河野勲の岩国ノート

 〔16〕ザ・デイ・アフター 1984/2/5

“岩国はその何日か前に蒸発・・・”

 一月二十九日、映画「ザ・デイ・アフター」をみにいく、入場者は意外に少なく、五十人くらいか、そのなかに米兵が十人くらいいた。
 私は昭和二十年九月十五日の深夜、復員列車で広島駅に入った。ホームの鉄骨は飴(あめ)のように曲がり、立ち残っている電柱は片方が真っ黒にこげ、電線が垂れ下がっている。街には明かりはほとんどなかった。
 私は神戸で連日空襲を受けた。落とされた爆弾、焼夷弾(しょういだん)は何千、何万発だった。だが一発の原子爆弾(当時は特殊爆弾と呼ばれていた)で、私の知っている広島はなくなっていた。
 兵隊の私が家に帰ったのに、妹は日赤の看護婦だったため、広島へ救援のため動員されていた。岩国は当時から広島の経済圏であり、まもなく「ピカ」でやられた、髪の抜けた人を街で見かけるようになった。
 その印象を思い浮かべながら映画を見た。率直にいって描写は弱い。またサイロからミサイルが発射される前に、「ヨーロッパでは戦術核兵器が使われた」という字幕が出る。なぜ「ヨーロッパは壊滅した」といわなかったのか。また大統領がラジオで、「ソビエトと休戦会談に入った。復興に立ち上がろう」と国民に呼びかける。しらじらしく感じられた。
 アメリカの一九八三年軍事情勢報告(一九八二年二月九日)には、「A4型機とA6型機は過去二十年間、海兵隊に核攻撃可能運搬システムを提供してきた」と明記してある。
 いま岩国基地にはA4型機が約二十機、A6型機が約十二機いる。もしアメリカで「ザ・デイ・アフター」(その翌日)が現実となったとき、岩国はその何日か前、蒸発しているだろう。
 私たちと一緒に映画をみた米兵は、どんな気持ちでいただろうか?岩国には日本政府の思いやり予算で造られた、一戸三千五百万円(土地は別)の住宅に、約千五百人の米兵家族が優雅な生活をしている。もし彼らの姿が一人も見えなくなった時、「ザ・デイ・アフター」、岩国市民は、いや日本国民は・・・。寒風の吹く街を私は家路を急いだ。

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