河野勲の岩国ノート

 〔9〕歴史 1983/12/11

“干拓地を安値で取り上げ”

 十二月六日、晴、午後は北東の風が南に変り小春日和のようだ。十五時から自転車で基地へいく。基地の北側の「中の土手」に自転車を置き歩くことにする。道のりは海岸の川口まで約十五分、川口から右に折れ海岸の堤防を突当たりのフェンスまで約十五分、往復約一時間運動には手ごろである。弾薬庫のところでKC130が頭をかすめて北へ発進、海上へ出て広島県の阿多田島と宮島の間の上空へ消えて行った。
 私は歩きながら基地の歴史を考える。もし基地がなかったら、いまの岩国はどうなっているだろうか。左手に見える帝人岩国工場は一九二六年(大正十五年)岩国に進出し、基地の格納庫の後ろに白い煙を出している東洋紡は一九三四年(昭和九年)に、帝人の北側に高い煙突が建つ山陽国策パルプは一九三七年(昭和十二年)に建設された。
 その翌年一九三八年(昭和十三年)に突如このデルタに日本海軍航空隊がつくられることになった。当時このデルタは川下村(岩国市は一九四九年に岩国町と近辺の四ヵ村が合併して市制をしいた)で、土地は肥よくで水田と養蚕が盛んで桑畑が一面に広がっていた。陸軍は二回にわたって農民の土地を無償に近い値で取り上げた。もし反対する者は非国民のレッテルがはられた。
 このデルタ地帯は、すべて干拓地で、私が自転車を置いた「中の土手」はその名残りである。古い資料によると、一六九三年に干拓に着手し、一七八九年には現在の正面ゲート、北ゲートまでの干拓が進み、一八四八年現在の海岸線までの干拓が完成した。いい伝えによると、潮止めの作業は大変な難工事で、干潮を狙ったわずかな時間におこなわれ女、子どもまで狩り出されたといわれる。
 帰りに滑走路の北側にくると、A6イントルーダーが二機轟音を立て南に発進し、海上に出て高度を上げながら左へ旋回、広島県から、韓国の方向へ消えていった。あのいまわしい戦争がなく、このデルタに基地がなかったら・・・。私は平和の大切さをつくづく感じる。

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