河野勲の岩国ノート

 〔10〕HARRY 1983/12/18

 

“占領軍兵は帽子をとらせ”

 ハバー、ハバーだったか、あるいはハーバー、ハーバーだったか、おそらく「HARRY」(ハリー=急げ)のことだと思うが、この言葉は私たち年代の者には忘れられない言葉である。 
 私は終戦のとき、内地にいたため九月十五日には復員した。MPの運転するジープが街を走りだしたのは間もなくだった。
 その年の十二月には中国地方は米軍に変わって英連邦軍が占領した。
 紳士づらをした英本国の兵隊、つばの広い帽子を被ったオーストラリアの兵隊、白で太いバンドをしたニュージーランドの兵隊、インドの兵隊は頭にターバンを巻いていた。また、スカートをはきリボンのついたベレー帽を被ったスコットランドの兵隊もいた。
 年も明け間もなく基地の修復が始まった。そのころはまだ戦時中の町内会(隣組)組織が残っており町内会を通して、各家庭へ基地のなかの使役が割り当てられた。割り当ては月に三、四回くらいであったか、部落には毎日トラックが迎えにきた。
 占領された基地のなかで働く、戦争に負けたとはいえ、あまり気持ちの良いものではなかった。とくに復員者である私たちは嫌であった。だからなにかと口実をもうけて拒否した。しかし、「もし割り当てられた日に出てこないと、MPがジープで連れにくる」といううわさが広がり、仕方なくトラックに乗ったものだ。
 基地に入り一列に並ばされる。その日によって兵隊はかわり、インド兵の指揮で作業したり、ニュージーランドの兵隊に使われる事もあった。
 日がきまって彼らは、作業にかかる前、私たちに帽子を取らせた。兵隊にいた者はいつも帽子を被っていたから、帽子を取ると顔と額の色が違うのだ。彼らはこうして復員者を選び出した。選び出された私たち復員者はきまって、ドラム缶の運搬や穴掘りなどの重労働か、糞焼きといった汚い作業をやらされた。
 なかでも、「エノケン」と日本人があだ名をつけたニュージーランドの兵隊がいた、彼はきまって青竹を持っていた。彼は作業に入ったら少しの休息もくれなかった。少しでも作業の手を休めるとハーバー、ハーバーといって青竹で尻をたたいた。
 先日も長兄に会い、この話をすると、「あいつは悪かったなあ。おそらく日本軍の捕虜だったのだろう」といっていた。

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