菅  田  池  の  女  神





 奈良盆地のほぼ中央部、天理市の二階堂地区いったいに「菅田」という地名の残る地域がある。現在の二階堂北菅田町と二階堂南菅田町がそれで、この2つの町は近世までの平群郡菅田村であった。また、中世期には、やはり「菅田」の名が付いた菅田北庄(一夜松北庄)・菅田南庄(一夜松南庄)・菅田宮堂といった諸荘園がこの付近にあり、その範囲は上述の二階堂北菅田町・二階堂南菅田町だけではなく、大和郡山市の八条町・宮堂町あたりにまで展開したと考えられている。
 今後、これらの地域を「菅田エリア」と呼ぶことにする。

 菅田エリアには現在、少なくとも式内社が1社、鎮座している。大和郡山市八条町に鎮座している菅田神社がそれで、『延喜式神名帳』大和国添下郡に登載のある「菅田神社」に比定されている(※下のコラム「菅田比賣神社・菅田神社・春日神社」参照)。ところで、同じく『延喜式神名帳』同国同郡には、「菅田比賣神社 二座 鍬・靱」という神社も登載されている。両社は一対の関係にあったと考えられており、現在、大和郡山市筒井町に鎮座する同名の神社が、この式内社に比定されている。以下、この筒井町にある神社を「現・菅田比賣神社」とし、神名帳に登載のある神社を「式内・菅田比賣神社」としよう。



菅田神社 現・菅田比賣神社


 現・菅田比賣神社が式内・菅田比賣神社に比定されるには、次のようないきさつがあった。まず、「菅田比賣神社」という名前の神社だが、近世、そのような名前の神社はすでに無くなっていた。しかしながら、『大和志』には、式内・菅田比賣神社が「信田宮(しのだのみや)」を称したという記事があり、現・菅田比賣神社は、これを受けて信田宮を「菅田比賣神社」に改名したものである。信田宮はかって、現鎮座地の北方、大和郡山市の丹後庄町と筒井町の境界付近にあった。旧社地付近には、現在でも、「篠田」とか「北篠田」の地名が残ると言う。現在の鎮座地へは、江戸末期に遷座したらしいが、それまでそこには、八幡宮という神社があり、したがって、現在の当社の境内地は、この八幡宮のものである。篠田宮が菅田比賣神社と改名された時期は、よく分からないが、明治12年の『神社明細帳』にはすでにそのようにある。



 さて、以上のように現・菅田比賣神社が式内・菅田比賣神社に比定された根拠は、もっぱら『大和志』の記事にあるのだが、単純な理由からこの記事には疑問が感じられないでもない。すなわち、式内・菅田比賣神社の後裔社として比定するには、信田宮はあまりにも菅田エリアから離れているのだ。これと同じ疑問を感じているのは私だけではない。『式内社調査報告』で、菅田比賣神社の項を執筆した大矢良哲も、控えめながら同じ疑問を表明している。

 中世の菅田北庄(一夜松北庄)・菅田南庄(一夜松南庄)・菅田宮堂の諸荘園は、大和郡山市の八条町・宮堂町、天理市の二階堂北菅田町・二階堂南菅田町あたりに展開したと考えられている(『大和郡山市史』)。『大和志』以後、信田宮を菅田比賣神社としているが、その根拠もはっきりしない。果して、この筒井の地(※現・菅田比賣神社の鎮座地)までをも「菅田」と称していたか、ということについては、今なお問題が残る。

