山口県史 −史料編− 現代2 
県民の証言 聞き取り編  (三.社会の中で)より
  
<米軍基地を見つめて −岩国平和委員会の活動−>

語り手 河野勲/期日 1994年(平成6年)3月11日


*「平和友の会」から「平和委員会」へ

  生まれは大正十年十一月十四日ですから、満七十二歳になります。平田(岩国市内の地区)で育ちまして、商工学校を卒業し、兵隊に入るまで義済堂(岩国市内の繊維会社)におりました。入隊したのは中部第七十三部隊と言って、昔の高射砲第三連隊でして、兵庫県におりました。B25によって初めて日本が空襲を受け、川崎、横浜、そして神戸もやられましたので、神戸の高射砲陣地に終戦までおりました。終戦後は食べることが第一ですから、いろいろなことをやりましたが、昭和二十三年に今の日本製紙(旧山陽パルプ)に入りまして、五十七歳で定年になるまでおりました。

  平和委員会について申しますと、初めは平和委員会という名前ではありませんでした。前身は一九五三年に「平和友の会」というのができて、朝鮮戦争に際してストックホルム・アピールが全国的に展開されました。朝鮮戦争でアメリカ軍が核兵器を使うことを阻止するのが、ストックホルム・アピールです。その中で「平和友の会」が「平和委員会」に徐々に改称されていったわけです。そして、全国に平和委員会として統一されましてから、岩国で岩国平和委員会が全県的組織として統一されたわけです。私は最初から平和委員会の会員ではなかったので結成された時期はちょっと分かりませんが、この経緯について一番よく知っておられる方に、防府の生雲さんという方がおられます。

  だけど原水協(原水爆禁止岩国・玖珂協議会)の会長は、当時からずっと務めておりました。安部一成さんが会長時代に平和委員会の中に思想的な対立がありまして、ほとんど壊滅の状態になりましたので、一九六四年だったと思いますが、改めて私が会長になって、岩国平和委員会として、まあ、どうにか再建をして現在に至っております。活動の点では、岩国基地がありますので、どうしても基地問題が大きな課題になりますし、一応、今まで運動の火を絶やさずにやってきました。

  私個人の基地とのつながりという点で参考までにちょっとお話ししますと、山口県には、ご承知のとおり英連邦軍が駐留しておりました。初めは米軍が占領し、その後、英連邦軍が来ました。基地は爆撃を受けておりましたし、終戦直後のどさくさで略奪もあって、相当破壊されていました。そこで基地の再建に当たって、当時は旧町内会の組織がまだ残っていましたので、町内会に、いわゆる使役が月に三回か四回ほど割り当てられました。町内から何名か使役の要員を出すのですが、その頃はまだ復員者も数が少なく、ご主人を戦争で亡くされた家なんかは出すことができませんし、まだ米兵が怖い時期ですから、どうしても、私のような復員者が出ることになるわけです。私などは体も大きい方でしたから、ドラム缶の運搬とか、場合によっては便所の掃除といった、重労働や汚い作業ばかりやらされました。

  「ハバー、ハバー」(hubba−hubba/早く、早く。占領軍兵士が持ち込んだ造語。もとは太平洋諸島地域の言葉)と言って、鞭を持ってケツを叩かれ、まさに捕虜待遇だったのでいやでしたが、戦争に負けているんだから仕方がなかったわけです。
 今では覚えている人も体験した人も少なくなっているでしょうが、この使役が定着していってからしだいに待遇もよくなっていき、帰り際には米を二合くれるようになりました。一回当たりの使役の人数は、平田ではトラック一杯ぐらいだったですから、世帯総数の一割ぐらいになるんでしょう。トラックに乗って立ったままで行くわけで、毎日のようにトラックは来ておったと思います。これが、そうですね、昭和二十三年頃まで続いたわけです。基本的な施設の建設や修復が終わったあとでもいろいろ仕事があり、たとえばボイラーの缶焚きとか、トラックの運転などもありました。
  命令系統という点では、駐留軍の指示が岩国市の渉外部に来て町内会に割り当てられる、という形のようでしたが、基地内の使役の監督は占領軍がやっていたので、作業には占領軍の兵隊がついていました。
  私個人は、その後、山陽パルプに入り、労働組合の方をやることになりました。もちろん企業内組合なんですが、しだいに全国的組織、つまり産業別組織とのつながりを持つようになってくる。産業別組織では、紙パ労連(全国紙パルプ産業労働組合連合会)ですが、総評(日本労働組合総評議会)に」加盟する中で、だんだん組合員も変わってきますよ。特に安保の時は。しかし、表立った活動というのは、当時は政令違反で取り締まりがありましたから、基地反対闘争というのはあまり表面に出なかったです。その後、六〇年安保の時に初めて基地との結び付きが出てきたような次第です。
  講和条約と同時に安保条約が結ばれておるわけですが、初めは安保というものを意識的に取り上げるという情勢ではなかった。そして、自然にこの安保に対する理解が深まっていって、六〇年安保闘争の時に基地との結び付きがはっきりして、個人的にも思想的にも高まっていった。当時は、原水協運動、その前にありました三池闘争、そして翌年から世界大会が開かれておるわけです。その前にも平和行進が、日本山妙法寺の人たちによって行われていました。だから平和行進のデモが、基地に対して行われたのが安保の中です。確か、六一年のことだったと記憶しています。 

  そういう流れの中で、岩国の場合は基地闘争と、この平和運動というのが固く結び付いていったという特徴があるわけです。六〇年安保の以前でも、基地の拡張で二回土地の取り上げが行われた際に「土地取上反対」という形で、平和友の会での取り組みがありました。当時、全国的にも、たとえば砂川事件とか内灘事件といった反基地闘争というのがありました。岩国の場合の二回の土地取上げのうちの一つは、現代の弾薬庫のある所の一部。それから最近返還された引込線を敷く所だったです。しかし、これらは耕地ではありませんでしたから、あまり大きな闘争にはなっていないんです。全国的には大きな闘争がありましたけどね。

  平和委員会といっても、当時は人数は岩国の場合だったら少数だったですね。今年中には100人を突破しようということを考えているわけですが、岩国だけでなく、山口県全体は遅れていまして、平和委員会そのものも全国的にはビリから数えた方が早いような状態です(東京辺りになりますと各区にあるのですが)。岩国の反基地闘争が高揚をみせた一九六四年頃は、10名ぐらいのところだったと思います。

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