太刀洗い型のモチーフをもつ伝承(その壱)





 『宝剣子狐丸』には附会が多い。例えば、茶店の娘に恋慕された男が、娘からの追跡を受けて逃走する部分は「安珍清姫」、松の木に登った男が、水面に姿を映して発見される部分は「海幸山幸」でわだつみのいろこの宮を訪なった山幸が、門の入り口にあった桂の樹に登っていると、下にあった井に姿が映って発見される『紀』の一書、子狐が相槌を打って刀工が宝剣を鍛えるという部分は謡曲『小鍛治』から、それぞれ附会されている。また、「松が一夜にして大木になった。」とか「大蛇が住みついた池の側は、花嫁の行列が避けて通らねばならなくなった。」等も、各地の伝承で似たようなモチーフをよく見かけるものである。

 『宝剣子狐丸』には、悪蛇を倒した「布留郷の婦人が、小狐丸を石上に持参の途中、三島の庄屋敷の東、ウバガイデ(姥が堰)で、血のりを荒い清めた」とある。さて、この「怪物を倒した英雄が、使用した武器に付いた血を洗う」というモチーフも、各地の伝承で見かける機会が決して少なくないものだ。今後、ここでこのモチーフを「太刀洗い型のモチーフ」とよぶことにするが、結論を先に言うと、私は太刀洗い型のモチーフは、上代における製鉄や鍛治の記憶と関係しているのではないか、と考えている。というのも、このタイプのモチーフをもった説話は、しばしば、古くから鍛治や製鉄と言った産業が盛んだった地域に残されていることが多いからである。以下、その事例をあげてゆく。



一.近江の櫻椅神社
 滋賀県伊香郡高月町東高田に櫻椅サクラハシ神社という神社が鎮座している。須佐之男命外2柱を祭神とする式内社だが、社伝によれば「須佐之男命、肥ノ川上なる八俣遠呂知を退治し給ひて阿介多と称する岡に降臨ありて、御剣に着いた血を洗ひ給うた霊跡なりと伝える。(『滋賀県神社誌』p538)」という。

 現在、分っている限り、当社の鎮座する滋賀県の湖北地方は、わが国でもっとも早く鉄生産が行われていた地域だった。伊香郡木之本町古橋の古橋遺跡では、岩盤を掘削してタタラとした製鉄遺跡が見つかっているが、このタタラの操業時期は一緒に出土した須恵器によって6世紀末〜7世紀初頭と判明している。これは現在のところ、わが国の製鉄遺跡としてはかなり古い部類に入る。また、浅井町と岐阜県の境には金糞岳という山があり、山中には名前のとおり金糞の散布が見られる等、湖北地方の山間部には、かってはタタラ製鉄が盛んに行われていた形跡がよく見られるという。

 櫻椅神社が鎮座するのは古橋遺跡から南西に4qほど離れたところだが、近くを赤川という川が流れている。当社の近くには日吉神社という神社があって、その境内の観音堂にある千手観音像を拝観していた際、案内をしてくれた人から聞いた話だが、この川の名は5世紀にこの地域で製鉄が行われていたことから付けられたものなのだそうだ。

 わが国で、異論の余地なく、5世紀に製鉄が行われていたことを示すような遺構はまだ発見されていないので、この話をそのまま鵜呑みにはできないが、少なくとも鍛治が行われていたことを示すような遺跡なり遺物なりは、赤川近くで発見されているのではなかろうか。でなければ、こんな話が生じたことの説明が付かない。


櫻椅神社
櫻椅神社
近くの集落内を流れる赤川

 【所 在】 滋賀県伊香郡高月町東高田3631番地
 【祭 神】 須佐之男命・木花開耶姫命・埴安彦命
 【例 祭】 4月14日
 由緒は本文中に引用したとおり。 『延喜式神名帳』近江国伊香郡に登載のある小社である(一座)。





二.備前の血洗いの滝

血洗いの滝


 岡山県赤磐市吉井町にある血洗いの滝には、出雲で八俣大蛇を退治した素盞鳴命が、やはり剣に付着した血糊を洗い落としたという伝承がある。

 血洗いの滝は備前のかなり山奥にあり、むしろ美作に近いが、吉備にせよ美作にせよ、いったいの山地部から山砂鉄が豊富に採れ、タタラ製鉄に欠かせない木炭の原料となる樹木にも恵まれていることから、古い時代からの製鉄遺跡が数多く残されている。平城京木簡などでも、鉄や鍬を貢進したという記事のある国は、備前・備中・備後・美作に集中しているし、名高い刀工が多数、活動した等、古代から鍛治や製鉄が盛んに行われていた地域として名高い。

