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          2−2

          雪は、何だか無性にカリカリして、ズンズン大股で歩いていた。
          「あったまオカシイんじゃないの、あの男っ!」
          イヤな男には、いくらでも出くわしたことがある。しかしあのように、自らが占い師である彼女の将来を、
          決めつけるように言った男はいなかった。それがまた、口から出任せ……と思えば、いちいち苛立つ
          こともない。彼女も、あの影小路透麗の確信に満ちた言葉に、一抹の不安を覚えてしまうからこそ、
          気にも障るのだろう。
          このところ、おかしな客を回して彼女を挑発していたのは、あの男なのだろうか。しかし、あの
          お貴族野郎と陰陽師というイメージのギャップが苦しすぎて、何をどう考えてもよく分からず、
          イライラする。確かに彼ならば、やんごとなき筋に顔が広いであろう。かといって、何故彼が
          「仕事」について、そこまで介入してくるかに、納得が行かない。いくら彼がアヤシゲなこと
          この上ないとはいえ、その言葉すら何処まで本気だったか分からぬ彼が、直接彼女の仕事に
          ちょっかい出してくるというのは……
          湧き出でる泉のように、疑問は尽きない。
          それよりもまず、螢を迎えに行かなければならないという思いに駆られた。
          今、彼は雄生といるはず。近くのホテルの喫茶で、待ち合わせの約束だった。
          雪を待つ螢の姿が脳裏を過ぎると、そこに透麗の面影が重なり、彼女は拳を握った。

          ――螢だけは……護ってみせる。あの子には誰にも触れさせない。

          その為の大義名分など、彼女には必要なかった。上っ面の理屈などどうでも良い。結果的に
          螢を護れなければ、そんなものは何の意味も為さない。

          振り向きざまに、雪は闇に向かって小柄を投げた。通りからちょっと逸れる細い路地に、不穏な気を
          感じたのだが、駆け寄ってみれば、はがれかけたポスターの上に、呪符が差し貫かれていた。
          「このアタシに『式』打ってくるたぁ……良い度胸じゃないの」
          雪は呪符を破り取ると、握りつぶした。
          「とうとうお出ましね。でも今の私……えっらく機嫌が悪いのよ……!」
          彼女の手のひらの紙が、ボッと燃え上がったかと思うと、今来た道を帰るように、幽かな灯が走った。
          「正体見極めてやる……」
          雪はこれを仕掛けた術者の意志、ひいてはその所在を突き止めようと、火の道を追いかけた。
          そんなには走らなかったが、数分としない内に、彼女が飛ばしたはずの火が、道の途中で
          バチッと弾け、かき消されてしまった。返された……となると、返した相手は――

