河野勲の岩国ノート

 〔30〕特殊兵器(上) 1984/5/13

“満州の七三一部隊だ”

 五月十日、二十二時のANNテレビが、「松本清張、事件にせまる、帝銀事件と七三一部隊」を放映した。みられた方も多かったと思うが、ストーリーは〜
 「帝銀事件の用に毒物をなんの疑いもなくのますことができるのは、相当動物実験にくわしい者で『悪魔の飽食』で全貌が明かになった七三一部隊に所属していた者の犯行ではないか」といったあらすじであった。
 私は一九四八年(昭和二十三年)のはじめ、山陽パルプ(現在、山陽国策パルプ)に入社した。入社するまでの私は、復員者特有の闇屋、かつぎ屋、土方、なんでもやった。
 私は、兵隊に入る前、青年学校の柔道の補助教師をやっていた。そのころに知っていた先生が山パルにいたため、入社は案外スムーズにいった。
 三年か四年後だったか、Nという男が臨時工で入ってきた。彼は私よりひとつ年下であった。
 彼との話は当然「お前はどこにいた」にはじまった。「私は七三部隊に入った・・・」。「なに、俺も七三に入ったのだが、何中隊だ」。私は中部第七三部隊第六中隊に入隊したからだ。
 彼の声は小さくなった。「七三ではなく満州の七三一部隊だ」。
 その後彼は、兵隊時代のことはあまり話したがらなくなった。だがいつか、彼は私にそっと「七三一部隊というのは細菌戦部隊だ」といった。だが、『悪魔の飽食』に出てくる「丸太」とか「人体実験」のことは話さなかった。
 戦局が急に悪化しはじめたころ、日本は、細菌兵器や特殊爆弾を開発している、といううわさがあった。
 私は一九六二年のくれ、山口県安保共闘会議の代表の一人として中国へ招待された。その時北京で、「軍事博物館」を見学した。
 そのとき、朝鮮戦争の時、米兵が中国東北部に投下した、細菌爆弾が陳列してあった。
 また、一九六三年、日本共産党東部地区委員会が作ったパンフレットのなかに、「岩国にC・B・R学校」の見出しでこんな文章がのっている。

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