*岩国基地の歴史

  昭和十三年に、当時の岩国町長永田新之允の時に,海軍航空隊の新設飛行場として基地ができました。それに至るまでに、帝人(当時帝国人造絹絲梶jが大正十五年、東洋紡(東洋紡績梶jが昭和九年、山陽パルプが昭和十二年に進出してきました。

  この川下(岩国市内の地区)も、「このままの農地では駄目だ。どこかから、工場を誘致せねばいけない」という気運が生まれた中で、藤井村長(藤井寿三郎)刺殺事件(一九三二(昭和七)年三月)というのが起こりました。おそらく工場誘致に伴うさまざまな利害が重なってのことでしょうが。そうしたゴタゴタでもめているうちに、初めは山陽パルプがここ、つまり川下の沖にも進出しようとしていたのを、室ノ木(岩国市内の地区)の有力者が山陽パルプを現在の飯田町(同)に誘致してしまったのです。川下にはその後に、今、言った海軍航空隊の基地が来たんです。だから、岩国が本当に平和都市であるのか、基地の街であるのかの本当の境目が、じつは、そこにあったわけです。
  これは当時の地図ですが、当時は現在のような広大な土地を海軍は取ってはいないんですが、その後、大蔵省が現在の基地に相当する広大な土地をごっそり買い上げたわけです。これをどれくらいの値段で買い上げたかというと、ここに当時の領収書がありますけれど、一坪三十五銭。二回にわたって買い上げておりますね。これは、第二次の支払いです。
  なぜこんなものを私が持っているかと言いますと、今から約10年前に「戦争展」というのを駅前のエムラ(岩国市内の服飾品店)でやりました時、これが見つかりまして、陳列しておりました。岩国は市制を敷いたのが昭和十五年なんですよね。昭和十三年に海軍が取り上げたわけですから、まだ川下村の時代ですね。これは十七年ですから、もう市になっております。この領収書は、その時代のものです。川下のある人がこの領収書を見て自分の父親に聞いたところ、広島県の呉から海軍のかなり上の方の人が突然やって来て、該当する農民を当時の川下村の役場の二階に集め、「天皇陛下が長い間お前たちに貸しておられた土地が、このたび必要になったから返してくれ」って。今だったら笑い話なんです。当時は、それが当たり前だったんですよね。それを聞いた農家の人たちは、びっくりしますよね。会場が騒然となったそうです。そしたら憲兵が来て、「黙れ」と怒鳴ったらしいです。当時だからシンとなります。この領収書が、その時のものなんです。そういう意味では貴重なものです。こういうことについては、それを裏書きするような話が、この川下へ来ましてからもいろいろとあります。私の家内も、じつは川下の百姓の娘です。もう家内も来年七十になりますが、そういうことは知らないんです。当時、土地を取り上げられても、家内は「もう、百姓しないで済む」と、嬉しかったと(笑)。 
  だいたい私の記憶では、補償は一人当たり七〇銭から一円ぐらいではなかったかと思うんです。当時、人夫の日当が一円です。そういうことですから、今に換算しますと、どういうことになりますかね。今では立派な一等地ですから、今ありましたら大変な価値ですね。
  それで、今でも登記の切り替えの済んでいない所がありまして、かなりの人が該当します。私の家内の方も登記が済んでいないものですから、防衛庁施設局の方でも整理がつかなかったのを、約10年前ぐらいに、この書類を作って登記済みにしたような次第なんです。なにせ昔のことですので、今となっては書類が整わず、整理ができないのでしょう。でも、該当者がこれだけおります。今では世代も代わって、売り渡した人の孫の時代になるわけです。その孫も、そろそろ子どもがおるようなほどに時間が経過していますから大変なことです。そうした該当者が10人いるわけです。まあ、いわゆる相続人です。だから、この10人がい一人欠けても国は金を払いません、というわけなんです。だから、これを法律の先生にも相談して「これは争い(訴訟)にならんですかね」と言ったら、「それは無理だろう」と。「いったん、もらっていることはもらっている(領収書がありますからね)。反対しても、この10人が全員反対できますか」と。中には、お金がすぐほしいという者もいますし。一人当たり約三〇万円ぐらいになりましたからね。まあ、結果的には、こういう書類だけが残っているという具合です。まあ、そういうのが、たくさんありましたよね。まあ、どうにかこうにか書類が整ったんですが、それで川下の土地取り上げの書類上の始末がついたというわけなんです。

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