河野勲の岩国ノート

 〔11〕錦帯橋 1983/12/25

滑走路づくりに川下のバラスが・・・

  「岩国へいわ村」が作った「だから、いま」という歌の一節に
     「あなたは知っていますか 
      ベースのために
      錦帯橋が流されたことを」とある。
 錦帯橋は岩国の人の心である。だから私たちは、出身地を聞かれたときよく、「錦帯橋のある岩国だ」と答えることがある。春の桜、夏の緑、冬の雪景色も美しい。一年くらい前になると思うが、NHKテレビが教育番組で、全国の有名な橋を連続して紹介したことがある。もちろん錦帯橋も出た。印象に残っているのは、「錦帯橋は美しさと共に建築工学から見ても貴重である」といったことだ。
 錦帯橋は架けられて三百年の歴史を持っている。もちろん木造だから、適宜架け替え工事はおこなわれたが、一度も流失したことはなかった。
 ところが、この橋が一九五〇年の秋台風で流失した。三百年にわたって一度も流失したことのない橋が、なんで流れたのか。その原因が公に発表されたのは、いまから十二年ぐらい前のことである。
 「早稲田大学の青木教授が、錦帯橋が流失した原因は、基地の滑走路を造り替えたとき、錦帯橋の川下のバラスを、大量に採取したからであると発表した」と中国新聞が報道した(私はこの記事を切り抜いたが、どうしても見当たらない)。
 日本海軍航空隊の頃の滑走路は、現在と違って、ほぼ東西に走っていた。この滑走路が一九四七年現在のように、南北に走るように造り替えられた。
 当時は、ダンプカーは初めて見る車だった。そのダンプカーがバラスを満載して、錦帯橋の下から錦川の堤防を、砂煙を巻きあげ基地までピストン輸送をした。
 そして一九五〇年の朝鮮戦争。新しく造り替えられた滑走路から、爆撃機や輸送機が飛び立っていった。五機飛び立った爆撃機は、三機になって帰ってきたり、片方のエンジンが止まったまま帰ってくるのもあった。
 錦帯橋の袂(たもと)に、由来を書いた大きな立札が立っている。立札には、台風で錦帯橋が流失したことは書いてあるが、基地の滑走路を造り替えたとき、川下のバラスを大量に採ったからとは書いていない。
 F4ファントムの爆音が、二機北へ発進、海上へ消えた。

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