河野勲の岩国ノート

 〔48〕新グラウンド 1984/9/30

天皇にとられた土地が・・・

 九月十八日の中国新聞は、「米軍基地に新しい陸上競技場、日米親善スポーツ行事にも利用」の見出しでつぎのように報道した。
 「岩国三角町、米軍岩国基地に新しいグラウンドが完成した。陸上競技場の開設を二十三日、米軍、海上自衛隊、岩国市代表が集まり、記念競技大会を開く。陸上競技場は約二万四千平方メートル、これまで同基地北部に建っていたカマボコ型の兵舎を壊し、昨年七月から約六千八百万円の米軍予算で整備を進めていた。グラウンドは一周四百メートル(六コース)とサッカー、フットボール場。千人収容の観客席も完備している」、二十三日の競技大会はマスコミを通し一般市民の観戦を歓迎すると宣伝した。
 平和委員会のY氏と入場することにして私は十三時三十分ごろ自転車で家を出た。北ゲートを入ると、日本人ガードマンが三人とMPが一人いた。案内板にしたがってフェンスにそい、東へ下ると二階建ての兵舎のところを右折する。左側はグラウンドの芝生である。しばらくゆくと、後ろから声がする。振り返ればY氏だ。私たち二人は観客席に腰を下ろす。
 プログラムは相当進行しているようだ。女子四百メートル、男子百メートル、観客は八百人くらいが大半は米兵とその家族で日本人の一般観客は少ない。一万メートルのスタートが切られた。場内のアナウンスは英語と日本語でおこなわれている。十五時三十分ごろ、海自司令官、十六時すぎに岩国市長がくると放送する。
 中国新聞の記事にもあったが、私の目の前のりっぱなグラウンドは、一九八〇年の五月まではジェラルミン製のトタンでできたカマボコ型のお粗末は兵舎が立ち並んでいた。それが「思いやり予算」約二十四億をかけグラウンドの西側に建っている四階建て二棟のりっぱな鉄筋の兵舎にかわった跡地だ。
 私は米軍の基地の中から、金網を通して今津川の土手下に並ぶ農家を見る。
 先日の戦争展で「天皇陛下がみなに貸しておられた土地が、このたび必要になった。そのため返してもらう・・・」とTさんがささやいたことを思い出す(岩国ノートbS6「戦争展(下)」)。
 「天皇の土地」はいまは「日米安保条約」で米海兵航空団の最前線基地となっている。
 スタンドの後ろからジェット機のエンジン調整音がきこえてきた。

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