・『式内社調査報告 第二巻』p118


 引用文中で言う「大和郡山市の八条町・宮堂町、天理市の二階堂北菅田町・二階堂南菅田町あたり」を、ここでは「菅田エリア」と呼んでいる訳だが、現・菅田比賣神社(=かっての信田宮)は、同エリア内で当社にいちばん近い八条町からも、直線距離にして北々西に1.5qほど離れている。しかも信田宮の旧社地は、筒井町と丹後庄町の境辺りにあったと言うから、かっては、現在地よりもさらに離れていたことになろう。また、菅田エリアは佐保川の左岸側に展開する地域であるが、信田宮があった場所は同右岸側である(もっとも河川の流路は変わりやすいので、それにはあまりこだわることができないが)。信田宮じたいも由緒ある古社であったようだが(※1)、やはり式内・菅田比賣神社の後裔社を探すとなれば、中世に「菅田」の地名のついた庄園が広がっていた菅田エリアの中から見つけ出すのが自然ではないだろうか。そこで、伝承を手がかりに、菅田エリア内に鎮座する神社のなかから式内・菅田比賣神社の後裔社である可能性のあるものがないか洗い直しをしてみたい。



   



 まず、すでに「はじめに」で紹介したあった『宝剣子狐丸』の、最初の部分を引用する。
 昔、布留にひとりの若者があった。父の病気平癒を祈って、毎月信貴山へ裸足参りをしていた。すると、いつも途中で休む竜田の茶店の女に恋慕された。男は、妻のある身なので、女をさけて逃げて帰った。女は男の後を追った。大和郡山市八条町(旧生駒郡平畑村八条)の菅田神社まで逃げ延び、社の後ろの松の木によじ登った。松は一夜に大木となって、若者を隠した。女は木の下の水に映った男の影をみて、身投げしたものと思い、その身も身投げして死んだ。<後略>


 伝承にある一夜松のものだという木の幹。2代目のもので、最初の木が永正年間の台風で倒れたため、跡継ぎとして植えられたものという。現在も菅田神社で保管されている。


・「宝剣子狐丸」
 『大和の伝説』奈良県童話連盟修/高田十郎編、大和史蹟研究会
  P85〜86

 この伝承の前半は明らかに、『安珍清姫』(あるいは『道成寺』)から附会されたものである。また、奈良盆地中央部に多い在原業平伝説との習合も感じさせる。さらにまた、木に登った男の姿が下にあった池に映って女から発見されるモチーフは、『海幸山幸』でわだつみのいろこの宮を訪れた山幸が、門の前にあった桂の木に登っていると、下にあった井戸にその姿が映って発見されるエピソードを思わせる。こうしてみると、この伝承はオリジナルなものをあまり感じさせないが、それにしても菅田神社を舞台にした伝承に、こうした附会が見られるのは興味深い。

 『安珍清姫』は、旅の山伏であった安珍に恋慕した清姫が、逃げた男をずっと追跡して、やがてその想いが凝って蛇身となり、最後には男を取り殺してしまう物語である。また、木の上にいた男が下の水面に姿が映って発見されるモチーフは、上代における神婚儀礼の記憶を伝えるものであろう。菅田神社と菅田比賣神社が一対のものととして考えられていることはすでに述べたが、後者は社名からして、女神を祭神として祀る神社であると思われ、してみると両社は、ヒコ神・ヒメ神として一対の関係にあったことになる。各地の神社祭祀や民俗学の事例からいって、こうした関係は、2つの神社の祭神間に、神婚を前提とした夫婦神や母子神の関係のあったことを想定させる。菅田神社の登場する『宝剣子狐丸』の伝承に、男女の愛憎にまつわる『安珍清姫』や、神婚儀礼の記憶を伝える『木の上の男が、水面に姿を映して発見されるモチーフ』がみられるのも、両社の祭神間で神婚があった記憶を伝えるものではなかったか。
 もっとも、このことはこの2つの式内社を考える上で確かに重要だが、それだけでは式内・菅田比賣神社がどこに鎮座していたかについて何も教えてくれない。だがここで、『奈良県山辺郡誌』にある次のような伝承が手がかりとなる。

 往古菅田池ト申菰池共申所エ、年頃十三四歳ナル容顔美麗ニシテ女体ニ似タル柔和ナル御神、御手ニ白幣ヲ携出現シ玉フ、此池出テ大道北エ行玉ヒ、八条村ノ領地字神楽田ト申所暫休玉ヒ、夫ヨリ二・三町余西ノ方ニ鎮座在リシカバ、一夜間ニ松林トナル



