河野勲の岩国ノート

 〔39〕基地沖合移設 1984/7/22

最近次つぎと学校が、兵舎が・・・

 前回の「岩国ノート」で、米軍当局は「基地沖合移設」については、まったくノーコメントである。私はここに「基地沖合移設」のかくされた重要な一面があると思う、と書いた。
 そもそも「基地沖合移設」の運動が起こったのは、一九六九年六月二日、米軍のF4が九州大学構内に墜落したことが契機で、岩国でも基地撤去の運動が市民のなかに燃えあがりはじめた。
 そのとき、安保堅持、基地依存の立場に立つ人たちが「国際空港誘致」の運動、つまり基地を沖合に移設して四千メートルの滑走路を造る、米軍か岩国から引揚げたあとに国際空港にするという主張で、署名運動が始められた。危険な軍事基地よりは国際空港を選ぶのは当然である。署名は一万をこえた。
 それに併行するかのように、同年六月十四日、岩国市議会が「岩国基地移設に関する決議」をおこなった。決議文は次のようにのべている。
 「去る六月二日、米軍機墜落事故が発生した板付基地以上に工場、市街地に近接している基地を持つ岩国市民の恐怖と不安は日ごとつのっており、市勢においては産業振興の阻害ははなはだしく、経済界の不振は目をおおうものがあります。
 われわれは一日も早く市民の不安を解消し、民生安定確保と将来の飛躍的発展を念願してこの際、可及的すみやかに基地の移設に格段の努力をはらわれますよう強く要望します」
 その後、きょうまで十六年以上。その間、民間サイドの「沖合移設同盟」を結成、岩国市と周辺七町の連絡会議が発足し、一九七八年に自民党政務調査会基地対策特別委員会内に、「岩国基地沖合移設に関する小委員会」が発足。八一年「岩国基地沖合移設促進山口県議員連盟」が発足。これには民社、公明の議員も含まれている。
 この間、防衛施設庁は技術的には可能と報告し、前回でふれたように滑走路を千メートル沖合に移設することが適当であると結論づけた。
 山陽本線が基地正面ゲートの前の踏切を過ぎると、基地のフェンスは線路すれすれに走っている。
 フェンス内には最近、基地の学校や兵舎が次つぎに建てられた。もし基地を千メートル沖合に移設するのなら、当然米軍の建物は基地フェンスより千メートル沖に建てられるはずである。
 滑走路だけの移設は前回のべたように基地機能を保たない。
 この矛盾のなかに生まれるのは、「基地拡大」以外に答えはない。

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