河野勲の岩国ノート

 〔45〕戦争展(上) 1984/9/9

“二度とあっちゃいけん”

 「岩国 平和のための戦争展」が九月一日、二日と岩国市のエムラ四階、イベントホールで開かれた。エムラ婦人服専門店は わが家のすぐ隣で、昼食に家に帰るほか二日間つめた。
 受付はエレベーターのところとホールの東側階段の上がり口に設けた。階段上り口の受付に私の娘が座ってくれたのはうれしかった。店のシャッターが開くのは午前十時、閉まるのは午後六時半である。宣伝はポスター百枚、ちらし二万枚、そのほとんどは中国新聞への折り込みと組織配布であった。
 呼び込みの宣伝カーは、前日の夕方と開催当日の二日間。宣伝は決して十分ではなかった。
 だが、それにもかかわらず入場者は受付で確認できただけでも千三百五十二人。そのほかにも相当の入場者があり入場者実数は千五百人をこした。これは一時間当たりにすると平均八十八人以上の人が展示場にいたことになる。
 実行委員会で総括はまだやっていないが、岩国で戦争展を開いたのは初めてであり いちおう成功したといえるのではないか。
 昨日、展示した「奉公袋」(兵役を終わり家庭に帰るとき持ち帰る袋で、表には奉公袋と書いてあり、裏にはふたたび招集されたとき持ってゆく物が箇条書きに書いてある)を提供してくれた人に返しにいった。
 「よかった。見ていて涙が出た。また開いてくれ。ほかに展示する物があるかもわからないから探しておく。戦争はいけんのう。二度とあっちゃいけん」といって私の手を固く握りしめた。
 この人は八十歳近い老人である。
 開催日の午後、隣の町 周東町からこられた老夫婦が「稲穂の入った手紙がない」といわれて陳列ケースを捜しておられる。主人が私に「いや・・・私が徐州(中国の地名)戦のとき、戦争のあい間にこの女房に当てて、中国でも稲穂がこんなに実っている、と故郷をしのび手紙の中に稲穂をはさんで送ったのを保存しておった。それが展示されていないので・・・」といわれる。さっそく陳列ケースを探した。あった。検閲済(兵隊が隊内や戦地から家族や友人に送るはがきや手紙は全部、部隊の人事係が読み、「軍隊は苦しい」とか「死にたくない」など書いていたら呼びつけられ「貴様は!」といってなぐられ訂正させられた)のはがきや手紙が多かったので展示品の陰にしてあったのだ。稲穂はいまでも芽を出すように生きていた。
 私は陳謝した。一枚、一枚のはがきや手紙は、それぞれ戦火のあい間に、暗い兵舎の中で、故郷をしのび、家族を案じて書かれていたのである。

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