 特に備前は、平安中期から近世までの長期間にわたって長船を中心に、刀剣の製作が盛んで、「刀剣の聖地」などと言われたりもする。ちなみに国からの文化財指定を受けた刀剣のうち、約7割は備前刀工作なのだそうだ。そしてそういった中でも、血洗の滝周辺は備前における鉄生産の中心地に近いのである。

 この滝から約7q東にある久米郡柵原村飯岡に、刀や剣等、大量の鉄製品を出したことで名高い月ノ輪古墳がある(5c中頃)。この辺りは古墳時代の製鉄地帯であったとも言われ、現在の赤磐市は、律令時代の赤坂郡の一部であるが、特にこの古墳のある同郡周匝スサイ郷は吉井川の舟運を利用して上流の美作、あるいは中国山地を越えて出雲からもたらされる鉄の中継地だった。平城京址から見つかった天平十七年(745)十月四日の木管にも「備前国赤坂郡周匝郷調鍬十口」とあり、8世紀には郷の責任で鉄製品を負担していたことが分かる。

 血洗いの滝はこのように、古代からはなはだ鉄に縁の深い地域にあり、また、ロードマップのようなかなり概略的な地図でみても、付近には「金屋」「金掘」「金政」などという地名が見つかる。これらは金属の採掘や鍛治が行われたことを示す地名だろう。





三.出雲の布須神社
 八俣大蛇退治の本場である出雲にも、太刀洗い型のモチーフをもつ説話が残されている。島根県大原郡加茂町延野に鎮座する布須フス神社は、『延喜式神名帳』出雲国大原郡に登載のある小社であるが、『神国島根』によると「須佐之男命八岐大蛇を退治なされた後、宮居の地を諸方に求められるに当り、斐伊川のほとり此の延野の郷の池で大蛇を斬り給う剣を洗い給いしにより、よって池の水赤色に変わったと云う。この池を赤池(別の名を血の池)と里人は称していたが、昭和39年の大水害に堤防が決壊し、土砂が流れ込み今は跡形もない。この赤池から西方千米許りの地を布須と云い、命が須賀の宮を造られる以前において当地で御宝を作り臥し給いしより起こった名で、これ布須神社のえん源である。(p172)」と言う。


布須神社



 【所 在】 島根県大原郡加茂町延野251番地
 【祭 神】 須佐之男命・稲田姫命・大山咋命、玉依姫命、別雷神
 【例 祭】 11月13日
 由緒は本文中に引用したとおり。
 『延喜式神名帳』出雲国大原郡に登載のある小社であり(一座)、『出雲国風土記』にも「布須社」として登載がある。神祇官に登録された大原郡の神社、13社中、記載順序は四番目。

 出雲最大の河川である斐伊川は、上流域の仁多郡や簸川郡内にタタラ製鉄の遺跡が多いことで知られるが、布須神社の近くを流れる赤川もこの川の支流である。が、製鉄遺跡が多くみられるのは、斐伊川上流域の山間部いったいであり、それに比べれば当社は比較的下流の方に鎮座している。したがい、この神社が鎮座している地域を、積極的に製鉄や鍛治が行われていた土地とは評価できないが、次のようなことが興味をひく。

 当社の鎮座地から南々東に約1q離れたところに前期古墳の神原神社古墳がある。この古墳は、卑弥呼の鏡ではなかったかとも言われる景初3年銘の三角縁神獣鏡が出土していることで名高いが、その他にも、素環頭太刀1、剣1、鏃36、鍬先1、鎌1、鑿1、斧2、ヤリガンナ1、錐2、縫針2と言った大量の鉄製品が出土したことが特筆される。おそらく、この古墳の近辺には、これらの金属製品の製作に従事した工作者の集団がいたことであろう。



神原神社古墳と神原神社
神原神社古墳発掘当時の状況
神原神社

 神原神社古墳は復元規模29×25m、高さ5m以上の大型方墳であったが、昭和47年、赤川の河川改修工事によって消滅した。その際の発掘により、墳頂部から板石を大量に積んで造られた長さ5.8m×幅1m前後、高さ約1.4mの竪穴式石室が発見され、床に敷かれた粘土上からは、長さ5.2mの割竹型木簡の痕跡が検出された。石室内からの出土品は、本文中で挙げた銅鏡・鉄製品の他、大量の朱や祭祀に用いられたと思われる土器があったが、これらの内容は、この古墳が古墳時代前期のそれとして典型的なものであることを示している。

