河野勲の岩国ノート

 〔44〕戦争展準備中 1984/8/26

戦争の傷跡、遺品の数かず

 二十一日 水曜日、中国新聞の折り込みに「岩国 平和のための戦争展」のチラシが入っていた。
 開催日時は、九月一日、二日、十時より十八時半。場所はエムラ 四階イベントホール、展示の内容は次の五項目である。
    ○戦争と岩国戦災への道
    ○岩国の軍事施設と戦災
    ○岩国の原爆被爆者
    ○戦時下の国民生活
    ○基地の街岩国
 私も「戦争展開催」を呼びかけた個人・団体のひとりである。
 私は「基地の街岩国」を担当することになり、いまその準備の最中である。
 忙しい毎日だが、盆の行事は欠かせない。十三日には私の実家平田へ、十五日には妻の実家の川下へいった。
 仏前で手を合わせたあと、兄弟でビールのコップをかたむける。そのなかで戦争展の話を出した。
 「俺は腰に提げていた皮の鞄(かばん)と編上靴(へんじょうか)水筒を持っている」と長兄がいう。つづいて妹が「私は終戦になってすぐ広島の被爆者(当時は被爆者とはいわなかった)の看護のため日赤から招集された令状がある」という。
 十五日にも妻の里で話を出す。山県という家に養子にいった義弟が「うちには妻の父が戦死した公報がある」という。こうして話してみると、わずか私の身内のなかだけでも、まだ戦争の傷跡を残すものがいろいろとある。
 みんなでそれぞれの心当たりを探せば、きっと立派な戦争展ができるにちがいない。
 十五日、川下へ行った私にはいまひとつ目的があった。
  「岩国ノート」bQ8「基地に生きる」のなかで次のように書いている。
  「私は岡本さん(米兵に殺された)と同じような一人の婦人を知っている。彼女はいま六十四歳。もう働いてはいないが、朝鮮戦争、ベトナム戦争の硝煙のにおう米兵を相手にしてきた人である」。
 私は彼女に会って話したかった。
 彼女は妻の実家のすぐそばに住んでいる。ドアをたたく。かすかなしわがれ声が「どうぞ」という。彼女はベッドに横になっていた。突然の私の来訪に驚いた様子であったが用件を言うと、半身を起こし、
  「ありがとう。河野さん私も被爆です。あなたと話したいことは山ほどある。だが四、五日前に肺炎を起こして、こうして寝ている。きょうはとても・・・。よくなったら話したい」という。残念だが再会を約して、「元気を出せよ」といって別れる。

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