河野勲の岩国ノート

 〔12〕新年の基地 1984/1/8

戦争をにくむ心をあらたに

 一九八四年一月一日。晴れ。西の風弱い。昨夜の雨は途中から雪になったのか屋根には五センチくらい積もっている。
 十一時から妻と二人で親元へ年始回りにゆく。六十歳を過ぎても親元がある以上年始回りはかかせないだろう。母親は健在だかずいぶん耳が遠くなってきた。いつまでも長く生きてほしいと思うが、すでに八十五歳という。
 午後は妻の里へゆく。妻の里は基地正面ゲートから西へ約三百メートル、例にもれず旧日本海軍に土地を取りあげられた家である。しばらく義弟らと酒をくみ交わし、近況を話しあうが、酒にも飽いてくる。ぶらりと散歩に出るが足は自然に基地の方へ向く。米兵がくる。「ア・ハッピーニュー・イヤー」。「おめでとう」と返すと「オメデトウ、オメデトウ」とくり返しながら去っていった。彼らは正月を日本人ほどはしゃがないが、新しい年を迎える気持ちはかわらないようだ。正面ゲートの手前を左に折れてフェンスに添って北へ進むと、基地の中に赤い鳥居が立っている。鳥居の側に小さい石碑があってフェンスからよく見えないが、横文字で何か書いてある。
 一人の米兵が祈りを捧げている。何か。私は直感した。石碑の横には旧日本軍の防空壕がそのまま残っている。
 終戦の直前基地は激しい米軍機の空襲を受けた。その時直撃を受けた防空壕には数十名の日本兵が生き埋めになったという。間もなく終戦を迎えたが掘り出す人はいなかったという。救いを求める声が一週間もしたという。
 声はしだいに小さくなり後には小さな泣き声が聞こえたともいわれている。もしやその防空壕の跡ではないだろうか。私は思わず手を合わせた。人間が人間を殺すというもっとも残虐な戦争。二度とあってはならないことだ。しかし私たちの日本はふたたびその方向へ一歩一歩進んでゆく。しかも核戦争の脅威を背負って。私は新年を迎え基地のフェンスごしに手を合わせ、戦友よ「安らかに眠ってくれ、過ちは二度とくり返させない」と誓う。

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