 神原神社は、この工事があるまでこの古墳の上に鎮座していたもので、式内社である。ただし、当社はもとよりこの古墳の上にあったものではなく、社伝によれば、往古は赤川の北岸に鎮座していたものを、そこが低地であったため、西南の対岸にあった古墳上に遷座したものという。

 現在、工事に伴って移転された当社の境内に、これまた移築された、神原神社古墳の竪穴式石室があり、すぐ間近で見学できる。

 【所 在】 島根県大原郡加茂町神原1436番地
 【祭 神】 大國主命・磐筒男命・磐筒女命
 【例 祭】 10月23日
 『延喜式神名帳』出雲国大原郡に登載のある小社であり(一座)、『出雲国風土記』にも「神原社」として登載がある。神祇官に登録された大原郡の神社、13社中、記載順序は七番目。

 「千早振神代に天下造らしし大神の御宝及び諸々の神の御宝に真種の甘美鏡押羽振甘美御神の底宝をも積み給い、天照大神詔り給いて此の神宝の司として天の八十河に坐す磐筒男命、磐筒女命を遣い給いしと云う。これが当社のえん源である。もと当社は屋代郷・屋裏郷・神原郷の三郷の総代神として世人の尊崇最も厚く祭典儀式も盛んであったと云う。また当社地より一町許りの地に真言院と称する神宮寺があったが、近年になってこれを失い堂跡のみがのこっている。(『神国島根』p170〜171)」

 『出雲国風土記』には神原神社古墳がある「神原」の地名起源説話がある。「神原の郷。郡家の正北九里にある。土地の古老が語り伝えて言ったことには、この世をお造りになった大神が神宝を積んで置かれた所であって、すなわち神財カムタカラの里と言うべきところを、今の人がもとの誤ったままに神原の里と言っているだけである。」という。


 この記事はしばしば、神原神社古墳に副葬されていた大量の金属製品の記憶を伝えるものではなかったかと言われるが、その当否はともかく、上に引用した布須神社の由緒にも、「お宝」に関する記事がさりげなく登場している、 ── 「(素盞鳴)命が須賀の宮を造られる以前において当地で御宝を作り臥し給いし」だ。風土記の記述をここにこじつければ、かって布須神社のきんぺんで金属器生産が行われていた事績を伝えるものと考えられなくもない。

 ちなみに、布須神社には「布須池といって、古くから神事以外ではその水を使用しない神聖な池があった。中古、火災があったとき社宝をこの池に投入して災厄を免れたという古伝があったため、大正七年に浚渫したところ、鎌倉様式の銅鏡一面、直刀の破片、混同の鞘が出現し、社蔵されている。(『日本の神々 7 山陰』p147)」という。この池から出た直刀の破片やから、当社には鏡のほか、神宝とされていた剣があったらしいことがわかる。
 また、神原神社古墳の名前の由来になっている神原神社は式内社であり、この古墳が赤川の河川改修工事によって消滅するまでは、その墳丘上に鎮座していた。もともとは赤川北岸にあったらしいが、当社にも宝剣があったらしいことが社伝として伝わっている、 ── 「古社伝によれば、大原郡斐伊郷にある斐伊社を武蔵国に氷川神社として勧請せられるに当り、当社に伝わる出雲神宝十握剣をもってその御神霊の御霊代に奉献したと云われ、その際に十握剣を模写して再び当社の神宝(長さ二尺一寸、白鞘、ヒノカワ上ヤマトノ住民ヒサツグの銘)とした<後略>(『神国島根』p171)」

 この社伝は、記述の内容がかなり具体的なので、「十握剣」と呼ばれていた剣が実在したことはかなり確からしい感じがするが、そのいっぽうで「十握剣」と言えば、『古事記』や『日本書紀』の一書に出てくる、素盞鳴命が八俣大蛇退治に使用した剣の名である。このことは、布須神社の由緒にある素盞鳴命が八俣大蛇を退治した際、剣についた血を洗ったという伝承との類感を起こさずにはいられない。思うにこういった剣や宝物といった伝承が、布須神社きんぺんの赤川流域に多いのも、かってこの辺りで金属器の製作にたずさわる工作者の集団が活動した記憶の反映ではなかったか。