(往古、年の頃、13〜4才の女体に似た美しい顔立ちをし、柔和な祭神が、菅田池とも菰池とも呼ばれた池に、白幣を手にして現れ、池を出て大道を北へ向い、八条村の神楽田というところでしばらく休憩された。そして、そこより二〜三町ほど西のところまで行って鎮座したが、その時、そこが一夜にして松林となった。)



  
 菅田神社の一の鳥居は下ツ道に面して東向きに建っており、鎮座地からは、500mほど東に隔たっている。
 この一夜にして松林になったという鎮座地とは、明らかに今の菅田神社のことである(※2)。また、祭神が西に向かう前に休憩した「神楽田」という場所は、下ツ道に面して現在、菅田神社の一の鳥居が立つ場所ふきんであったと考えられる。
 それにしても、同じ菅田神社が登場するにしてもこの伝承、『宝剣子狐丸』と違い、ほかの説話からの附会がほとんど感じられない。結論を言ってしまえば、私はこの伝承こそ、ほんらい菅田神社に伝えられていた古いそれに近いもので、菅田池に現れたと言う「年頃十三四歳ナル容顔美麗ニシテ女体ニ似タル柔和ナル御神」こそ菅田比賣神社の祭神、菅田ヒメであると思うのだ。また、彼女が菅田池に現れてから菅田神社の方に向かったというのも、菅田神社の祭神と婚姻を果たす目的のためではなかったか。両祭神が婚姻したというはっきりとした記述はこの伝承に見られないが、一方で、菅田比賣神社の祭神は、このように菅田神社の祭神の処に通婚していたという観念があったからこそ、それが呼び水となって『宝剣子狐丸』に、恋に狂った女が男を追いかける『安珍清姫』のモチーフが附会されるようになったのではないか。

 なお奈良盆地中央部には、祭神間で通婚があるという神社が他にもいくつかある。したがって、菅田神社と菅田比賣神社の祭神間でそれがあったとしても、べつだん特殊なことではないのである。また、このいったいには在原業平伝説が多くみられるが、これもこの地域で祀られていた通婚する神々の記憶が反映していることを感じさせる(※3)。

 以下、『奈良県山辺群誌』所収の伝承にある、「年頃十三四歳ナル容顔美麗ニシテ女体ニ似タル柔和ナル御神」とは、菅田比賣神社の祭神、菅田ヒメであったとして論を進める。

 この「柔和ナル御神」が菅田ヒメであったとすると、彼女が白幣を手にして菅田池から現れたという場所は、この女神がミアレする重要な地点であったことになる。したがって菅田ヒメを祀る場所として、もっともふさわしいのはこの場所に違いない。とすれば、今でもそのふきんを探せば、社名は変更されているかもしれないが、式内・菅田比賣神社の後裔社が存在し、またその神社は、これまでの長い歴史の中で祭神が変更されているかもしれないが、かって女神である菅田ヒメを祀っていた名残として、今でも女神を祀っているのではないか ── 、そんなふうに考えてこの伝承と符合するような場所に神社が無いか検討してみた。