          ギャッという鳥の声に、ハッと空を見上げる。
          白い鳥が舞っていた。しかし、その清冽な姿に似つかわしくない禍々(まがまが)しさの白鷹。
          仕方がないから、あとはそれを追いかけようと踏み出した瞬間……雪は、全身が総毛立った。
          「――列……前、這っ!」
          煌めくネオンの裏側の、底知れぬ闇の中に、おぞましい気が蠢(うごめ)くのは珍しいことではない。
          死霊や、怨念の固まりなどは、却って都市の掃き溜めに近しい存在だ。
          すぐに異様な気は散った。雪は、ほっと一息。一つや二つならば、彼女にとって恐れるものではない。
          しかし多勢に無勢というか、束になって来られると、生気を吸い取られるので、油断ならない。
          「こんな街中でもウヨウヨしてるってことか……ああ、見失っちゃ――」
          小さなアクシデントに足止めを喰らっている場合ではない。すぐに彼女はまた、タンッと足を
          踏み出したところで、再び……今度は、先刻とは比べものにならぬ程の、壮絶な悪寒に襲われた。
          反射的に早九字を切るが。
          「……え?」
          何か、ヘン。その時点で既に危険を感じていたが、『まさか』という思いと、『考えたくない』という
          思いから、冷静に判断しようとした。……が、そんな余裕も、実はなかった。
          「う……うっぞぉ〜っ……!!」
          確信すると、ザァーッと凄まじい勢いで、全身から血の気が引いていった。
          一つや二つではない。十や二十でもない。それこそ辺り一面、死霊の波に埋め尽くされんばかりの、
          絶叫ものの状態だった。いくら気が立っていたとはいえ、マトモな状況で、雪が気付かないはずはない。
          分かっていたなら絶対に近付かない。それ程に危険な場所だった。
          凄まじい怨念の渦。その始まりの一つひとつは、何ということもない、妬(ねた)みや嫉(そね)み
          だったのかもしれない。しかしそれが何年何十年という時をかけて積み上げ、練り上げられ、巨大な
          雪だるまのような怪物になり果てた。こうなってしまっては、単純に怨念を吹き飛ばすことなど、
          容易にできはしない。まして何の準備もないままに出くわせば、命も危ぶまれることになる。
          これは人工のものではない。だが何者かが彼女を、巧妙にこの場所へ導いたのは、疑いようもない。
          逆に、普通の人間であれば、気分を害する程度のことはあっても、その害された気に引きずられて
          犯罪を犯す場合などは別だが、大事に至る程のことはない。しかし相手が「感じることのできる者」
          であるならば、死霊は容赦なく、食らいつくそうと襲いかかってくる。
          「ヲントウドウシンシンソワカ、ヲン……」
          一心に呪を唱えながらも、彼女は護り刀の一つもないことに舌打ちした。
          できるだろうか。独りで何とかこの窮地から脱することは、可能であろうか。運が良ければ、百鬼夜行が
          通り過ぎてくれる。しかし、ここに出くわしたというだけでも、既に運は無さ過ぎた。
          思い切った手段がないわけではない。一か八かの手はある。しかし今の彼女には、それは選べない。
          それが、近くにいるはずの弟を、この場に呼び寄せてしまう可能性がある。それだけはできない。
          自分の身の危険は分かっていたが、ここに螢までが迷い込めば……。それを、わずかしか動かせぬ
          思考の中でも強く感じた彼女は、ひたすら身を護るだけで、反撃の大呪を使うことはできなかった。


          「あつっ……」
          螢は、突然、左耳を押さえた。
          「どうした? 螢君…血ガ!?」
          一緒にホテルの喫茶で雪を待っていた雄生は、螢がハンカチで押さえたにしても、血が少し
          染みたのを見て、面食らった。
          「大丈夫です、もう止まりましたから……」
          少し痛むのか、いつも穏やかな螢の表情も、微妙に歪んだ。だが、それをも堪(こら)えるように、
          螢は深刻な形相で立ち上がった。
          「螢君?」
          「雪さん……何かあったんじゃ……」
          約束の時間は既に十五分ほど過ぎていたが、良くあることなので気にはしていなかった。
          しかし今、螢は居ても立ってもいられないというように席を立ち、出て行くばかりの体勢だった。
          「螢君? ちょっ……」
          彼が店から飛び出していくから、雄生も伝票をひっ掴んで後を追う。
          「螢君、一体どうしたってんだ!?」
          「う……わっ」
          螢は外に出て空を見上げた途端、息が詰まったような声を上げた。
          「大変だ……!」
          「え、何が?」
          霊感絶対値ゼロの雄生の目には、それは何も変わらぬ、夜とも言えぬ明るい夜空だった。
          しかしその夜空も螢の目には、見るもおぞましい色に渦巻く光景に映っていた。
          あまりのことに、螢はゾッとしたのか、口に手を当て、しばし動けなかった。
          「まさか雪さん……“逢魔が刻(おうまがとき)”に捕まって……!」
          「え、螢君、だから……なに?」
          螢は、何が何やら分かるはずもない雄生をチラと見たが、今、彼を納得させるだけの説明をしている
          余裕はなかった。彼は、全身が強ばる緊張から逃れながら、駆け出した。
          「螢君!」
          「とにかく、早く雪さんを見付けないと……そこから助け出さないと!」
          「どっからだって!?」
          そんなもの、今、螢も探している最中だ。――螢は、次第に胸の痛みを感じ始め、息苦しさが
          増してきた。信じられない程の障気が、彼の目指す方向から吹き付けてくる。螢は咳き込み、
          一時立ち止まることを余儀なくされた。
          「ゆ、雄生さん、大丈夫ですか?」
          咳き込みながら、螢は一緒に走っていた雄生に聞いたが、彼は、
          「そりゃ君の方だろう。風邪でも引いたのかい?」
          ちっとも分かってない。だが螢は、すぐに理解した。
          「そうか……あなたは『大丈夫』な人なんですね……」
          ホッとしたように言うと、雪に持たされていた護符を、胸ポケットの手帳から取り出し、口にくわえた。
          これで少しは障気がしのげる。彼も余分な護符など持ち合わせていないので、雄生が何ともない
          のには助けられた。