 余談だが、平成8年に39個の銅鐸が出土して注目された賀茂岩倉遺跡は、当社から北に1.5qくらいしか離れていない谷の中にある。358本の銅剣を出土した荒神谷遺跡は、約4q北西だ。賀茂岩倉遺跡は近くにある大山(あるいは大黒山)を意識しているのではないかと言われ、同様に、荒神谷遺跡は仏経山(風土記にある出雲郡の「神名火山」)を意識しているのではないかと言われる。この有名な出雲の2つの青銅器埋納遺跡は、それぞれその立地から神体山の信仰を感じさせるものなのだ。

 布須神社後方にある山の名は「御宝山」といい、先ほどの由緒との関係を感じさす。おそらくこの山は神体山なのだろうが、類推により、山中に銅剣や銅鐸が眠っているのではないか、などといった妄想をかき立てられる。







四.平安京の鵺池と園神社・韓神社
 『平家物語』巻第四の「鵺(「空」へんに「鳥」)」には、次のようなエピソードが出てくる。平安期の仁平年間のことであるが、平安京の東三条の森の方より黒雲が沸き起こって夜な夜な御殿の上を覆い、そのたびに近衛天皇が意識を失うという事件が起きた。このため、急遽、御殿の警護の任に当てられた弓の名手、源三位頼政が現れた黒雲を射落とすと、退治された怪異は「かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなわ、手足は虎の姿なり。なく声鵺にぞ似たりける。」という姿の、鵺という魔物であったという。

 京都の二条城の北西に、濠とNHKの建物に挟まれて二条公園という公園がある。ここに鵺池という池があり、鵺を退治した頼政が鏃についた血を洗ったと伝承されている。『平家物語』じたいに、この鏃についた血を洗ったというエピソードはみられないが、いずれにしてもこれは太刀洗い型のモチーフをもつ伝承である。


鵺池
現在の鵺池
新鵺池碑と小祠

 鵺池は現在、親水公園として整備され、子供らの遊び場所になっている。池の形はC字型で、ちょっと奇妙な形だが、整備される前からこの形状であったようだ。近くにある小祠は(右画像)、扁額をみると「鵺大明神、玉姫大明神、朝日大明神」の三座を祀っていることがわかる。

 鵺池の由緒を彫った「鵺池碑」というものもある。元禄年間に建てられたものだが、風化が激しく、すでに字面は判読しがたい(右画像の半島状になっているところに建っているもの)。昭和の時代になってから建て直された新しい鵺池碑もある(左画像)。


 この鵺池がある二条公園は、園内にある看板によれば、ちょうど平安京の壬生大路の上に位置している。もっと正確に言うと、この公園は壬生大路と大炊御門大路との交差点の北域に当たり、当時そのすぐ東側の塀の中は宮内省であった。そして、宮内省の中には宮内省坐神三座・並明神大社として『延喜式神名帳』に登載のある園神社と韓カラ神社(二座)の2社があった(応仁の乱で廃絶したらしい。)。

 『延喜式神名帳』には園神・韓神社を含め、宮中神として36座の登載があるが、ほとんどは余所から宮中に勧請されたものである。ところが『江家次第』等に、平安遷都のおり、園神社と韓神社を移転させようとしたが、託宣があったので天皇の守護神としてそのまま留まったという口碑が載っており、どうやら他の宮中神とは違い、この2つの神社は平安京が建設されるより以前から、この場所で祀られてきた土着の神であったらしい。

 園神・韓神がどういう神格であったかについては諸説ある。大倭神社註進状に引かれた大神氏家牒によれば、園神社の祭神は大物主命で、韓神神社のそれは大己貴命と少彦名命の二座であるという。また『古事記』には、大歳神の子神として「韓神」という神名が登場するので、とうがい「韓神」を韓神社の祭神とみる説もあるようだ。

 だが、園神社と韓神社が平安遷都以前からここで祀られていた土着の神であったとすれば、京都盆地が古代より渡来系である秦氏の勢力が有力であったことを考え併せると、園神はともかく、韓カラ神は「渡来人が祀っていた神格」を意味する普通名詞で、秦氏によって祀られていた祭神であったと考えるのが自然ではなかろうか。秦氏というと「養蚕」「機織」「治水」等のキーワードが有名だが、がいして渡来系の古代氏族は、金属の精錬や鍛治といった分野で活躍するケースが多い。