  
天理市二階堂北菅田町堂畑の春日神社
 この伝承で菅田ヒメは、菅田池から現れた後、そこを出て「大道」を北へ向かったと言う(「此池出テ大道北エ行玉ヒ…」)。してみると、「大道」は南北に通じる道らしい。菅田エリア内で、そのような方向に通じ、かつ、「大道」の呼び名にふさわしい道と言えば、下ツ道ということになる。下ツ道は言うまでもなく、古代から続く幹線道路で、現在の二階堂北菅田町と二階堂南菅田町の東辺を区切って南北に延び、そのまま北上すれば平城京の朱雀門に至って、京内では朱雀大路となる。神楽田で休息した菅田ヒメが、今度は西に向かって二〜三町ほどいって鎮座したのが菅田神社であるというのも、大道が下ツ道であると考えると、周囲の地形や道路の状況とよく符合する。
 菅田ヒメは菅田池を出てから、すぐに大道を北に向かったらしいので、その出現地点は下ツ道に近かったらしい。してみると、その神社があるのは佐保川に近い宮堂町や八条町ではなく、二階堂北菅田町あるいは二階堂南菅田町の、さらに町内でも東のほう、ということになる。また、姫が菅田池から出現した以上、その神社の近くには池があるか、あるいは昔は池であったような痕跡がなければならない、 ── こうした条件を満たす神社として、二階堂北菅田町堂畑に鎮座している春日神社が挙げられる。当社から下ツ道へは、東に約200mしか離れていないし、また、当社の東北、100mも離れていないところには大きな池があるのである。

 私が現地へ行ったとき、この大きな池のすぐ傍らで耕作をしている人がいたので、池の名を伺ったところ、「菅田池です。」という返事が返ってきた。これはやや意外だった。というのも菅田池は、古歌にも名前の出てくる古い池だが、ある文献には、「かっては二階堂北菅田町と二階堂南菅田町の近くにあった」などと過去形で書かれていて、あたかも現在では残っていないかのようだったからである。

南西から見た春日神社の社地 菅田池の水面に影を落とす春日神社の樹木

 おそらくこの現在の菅田池は、かってそこから菅田ヒメが出現したという同名の池の、遺存のものなのだろう。しかし、伝承や古歌にある菅田池は、現在のそれより、ずっと大きなものではなかったか。その耕作中の人の足下に目を遣ると、畝と畝の間の溝の所に、前日の雨がまだ残っていた。その雨は昨日の日中から夜半にかけて、ずっと降り続いたものであったが、朝には上がっていたし、その日は一日中、ほとんど晴天で、しかも私がその人と会話したときは夕方だったのである。また、その雨は豪雨というほどのものでもなかった。となると、現在の菅田池は堤を造って、整形に押し込められているが、かってはもっと西の方にまで広がっていたのではなかろうか。その人の耕していた畑も、かっては菅田池の一部で、そのために現在でも水はけが悪く、湿気ているのではないか。さらに、菅田池の西側には田圃が広がり、その田圃は春日神社の北側を通り越し、宮堂集落の東辺までもずっと続いている。宮堂町の東端には、古池という大きな池があり、またこの池の北の近鉄線の線路に近い辺りにも、もうTつの大きな池がある。あるいはこれらの池も、現在の菅田池と共に、かっての古・菅田池の遺存のものであり、この、現在、田圃が広がる範囲一面がかっては巨大な池沼で、菅田池と呼ばれていたのではなかったか。

 現在の二階堂北菅田町と二階堂南菅田町は、近世までの平群郡菅田村であった。ところが、かってはこのように1つの村落であったにもかかわらず、現在の両町は、北菅田公民館のある辺りと、南菅田公民館のある辺りを中心にして、かなり顕著な2まとまりに分かれている。だがこれも、現在の菅田池が、かっては西の方にまでもっとずっと広がっていたと考えると、それによってコミュニティが分断された結果と得心がいく。そしてその場合、かっての春日神社は、この古・菅田池に臨んで鎮座し、水面にその影を映しながらたたずんでいただろう。まさに菅田池から出現した「女体ニ似タル似タル柔和ナル御神」を祀る神社にふさわしい立地である。こうしたことから、私はとうがい春日神社こそ、式内・菅田比賣神社の後裔社であると考えるのである(※4)。
 なお、春日神社の鎮座する二階堂北菅田町は、近世における平群群菅田村であった。いっぽう、式内・菅田比賣神社は、『延喜式神名帳』において添下郡に登載されているので、ここには一見、矛盾がある。が、しかし『大和志』は菅田村について、「属邑二旧添下郡」とするので、これは後世における郡域の変更によるものと考えられる。