          雪も、次第に限界を感じ始めてていた。いや、始めから予感していたことだった。もう、迫り来る
          重圧に耐えられるのもわずかな時間だろう。じっとり汗ばむ手にも、しっかりと結んだ印だけは外さず、
          まだ最期まで耐える覚悟は揺るぎない。
          ――彼女が歯を食いしばった時、その耳に飛び込む声があった。
          「雪さん!!」
          その声の主を瞬時に悟った時――雪は、この地獄にも似た闇の迷宮に陥ったと気付いた瞬間よりも、
          心臓が凍り付くような危機を感じた。彼女が最も恐れていた事態が展開しつつあった。
          「螢……螢、来ちゃいけない!!」
          思わず叫んだ。と、その一瞬の隙に、雪の結んだ印が引き裂かれ、跳ね返していた力が反動となり、
          その衝撃で彼女は地に叩きつけられた。
          「姉さん!」
          螢は、目を見開いた。
          「何が起こってるんだ?」
          雄生の目には、何も異変は映ってはいなかった。が、暗い路地に倒れ、何かに苛(さいな)まれている
          雪の姿に、異様な事態を感じてはいたが。
          「姉さん!」
          螢が雪に駆け寄ろうとすると、彼の手が、かまいたちに遭ったように弾かれ、血を流したので、雄生は
          彼を抱き留めた。
          「け……い、ダメ……! 離れて……」
          再び両手を合わせないと、印を結べない。そして「力」が出せない。
          しかし、一度死霊に押し潰された彼女は、身動きができなかった。全身に吸い付いた死霊に、
          どんどん生気を食い荒らされていくのが分かる。ぐっと力を入れるのだが、どうしても腕が動かない。

          「姉さん!!」
          ほんの十メートル程の距離にありながら、何かに阻まれ、たどり着けない。再び飛び出そうとする
          螢を、何が起こっているかは分からなかったが、雄生はぐっと抱えて押さえた。
          「螢君、どうしたんだ!」
          「雪さんを早くここから遠ざけないと、死んでしまう!」
          「何だって……」
          思わず雄生の手が緩み、それを振り切り護符を捨てた螢は、凄まじい障気によろめきながらも、
          必死に雪の元に行こうと抗った。
          螢は、自由になる右手を、左の耳のピアスにかけた。かすみゆく視界の中で、彼が何をしようと
          しているのかを悟った雪は、それを止めようと心の中で叫んだが、声にはならなかった。
          死霊が、彼女の思考すら喰らいにかかり、雪は地の底へ堕ちてゆくような感覚の中で、空を見上げた。
          そんな彼女の目に最後に映ったのは……頭上のビルの人影。遠目にも優雅な影と、あの白鷹。



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