 式内社で社名に「から神」と付く神社で、金属関係の産業とつながりがみられる事例と言ったらまず、豊前の香春岳の麓に鎮座する辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)神社があげられるだろう。


香春神社
 香春岳。現在では、セメントの採掘によって、原型が著しく損なわれている。
香春神社

 香春岳は三つ峰からなっており、それぞれ南から一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳である。『延喜式神名帳』豊前国田川郡に登載のある小社、辛国息長大姫大目命神社、忍骨神社、豊比唐ヘ、元はこのそれぞれこの3つの峰を神体山に祀られていたが、後になり、この3社を一所に集めて祭祀するようになったのが香春神社である。旧社地である採銅所にあった辛国息長大姫大目命神社がここに遷座されたのは、和銅二年(709)と言われ、他の2社もこの時、同時に遷座したと思われる。香春神社は香春岳の南麓に鎮座している。

 

 【所 在】 福岡県田川郡香春町大字香春
 【祭 神】 辛国息長大姫大目命神社、忍骨神社、豊比盗_社
 【例 祭】 5月5日、6日
 当社の由緒は宇佐八幡宮との関わりのなかで捉える必要があるだろうが、かなり複雑なので、ここでは説明しきれない。興味のある方は、『日本の神々 1 九州』の「香春神社」、「宇佐八幡宮」の項等を参照して下さい。

 『豊前国風土記』逸文には、「昔、新羅の国の神が自ら渡来してきてこの川原に住んでいた。そこで神の名も香春の神と名付けた。<中略>(※香春岳の)第二の峰からは銅を産出し、また拓殖や竜の骨などもある。」という記事がある。じっさいに、香春岳には銅を採掘した遺跡があるとともに、当社の旧社地には「採銅所」という地名が残っていること、いっぽう付近にある当社の祭祀氏族であった赤染氏の氏寺と目されている天台廃寺跡からは、新羅系の瓦が出土すること等からいって、この神社が金属の採掘や精錬に長けた新羅系の渡来人によって祀られていたことは間違いない。

宇佐神宮
→ 『宇佐八幡宮の石段
 ところでこの神社は祭祀面で宇佐八幡宮との関わりがある。というのも、宇佐八幡宮の放生会は、豊前国司が勅使となって香春岳から銅の採掘を行う、→ 勅使が香春岳の麓に鎮座する古宮八幡宮(辛国息長大姫大目命神社の元宮。和銅二年に現在の香春神社の地へ遷されたという。)の宮柱、永光家の行う銅鏡の鋳造に立ち会う、→ 鋳あがった鏡を神輿に乗せて宇佐にある隼人塚まで運び、宇佐八幡宮の大宮司以下に迎えられる、→ その後、各地での諸行事を済ませてから、銅鏡は宇佐八幡宮に神体として奉納される、というものであったからだ。

 宇佐託宣集によれば、放生会は、虐殺された隼人の霊を慰めるために始まったことになっている。が、ほんらいは辛国息長大姫大目命神社の祭祀氏族であった赤染氏による、宇佐八幡宮の祭祀氏族、辛嶋カラシマ氏・大神氏への服属儀礼であったと考えられている。辛嶋氏・大神氏はいずれも渡来系の氏族であるが、とくに辛嶋氏は秦氏系であったらしい。赤染氏はその支配下で、香春岳での銅の採掘や鍛治に携わった氏族と思われるが、これと同じように、京都盆地にいた秦氏の配下にも、鍛治を職掌とする部民がいたのではなかったか。

 『百錬抄』には大治二年(1127)に園神・韓神の両社が火災に遭った際、神体を取り出してみたところ剣と鉾であったという記事があり、『江家次第』には当社の祭日には神部4人が榊・弓・鉾・剣をもって舞ったとある。こうした記事は、園神・韓神の神格に、剣との関わりがあったことを感じさせるので興味深いが、あるいは鍛治神としてのそれが考えられないだろうか。

 また、志賀剛によれば両社の鎮座地近くは湧水が豊富であるという(おそらく鵺池の水源も同じ湧水なのだろう。)。個人的な感想だが、鍛治や金属精錬にまつわる祭神を祀った神社には、流水や湧水等の水辺に鎮座している事例が多い気がする(例えば、『豊前国風土記』で香春神が住んでいたのは川原であった、となっているのはその一例である。ちなみにその川の名は現在、「金辺川」である。)。こういったことから私は、園神・韓神神社の鎮座地周辺では上代に、鍛治を職掌とする秦氏の部民によって刀剣等の金属器生産が行われており、彼らによって祀られていたのがこの2つの神社で、両社は鵺池がもっと大きかった頃、その畔に鎮座していたのではなかったか、などと考えているのである。