   


 春日神社が菅田ヒメを祀った式内・菅田比賣神社の後裔社であったとすれば、後世に神社名や祭神の変更があったとしても、祭神の性別までは変更されず、女神を祀ったままであっておかしくない。ところが、当社は奈良の春日大社の分社なので、その祭神は男神の天津児屋根命である。したがって、これにはあてが外れた格好になった。だがしかし、当社には境内社に厳島神社という社があり、その祭神は市杵島姫命で、言うまでもなく女神なのである。しかも、境内社とは言っても、どうやらこの厳島神社、ただの境内社ではないようなのだ。なかんずく、明治期の神社合祀令などにより、付近に鎮座していたものを合祀してできたような、よくあるタイプの境内社とは全く違う。

 「春日」と「弁天」が並列して彫られている石灯籠。  玉垣の中は同じサイズの社殿が2つ並んでいる。

 現在、当社の拝殿から社殿へ続く短い石段の右手に右の画像にある天保六年(1835年)の石灯籠があり、そこには「春日」と「弁天」が並列表記されている。拝殿手前の右側にある明和五年(1768年)の石灯籠も、やはりこれと同じ形式で「春日」と「弁天」が併記されているが、その下には続いて「両社」と彫られている(「両社」の下にも何か続けて彫られているかもしれないが、現状では石に隠れていて見えない。)。
 これらの石灯籠にある「弁天」とは、この境内社の厳島神社のことであろうが、その彫られ方からみて、この神社は近世まで春日神社と対等に祀られていたことが分かる。いや、それどころか、画像を見てもらえば分かる通り、現在でも春日神社の玉垣の中は、同じサイズの社殿が並んで鎮座しているのであって、外見上はどちらが春日神社で、どちらが厳島神社なのか分からないのである。こうしてみると厳島神社と春日神社は、石灯籠の記年からいえば、遅くとも江戸中期の後葉頃から、こうした並列祭祀を受けていたと考えて間違いなさそうだ。

 玉垣の中に同サイズの社殿が並んでいるというこうした並列祭祀は、奈良県下では必ずしも珍しいものではないが、要するに、複数の祭神を対等に祀る必要から生じた現象だろう。したがって、この厳島神社は本社である春日神社と同じくらい重要視されていることになる。春日神社と厳島神社というペアはあまり一般的ではないので、この2つの神社が対等に祀られているのには何か特別な訳がありそうだが、この神社が式内・菅田比賣神社の後裔社であるとすればどうか。『延喜式神名帳』に菅田比賣神社は「二座」とある。してみれば、春日神社がと厳島神社が、現在でも同サイズの社殿が並べて並列祭祀を受けているのは、この式内社が二柱の祭神を祀っていたことの名残ではないか。
 式内・菅田比賣神社の祭神、「二座」のうち、一座が菅田ヒメであることは、社名からいってまず間違いなかろう。してみると、この厳島神社は式内・菅田比賣神社 二座中の、菅田ヒメを祀った方の後裔社ではなかろうか。それがどうして、厳島神社(石灯籠の表記から見ると、かっては「弁天社」)となったのか。当てずっぽうを言えば、次のようなことが考えられる。

 『奈良県史5神社』で調べると、春日神社を含む天理市の二階堂地区に鎮座する神社群は、境内社に厳島神社だとか市杵嶋神社といったのあめケースがきわめて多い(二階堂地区の全神社29社中、そうした境内社は10社もある)。これらの厳島神社や市杵嶋神社は、かって付近にあったため池で水神として祀られていた弁財天ではなかろうか。というのも、今でも奈良県の平野部に多いにため池には、堤などで市杵嶋姫命を祭神とする小さな祠を祀っているケースをたまに見かけるからである。それが、明治になってからの廃仏毀釈や神社統合により、弁財天は我が国古来の祭神である市杵嶋姫命に改められ、社名も厳島神社や市杵嶋神社に改名された上で、合祀先の神社へと遷されたのではなかったか。二階堂地区にもため池が多いので、こうしたこの地区の合祀社に多く見られる厳島神社・市杵嶋神社も、かってはその付近の池に祀られていた弁財天であったと考える。

