河野勲の岩国ノート

 〔18〕監視記録 1984/2/19

不破さんのアドバイスから

 一九七二年三月十六日。日本共産党の書記局長(現委員長)不破さんが、光市で開かれた演説会の帰りに、岩国基地を視察された。

 基地はベトナム出撃前で、あわただしく動いていた。とくにA6イントルーダーが数機 北に発進して、市中上空と旋廻していた。「通常は市中上空は飛ばないことになっているのですが、近いうちに何かあるのではないでしょうか」というと、不破さんが「動きを記録しておいたらいいですね」といわれた。
 いわれてみれば、私は基地の監視をもう十数年もやっているが、記録していなかった。そこで始めたのが「基地監視ノート」である。
 それから約十二年、手帳も二十一冊目、私自身よくつづけたと思っている。ある機会に広島の佐久間先生(広島県被団協理事長)に見せた。「河野君。これは貴重な記録だが、だれでもわかるように翻訳しておきなさいよ」といわれた。
 そういわれてみれば、この記録は私だけしかわからない。たとえばある日の記録は別項の通りである。

 これを文章にすると「七時五十五分、A4スカイホークが北へ発進海上へ旋廻広島方向へ。八時十四分、A4スカイホークが北へ発進海上へ旋廻南へ。八時三十二分、A4スカイホークが北へ発進海上へ旋廻南へ。八時五十九分、Z機南より侵入旋廻。九時七分、Z機南より侵入旋廻。旋廻機はA4スカイホーク。二十一時二十五分C130ハーキュリーズ北へ発進、海上へ旋廻南へ。二十一時五分、C130ハーキュリーズ北へ発進海上へ旋廻南へ」となる。
 私はこの手帳をいつもそばから離さない。たとえば食事のとき、会議のとき。米軍機が飛べばハシを置き、ペンを置き、時計を見て前記したような記号を書く。また自転車で走っているときは、時計を見て時間を記録しておいて、後で記入する。
 機種の識別は目撃すればすぐわかるが、家にいるときや夜などは爆音で判別する。
 私は戦争中、旧日本陸軍の高射砲隊に四年間、岩国に帰って三十九年、米軍機との付き合いはあわせて四十三年になる。この監視ノートがいつまでつづくか。岩国に平和の空がかえってくるまでつづけたいと思う。

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