混乱するだけど思ったのか、害のないことは放っておくことにした。
大体、雄生は想像力も貧困な方なので。
「でも慧兄さんが居てくれて良かった……。でなければ雪さん、命に別状はなかったとしても、
二三日は起きあがれないんじゃないかと思いましたから」
雄生は、二時間もの間、一心不乱に呪を唱え続ける慧の姿を、螢と共に、じっと見守っていた。
その一瞬一瞬が、神聖なものであるかのように彼を捉え、離さなかった。彼には理解できない、
信じがたい世界だとは思いつつも、目を離せない、不思議な光景だった。
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