 その場合、春日神社の境内社である厳島神社も、その付近にある池と関係深いものであったろう。ただし、石灯籠の記年から言って、明治以前から本社である春日神社と対等に祀られ、並列祭祀が行われているのだから、ただの弁財天ではなく特別な由緒があったのではないか。
 すでに見た通り、『奈良県山辺群誌』にある伝承で菅田ヒメは、菅田池と関係づけて伝承せられている。また、この祭神が出現した地点は、すでに見たとおり春日神社(厳島神社)の鎮座地ふきんと考えられた。してみると、さっきも言った通り、この厳島神社こそ、かってこの池の水辺で菅田ヒメを祀っていた式内社、菅田比賣神社の後裔社であるという推測が頭に浮かぶ。それが後世になり、水辺に鎮座し、しかもその祭祀が池に関係していることから、水神格をもつようになり、さらに祭神が女神であるため、弁財天信仰が習合されて現在に至ったのではなかろうか。

 いっぽう、式内・菅田比賣神社「二座」のうちの、もう一つの祭神については定説がない。有力な意見として、それが菅田首の祖神、天目一箇命であるというものがあるので(『特撰神名帳』など)、とりあえずこの説に従っておくと、厳島神社と一緒に祀られている春日神社も、もとは菅田比賣神社のもう一つの祭神、天目一箇命を祀っていたのではなかったか。それが現在のように春日神社になった経緯を、またまた当てずっぽうで言うと、鎌倉期の当社の鎮座地いったいには菅田上庄・菅田下庄という庄園があった。この荘園は興福寺一条院の所領であったため、その頃、興福寺の鎮守である春日大社の勧請を受けることになり、社名が「春日神社」になるとともに、祭神も天目一箇命から天津児屋根命に変更されたのではなかろうか。
 なお、じっさいに『奈良県山辺群誌』は当該春日神社について、天久斯麻比止都命(『神撰姓氏録』に登場する天目一箇命の異表記)を祀ったものであろうと述べている(ただし、根拠不明)。

 以上のようなことから私は、式内・菅田比賣神社の後裔社は、この春日神社(と厳島神社)ではなかったかと考えている。が、では、「式内・菅田比賣神社は、信田宮(=現・菅田比賣神社)を称している」、とあった『大和志』の記事はどうなるのだろう。同書には、信田宮をこの式内社の後裔社とする根拠については何も記されていないが、さりとて、このような伝承が生じたからには、信田宮が式内・菅田比賣神社の後裔社とされるそれなりの理由があったに違いない。そこで、またまたまた当てずっぽうだが、これについては次のようなことを考えた。
 菅田比賣神社とペアになって祀られている菅田神社の鎮座地ふきんには、『宝剣子狐丸』にあったように狐の母子の物語が伝えられている。だが「狐の母子」と言えば、浄瑠璃で有名な『葛の葉(信太妻)』の説話が連想されるだろう。そしてこの説話の舞台は、「恋しくば尋ねきて見よ和泉なるしのだの森のうらみ葛の葉」の歌で知られる「信太の森(しのだのもり)」である。おそらく、この「信太の森」の「しのだ」から「信田宮(しのだのみや)」のことが連想により結びつき、信田宮<Cコール式内・菅田比賣神社≠ニいう等式が発生したのではなかったか。また、信田宮の祭神は伊豆能賣神で女神であり、その旧社地はやはり大きな池の近くにあった等(※1参照)、当社には春日神社(あるいはその境内社の厳島神社)との共通点が多かった。そしてこうしたことは、この混同をいっそう助長したと思われる。

