河野勲の岩国ノート

 〔29〕基地開放 1984/5/13

安保を祭り気分に包んで・・・

 五月五日、「子どもの日」。例年のように基地は開放日である。朝七時半ごろから、電車が着くごとに私の家の前は人の列ができはじめた。
 九時すぎ「広島被爆二世の会と広大平和委員会」の人たち約二十人がくる。
 私は、きょうの「基地開放」は「日米親善デー」と銘うっておこなわれているが「基地かくしのお祭り」である。このお祭りの裏に基地の本質と安保を十分につかんでほしい、と前置きをして、基地の性格、機能、核問題などを話し基地に向かった。
 すでに歩道は延々と人の列。車は山口はもちろん広島、岡山、大阪のナンバーがつらなる。
 北ゲートをくぐり右に折れ「思いやり予算」で造られた四階建ての兵舎の北を通りゴルフ場の横へ。「ヘエ・・・ゴルフ場まであるのか」。だれか驚いたようにいう。
 展示場に入った。まず自衛隊機のF15、US1、PS1、練習機や連絡機が並ぶ。
 「これがこの間落ちたPS1か」と大きな声が聞こえた。警備についている自衛隊員の顔が一瞬曇った。
 米軍機は、岩国所属のA4、A6E、F4、OA4M、沖縄の嘉手納からはF15、OV10、CH46、CH53ヘリ、韓国からはF16、A10など極東いに配備されているほとんどの主要機がきている。展示場は武装を取り外し そこにはガムテープが張られている。ただF15とA10は、一分間に六千発も発射できるバルカン砲が不気味に筒先を見せていた。
 外来機駐機場には米軍のP3C、KC130、C141が展示され機内を見る長い列がつづいていた。
 私はロープの張られたところから滑走路のはるか向こうに見えるMWWU1の建物を双眼鏡を回し見ながら紹介した。
 十四時から市民館で開かれた「へいわ村、別行動だった山大の人と交流する」。
 山大の諸君は時間の都合でバスで出入りしたので基地の風景もよくわからず「お祭り気分」「危機感が無い」など意見が出た。それに反し被爆二世、広大の方は「かくされている故に不気味だ」「お祭り気分の中に安保がかくされている」など意見が出され、交流が深められた。
 交流会は二時間過ぎまとめの意見がそれぞれ出された。
 被爆二世の一人から「先日オランダの学者の人の話を聞いた。その中で彼は『あす、あさって核戦争がおこったらあなたたちには責任はない。しかし、二年のち三年のち核戦争がおこったらあなたたちに責任がある』と話した。」といったことが印象に残る。

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