河野勲の岩国ノート

 〔13〕進駐軍 1984/1/15

昔の友達の言葉はありのままだった

 娘の敬子と歩いて平田(私の生家の在るところ)までゆくことにした。距離は片道八キロくらいだろうか。
 市役所前を通り「山手中央フードセンター」のところを左に折れ、錦川に沿って登る。大正橋から川下へ、川下デルタ(基地のある三角地帯)の先端から門前川の井堰(いせき)を渡る。さらに錦川を沿って登り、欽明路バイパスを横切り、竹林を過ぎ、地蔵尊のところを左へ折れる。
 まもなく昔の道に入る。この道は中学校に通った懐かしい道である。昔の梅林は数こそ少ないが古木を残している。甘い香りが少年の胸をくすぶったことを思い出した。
 道は坂になる。登りつめたところにトンネルがある。何年ぶりに通るトンネルだろうか。あのころは山をくりぬいた自然のままで地下水がポトリ、ポトリと落ちていたが、今ではコンクリートで固められ照明もついている。しかし人はほとんど通らないようだ。
 トンネルをぬけると平田である。私の子どものころの平田は、小学校は六年生までで、全生徒が七十人くらいだった。今では岩国市のベッドタウンで人口も一万を超すという。このように急激にかわった平田の中でも私の生家の付近はもっとも昔の面影を残している。
 男が畑を耕している。よく見ると二つ年下の大橋三郎君だ。「おーい。三郎さん」と声をかける。男はしばらく振り向いたままだったが、「おーい、イチャン」(私の子どものころの呼称)といって近づいてきた。
 二人は畑の岸にしばらく腰をおろし、昔の思い出や近況を話し合った。最後に、平田もずいぶん変ったが、この辺はいつまでもこのままであってほしいなあ、というと彼は、「うん、このまま静かな方がええが、今ごろは進駐軍がバイクで遊びにきてうるさい」とぽつんといった。
 「進駐軍」。まだこの言葉が残っていた。敗戦によって基地は占領された。占領軍は進駐軍と一般に呼称された。一九五〇年、サンフランシスコ条約と同時に結ばれた日米安保条約。進駐軍は駐留軍に変った。ただ変ったのは呼称だけである。川下には基地がいぜんとして在り、日の丸の飛行機に代わって白い星の飛行機が飛び、日本兵に代わって米兵がいまもいる。 
 「進駐軍」の言葉が案外正しいのではないか。

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