 蛇足だが、この春日神社を式内・菅田比賣神社の後裔社とみた場合、私は次のようなことを考えないでいられない。
 菅田比賣神社と対になっている菅田神社だが、『大和志料』が転載した古地図には、現社地の南方、宮堂集落の北方に塚が記してあって、そこのところに「菅田神社古跡トモ山伏塚トモ云」と記してある。『式内社調査報告』の大矢良哲は、この山伏塚について、「この山伏塚は、いま近鉄天理線の南の池の内にあり、行者塚と呼ばれている。現在、かっての古社の跡は不明であるが、一応、山伏塚付近の現在佐保川左岸で、近鉄天理線が佐保川と交差するあたりに考へられる。」と述べている(※5)。旧社地とされる山伏塚(=行者塚)が池の中にあるとすれば、かっての当社も池畔に鎮座し、その池はかっての菅田池の一部であったかもしれない(※6)。
 話は脱線するが、そもそも一夜松の伝承で、男の姿が水面に映ったので女が後を追って身投げしたという水面も菅田池のものではなかったか。だとした場合、このような『木の上の男が、水面に姿を映して発見されるモチーフ』がここに附会されたのも、菅田池=ィすがた池=ィ姿池≠ニなり、そこからの連想が呼び水になった可能性もある。

 まぁそれはともかく、菅田神社も菅田比賣神社と同じく、菅田池の池畔に鎮座していたとすれば、両社はこの池をはさんで向かい合いながら鎮座する夫婦神であったことになる。だが、だとすればそれは、わが国の古い神社に見られるいたって類型的な祭祀のありようなのである。すなわち、信州の諏訪大社が、諏訪湖を挟んで上社と下社があり、前者には建御名方神、後者にはその后神の八坂刀売神が祀られていることや、武州の氷川神社が、やはり見沼という沼のほとりにそれぞれ本宮と女体宮が祀られており、これも夫婦神となっていることを想起させるのだ。

 『千載和歌集』は下にある、待賢門院安芸の歌を載せているが、『大和志』はここに登場する姿の池≠、菅田池に比定している。

 恋をのみ姿の池に水草ゐてすまでやみなむ名こそ惜しけれ (巻十四858)

この比定が正しいとすれば、あるいはこの恋歌の作者は、菅田神社と菅田比賣神社の神婚にまつわる伝承を知っていて、そのイメージを念頭にこの歌を詠んだかもしれない。



H17.12.25

     






【コラム】菅田比賣神社・菅田神社・春日神社











※1  信田宮について、志賀剛は次のように述べている。

「元来この式社は筒井と来たの丹後庄との間の池の東にあって篠田社といった。旧址は今は竹林が少しあるだけであるが享保の頃まではこの森の中にあってなかなか立派であっ。この篠田の池は古代は湧水池であったらしく、伊豆の宮(和泉の宮か)ともいって、筒井一○か村の「水分(みずわけ)」を行った記録がある。昔はこの池を吸い上げると筒井村全村が干上がったとのことであるからこの「水分」の慣行が成立したのであろう。(『式内社の研究』第二巻)p96」

「県庁の「古社沿革概略に、元社小字篠田、氏子一〇か村、相応の大社なりしが永禄天正の兵火にかかる(この頃、筒井順慶が筒井村に環濠集落を造りこの式社をここに移したものらしい)。享保年間になりて一〇か村離郷し、遂に今の地に移るとある。『同書』p96」」

※2  菅田神社の鎮座地には、「祭神が降臨した際、一夜にして松山になった」とか、あるいは、「女から逃げた男が松の木に登ると、一夜にして大木になった」とかの伝承がある。当社の鎮座地の字名は「一夜松林」であるが、こうした伝承にちなむものだろう。中世のこの辺りには「一夜松庄」という庄園が開けていたので、この伝承はなかなか古いことが分かる。