五.但馬の葦田神社
 兵庫県豊岡市中ノ郷字森ノ下に葦田神社という神社がある。『延喜式神名帳』但馬国気多郡に登載のある小社で、『神撰姓氏録』の葦田首の記事に、「葦田首。天麻比止津乃命之後也」とあることから、天麻比止津乃命、すなわち天目一箇命が祭神とされる。


葦田神社
葦田神社
奉納された履き物や杖

 【所 在】 兵庫県豊岡市中ノ郷字森ノ下
 【祭 神】 天麻比止津乃命(天目一箇命)
 【例 祭】 10月15日
 由緒等は本文中に引用したとおり。 

 伝承によれば当社の祭神は、但馬国一の宮である出石神社の祭神、天日槍にしたがって但馬までやって来た随神であった。が、日槍から良い土地を探してくるように命じられた祭神が、それを見つけたにもかかわらず復命せず、自分の土地にして住んでしまったため、日槍の怒りを買い、その許しを得るために足痛を直す神となることを誓ったという。
 現在でも当社の社殿の脇には、松葉杖や履き物などがたくさん吊されているが、足の病や怪我の治癒を祈願してかなった人たちが奉納したものだ。

 『日本の神々 7 山陰』によると、出石神社に残る昭和三年の「神社調」によれば、「勝手に居所を決めた随神の足を、怒った日槍が切ってしまい、その血をぬぐった石が葦田神社の近くにあるという。(p327)」という。
 この引用文だけでは、石で血をぬぐったのが日槍が随神に切りつけた時の、剣であったかどうかまでははっきりしないが、現在、当社の境内には「切石」という苔むした石があり、看板によれば、怒った日槍が当社の祭神に斬りつけた際、勢いあまって一緒に切ってしまった石ということになっている。

 葦田神社の境内にある切石。怒った日槍が当社の祭神に斬りたつけた際、勢い余って一緒に斬ってしまったと伝承されているが、確かに、一部が切り取られたような形になっている。

 この石と引用文中に出てきた「その血をぬぐった石」が同一とすれば、総合的にこの石の伝承は、「日槍が当社の祭神の足に切りつけた際、剣についた血をぬぐった」というものであったとしてもおかしくない。そして、だとすればこれもまた太刀洗い型のモチーフと解釈できるのではないか。

 その場合、当社は通称、「愛痛アイタチ大明神」と呼ばれているのだが、前掲書で当社の項を執筆した瀬戸谷晧は次のように言う。「古代製鉄に関連する地名「穴師」を「痛足」と書く例があるように、「愛痛」も製鉄のタタラを踏む人々の職業病としての足痛と結び付くのではなかろうか。当社の祭神が足を切られたという伝承も、そのことにかかわるものであろう。また周知のように天目一箇命は片目の神で、製鉄師の職業病である眼の疾患との関係が指摘されている。すなわち、当社は製鉄に関わる氏族である葦田氏により祀られた可能性が大きい。(p327)」

 「当社の祭神が足を切られたという伝承」は、「あしだ」という社名に附会されたものだという気がしないでもないが、いずれにせよ、葦田氏が鍛治神の天目一箇命を祖神とすることは間違いないので、当社の祭祀氏族が彼らであったとすれば、ここにもまた太刀洗い型のモチーフと鍛治や製鉄との接点が見いだされることになる。






六.その他
 福島県双葉郡浪江町大字井出に「太刀洗(たちあらい)」という字がある。そこには太刀洗遺跡という遺跡があり、常磐自動車道の工事に伴って平成15年に発掘調査が行われた。その結果、炭焼窯の跡や廃滓遺構が検出され、後者からは約4tの鉄滓を中心に、製鉄炉体破片、羽口、木炭等が出土している。伴出した土師器片からこの遺跡は平安時代前半頃の製鉄遺跡と判明した。
 この遺跡がある「太刀洗」という地名の由来は調べ切れていないが、ここにも太刀洗い型のモチーフをもった説話が残されていたのではあるまいか。