※3
※4  この春日神社については、志賀剛も『式内社の研究』で触れている。ただし同書は、

1.  現・菅田神社には、祭神が南から来たという伝承があること
2.  現・菅田神社にある元文二年(1737年)の石灯籠に菅田村≠ニ記銘があること、したがって、元は当社が菅田にあったことを暗示していること。
3.  春日神社が菅田にあること。

等の理由から、この春日神社を式内・菅田比賣神社ではなく、式内・菅田神社の後裔社に比定している。
 しかしながら、1については菅田神社の祭神の所へ、菅田比賣神社の祭神が通婚していたという伝承を誤解したものと思う。2については、── これは志賀氏自身も言っていることだが、── 菅田神社の石灯籠には「八条村」と彫られたものもあり、その年号は正徳元年(1711年)で、上記の「菅田村」と彫られたものよりも若干古いのである(八条村は、菅田神社の現社地がある八条町のこと)。ということで、私は春日神社は式内・菅田神社ではなく、式内・菅田比賣神社の後裔社ではなかったかと考えている訳だ。

 なお、同書では奇妙なことに、この春日神社のことを終始、「小菅田神社」と呼んでいる。載っている写真などからして、同書の言う「小菅田神社」が春日神社のことであるのは間違いないのだが、俗称であったとしても、春日神社がそのような名で呼ばれているならば興味深い。なお、ゼンリンの住宅地図は春日神社を「石上神社」と表記している。また、別の地図では「石神神社」と表記している例もあった(「石上」→「石神」の変換ミスか?)。ちなみに私が当社のことを「春日神社」と呼んでいるのは、『奈良県史5神社』や『天理市史』に基づいている。

※5  『式内社調査報告』の言うとおり、菅田神社南方の近鉄線路のすぐ傍らには三角形の池があり、また、池の中に島状になった塚が1つ見られた。ただし、近くで耕作中の人に聞いたところ、この塚は消波用のもので、「神さんと関係があるようなものとは違う。」とのことだった。その方は「前にもそんなことを尋ねて来た人がいたがなぁ…」と訝しがっていた。また、付近には「山伏塚」とか「行者塚」という名の塚はもちろん、何らかの塚じたい、あるような話は聞いたことがないとのことだった。この方の証言だけで、同書の記述を覆せるとは考えていないが、一応、記しておく。
 なお、この池自体もそれほど古いものではなく、池名も「新池」と言うのだとのこと。とはいえ、池が出来るくらいだから、昔から水はけの悪い湿地だったのではないか。、新池じたいの築造年代が古くなくても、かっての菅田池がこの辺りまで広がって可能性はあるとおもう。

 なお、同書によれば当社が現在地に遷った時期は、八条町の旧座文書から、大永3年か、またはその直後と推測できるらしい。


※6  菅田神社はかって、近世には一夜松天神とか天満宮と呼ばれる神社であり、その祭神は菅原道真だった。当社は木像を神体としていたが、『天理市史』によれば、この木像はかって南菅田にあった菰池から出たものと言う(p682)。『奈良県山辺群誌』には、菅田池は菰池とも言ったとあるため(「往古菅田池ト申菰池共申所…」)、菰池とは、菅田池のことを指すらしい。この伝承も菅田神社の祭祀に菅田池とは結びつきがあったことを感じさす。



主な参考文献

『大和の伝説』 奈良県童話連盟修/
高田十郎編
大和史蹟研究会

『式内社調査報告』第二巻から
 「菅田比賣神社」の項
大矢良哲 皇學館大學出版部
 同「菅田神社」の項 大矢良哲  〃
 
『式内社の研究』第二巻から
 「菅田神社」の項
志賀 剛 雄山閣
 同「菅田比賣神社」の項 志賀 剛  〃
 
『奈良県の地名』 日本歴史地名大系 平凡社
 
『日本の神々』4から
 「菅田神社」の項
大矢良哲 白水社
 
『奈良県史5神社』
『天理市史』





2005.12.25





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