 この他、太刀洗い型のモチーフをもつ説話は九州地方の北部に多く残されている。『日本伝説大系』には福岡から7、大分から3、佐賀から2、このタイプの説話が収録されている。これらはおそらく、正平14年の大保原合戦で、太宰少弐と戦った菊池武光が、血刀を川で洗ったという有名な伝承に附会されたものだろう。現在、武光が血刀を洗った川は太刀洗川と呼ばれ、福岡県三井郡太刀洗町を流れているが、残念ながらまだ私はそのきんぺんで、古代に製鉄や鍛治が行われていたことを感じさす伝承なり、考古学上の発見なりがあったという情報にぶつかっていない。希望的観測を述べると、ある程度、マクロにみれば太刀洗町ふきんは、古代に物部氏が活動していた感じがする地域であり、彼らの部民で鍛治を行っていた者たちが、そこに居住していたのではないか、などと考える。

 なお、福岡市早良区内野多々良瀬には次のような太刀洗い型のモチーフをもつ伝承がある。「荒平戦争の時、竜蔵寺勢が血刀を洗ったので、大刀洗瀬という。多々良瀬はそのなまり。(『背振山麓の民俗』)」
 「たちあらい瀬」→「たたら瀬」という音転は何となく本当にありそうな感じがするが、いちおう、この地名も付近でタタラ製鉄が行われていたことから付いた可能性があると言っておこう。





   





  とりあえず私が調べた範囲で、太刀洗い型のモチーフをもった説話の伝承地と、古代における製鉄や鍛治とのつながりはこういうところである。それにしても、これらの伝承地の付近には、「あか」とつく地名の登場することが多い。櫻椅神社の「阿介多(あかだ?)」「赤川」、血洗いの滝の「赤磐市」「赤坂郡」、布須神社の「赤川」「赤池」 ── 。

 鉄の精錬や刀鍛治が行われている場所には必ず鉄滓が発生する。また、それらの活動は水を使用するので、水辺に近い場所で営まれることが多い。その場合、廃棄された鉄滓が水中にたまると、溶出した鉄分の酸化によって水が赤っぽくにごることになる。そしてそのような赤にごりの水と、そこで活動していた刀鍛冶たちの記憶が結び付いて、「怪物を倒した英雄が、使用した武器に付いた血を洗った。」という「太刀洗い型のモチーフ」をもった伝承が生じるのではなかったか。


 ここで、話を『宝剣子狐丸』の「布留郷の婦人が、小狐丸を石上に持参の途中、三島の庄屋敷の東、ウバガイデ(姥が堰)で、血のりを荒い清めたという。」の箇所に戻す。

 悪蛇を倒した布留郷の夫人が小狐丸についた血糊を洗い浄めたというこのウバガイデは、「今、天理教本部の東門前にあたり、暗渠となっているから、見られない。」という。
 私は天理教本部に電話して、よく事情を説明の上、確認したが、同本部には昔から「東門」という門はないという。また、「西門」や「北門」も同様で、あるのは通称、「黒門」とも呼ばれる「南門」だけであった。南門の前は南からアプローチする道路の下を布留川が流れ、暗渠状と言えなくもない感じになっている。したがい、「宝剣小狐丸」に出てくる「天理教本部の東門」とは、東と南の取り違えではないかと思う。


ウバガイデ
天理教本部南門
南門近くの布留川

 
 左画像は通称、「黒門」と呼ばれる天理教本部の南門(本部を背に、外に向かって撮影している。)。門とその向こうの建物の間を布留川がながれ、その上を広い道路が大きな橋となって横断している。チープにして壮大な宗教都市を代表する景観だ。

 右画像は、その橋の下を流れる布留川。ウバガイデとはここら辺りなのか。


 布留郷の夫人が子狐丸の血糊を洗い清めたのは、石上神宮に持参の途中だったのだから、そこは布留川の左岸側であった可能性が高い。天理教本部ふきんの布留川左岸側に当たる天理市布留町、三島町、守目堂町にまたがって、縄文期から古墳期にかけての複合遺跡、布留遺跡が広がっている。古墳時代初頭の土師器の様式として有名な「布留式」は、この遺跡を標準としている。
 さてこの遺跡からは、古墳時代中〜後期の大がかりな鍛冶工房の存在を示す遺物が見つかっている。古墳時代後期初頭の竪穴住居跡からは、鍛冶工具(鉄鉗)が見つかっており、また、竪穴式住居や溝をはじめとした各種遺構や包含層からは、大量の鉄滓テッサイと鞴フイゴの羽口が出土した。確実な鍛冶炉の発見はまだなされていないが、当時、集落内で恒常的な鉄器製作が行われていたことは確実であり、出土した鉄滓の量から言って、外部への供給が可能な量の鉄器生産が行われていたと推定されている。

 とくに天理教本部に近い(ということは、布留郷の夫人が子狐丸に付いた血糊を洗ったウバガイデに近い)三島中里地区からは、中期中葉〜後期前半を中心とした時期の、木製の刀装具の未完成品が出土しており、ここにあった鍛冶工房では、農耕具だけではなく、剣などの武器生産も行われていたと判明している。

 ここで参考までに、坂靖の『古墳時代における大和の鍛冶集団」にあった表を転載する(『橿原考古学研究所論集13』所収、発表年は1998年)。

  遺跡名 所 在 地 鍛   冶   関   係   遺   物
時  期 出土遺構 鉄 滓 鞴 羽 口 そ の 他
纏向 桜井市巻之内・東田ほか 前期 溝など     砥石か
大福 桜井市大福 前期               井戸 1個  
太田 北葛城郡當麻町太田 前期 少量 1個  
箸尾 北葛城郡広陵町箸尾 前期 住居跡 一個  
布留 天理市三島町ほか 中期半葉〜後期 住居跡・溝・川 60s 多数 鉗・砥石
名柄 御所市名柄 中期末〜
後期初頭
一個 鑿・鉄斧
南郷 御所市南郷・井戸ほか 中期中葉〜
後期
住居跡・溝・川・土坑 約30s 70個+  
脇田 北葛城郡新庄町脇田 中期後半〜
奈良時代
溝・土坑 200個    
東坊城 橿原市東坊城町 中期中葉
     
10 原田 大和郡山市小泉町 後期
微量 4個   
11 忍阪 桜井市忍阪 後期後半                土坑 118g 不明  
12 河西 桜井市河西 後期                     
13 上之宮 桜井市上之宮 後期末?               包含層      
14 清水谷高貝 高市郡高取町清水谷 後期末      土坑 4個 1個か 砥石
    (参 考)        
15 大県 大阪府柏原町 中期〜
後期
鍛冶炉など 389s 919個 砥石
16 大阪府交野市 中期〜
後期
土坑・溝 100s 231個 砥石

 この表は、奈良県下の遺跡から出土した鍛冶関係の遺物をまとめたものであるが、これを見るかぎり、大阪府の大県遺跡や森遺跡には及ばないものの、布留遺跡は出土した鉄滓の量から言って、御所市にある南郷遺跡と並び、奈良県下でいとなまれた鍛冶工房跡として最大規模であることがわかる。そして私は、太刀洗い型のモチーフをもった説話が、古い時代に製鉄や鍛治が行われた地域に伝承されている事例が多いことから、布留郷の夫人がウバガイデで子狐丸に付いた血糊を洗い清めたというこの伝承も、布留遺跡の工房で行われていた鍛治の活動の記憶を反映したものではなかったか、と考えるのである。【「その弐」に続く】


H18.05.28

          














主な参考文献

『古墳時代における大和の鍛治集団』 坂靖 橿原考古学研究所論集13
『布留遺跡範囲確認調査報告』 天理市教育委員会

『風土記』 小学館日本古典文学全集
『大和の伝説』 奈良県童話連盟修/
高田十郎編
大和史蹟研究会

『式内社調査報告』第二十一巻から
 「布須神社」の項
加藤 義成  同
 「神原神社」の項   〃  〃
『同』第二十四巻から
 「辛国息長大姫大目命神社」
 「忍骨神社」
 「豊比盗_社」の項
中野 幡能  〃

『式内社の研究』第二巻 志賀 剛 雄山閣

『日本の神々』1から
 「香春神社」の項
田村 圓澄 白水社
『日本の神々』7から
 「神原神社」の項
藪 信男  〃
 「葦田神社」の項 瀬戸谷 晧

『神国島根』 島根県神社庁
『滋賀県神社誌』 滋賀県神社庁

『京都市の地名』 平凡社日本歴史地名大系

『平家物語』 岩波文庫

『常磐自動車道遺跡調査報告39』 福島 雅儀・
坂田 由紀子
福島県教育委員会
財団法人 福島県文化振興事業団
日本道路公団

『日本神話の考古学』 森 浩一 朝日文庫

『日本伝説大系』第十三巻 山中 耕作・
宮地 武彦編
みずうみ書房








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