まず我先にと口を開きかけた倉田を制し、ずずいと森下が二人の前に進み出た。
「おい、進藤!これはどういうこった?!」
非常に迫力ある押し出しに、若い二人は思わず一歩下がってしまう。
「まあ、先生、落ち着いて。ねえ、進藤君。こんな恐い先生じゃ話もできませんよね?」
とりなすのは白川だ。コクコクと張子の虎のように首を振るヒカルの側頭部を、緒方の発言が直撃、流れ弾はアキラにも被害をおよぼした。森下には言わずもがなだ。
「ご存知なかったんですか?森下先生。確か進藤は先生の研究会に参加していましたよね?これは意外だ。ああ、そうだアキラくん。市河さんが、キミの言うように和菓子以外も置こうと思うから、何がいいか訊いておいて欲しいと言っていたよ。アキラ君は打っている最中は物を口にしないが、進藤は腹もすくだろ。よかったな、この際何でも好みのものを言ったほうがいいぞ。おまえのために用意するんだからな。大切に思ってくれる人がいるっていうのはいいな、進藤」
話の行き先に興味はあるが、その野次馬根性のせいで、もしかしたらとんでもない目に会うかも?と、その他大勢の棋士たちは危ぶみ始めた。なにしろ室温が下がる程の冷気を感じるのだ!しかもそれは森下とアキラから出ている。
「ん?どうやら今はこの話をするのに適当ではなかったようだな、すまん」
ヒカルは既にパニック寸前、アキラは緒方の故意な不用意発言に怒り爆発寸前。
「どうしたどうした?ん?森下君。何を怒っとる?」
桑原本因坊の登場は、一瞬場を和ませた。
「小僧と塔矢の小倅のことを知らなかったのは、小僧のせいじゃなかろう?現にワシは知っておるし、緒方君も知っておる。ま、当然、塔矢行洋も知っておろうな」
そう、たったの一瞬・・・。
今ではもう、吐く息が白いのではないかと思うほどで、森下の周りなど、冷気が蠢く様が見えそうだ。
「な、なぜ、行洋まで・・・」
「不思議じゃなかろ?新初段シリーズを逆指名したくらいじゃからの。ん?お前、それも知らんかったのか?そう言えば見にも来ておらんかったの。もちろんワシは行ったぞ?」
ワシは小僧の追っかけじゃからの、と至極機嫌のよい声で笑うと、桑原は登場と同様、何事もなかったように去っていった。
「なぜ?なぜなんだ、進藤!オレではそんなに頼りにならんのか?!なぜオレに相談せん!」
髪をかき乱し身をよじる森下は、昔話に出てくる黄色い角を生やした赤や青の体をしているアレのようで、ヒカルは今の適切とは言えない発言にまで気付く余裕がない。
― アレって?いや、そんな。いくら師匠じゃないって言っても、お世話になっている先生をオ○だなんて、そんなこと言えないじゃん ―
ヒカルの頭はもう走っているのか回っているのか、本人にも皆目わからない。
― だいたい、塔矢門下と競わせたいのはわかるし、一緒に打ったり、検討しているだなんて知られたら、うるさそうだとは思ってたけれど・・・でもこれって、ちょっと、ううん、かなり変 ―
そこまでは考えても先に進めず、冷静に対応して欲しかったアキラは、いまだ白スーツの攻撃から立ち直っていない。
誰か、誰か助けて!!ヒカルの目がその他大勢の棋士に助けを求めた、その時、待っていたかのように一歩、倉田が進み出る。
「わかってる、大丈夫だよ」
それだけ言うと荒れ狂う森下に近づき、肩をポンとたたく。髪をわしづかみにしたままゆっくりと顔を上げた森下に、ニコッと笑いかけ、二度三度、両肩をポンポンとたたいた。
「オレに任せて」
肺を刺すほど冷たかった空気はもう通常どおりの和やかさで、春の花の香までただよって来そうだ。そして、倉田の背には白い小さな羽根が (とても飛ぶことはできなさそうだけれど) 羽ばたいて見えた。
「気付いたのは、北斗杯メンバー最後の一人を決める対局のあった日なんだ」
その場に居合わせた棋士全員を大広間に座らせ、倉田は中央で話し始めた。
「オレ達は隣の部屋で検討していたんだけれど、その時はまぁ、同じ歳だしな、位にしか思ってなかったんだよね。ん?ああ、塔矢のさ、話し方が違うから。オレが知る限り、相手の年齢とか関係なく丁寧なんだよね、塔矢って。でも進藤にはそんなことなくって、最初からタメ口で。でさ〜、その後にあった説明会の時とか、今度はぜんぜんしゃべんないんだよ、二人」
オレからちゃんと説明してやる、大丈夫、オレわかってるから、と言った倉田は、さすが日本チームの団長、頼れるなぁとヒカルとアキラに思わせるだけの貫禄があった。
「仲悪いのかな?困ったなぁって思ってさ、ほら、オレ団長だし。それから気になって、二人と仲がいい人に色々聞いたんだ。そしたらさ、口をそろえて最近付き合い悪いって言うんだ、二人とも」
進藤側の“仲がいい人”は誰だろう。同期の彼かな?いや、進藤だったらたくさんいるから悩むこともないだろう。自分側は逆の意味で悩む必要がない。きっと芦原だろうなと、簡単に想像できてしまうことにアキラは苦笑した。
「進藤、今まではよく対局後検討しあったり、昼一緒に食べたりしてたのに、最近じゃ誘ってもいつの間にか一人でいなくなってるって。心配じゃん?だから先週の昼、後つけたんだ」
ガッ、ゴロッ、と何が起きたのかよくわからない音がして、部屋中の棋士がそちらを見ると、ヒカルが異様な格好で転がっていた。
「あ、後、つけたぁ?!」
どうやらあまりの発言に驚き立ち上がろうとしたらしい。しかしやはりあまりにも驚いていたので足がもつれたのだろう。それで、ガッ。そのまま転げて、ゴロッ。
それでも手で上半身を起こし、口から唾を飛ばし、大声で倉田に確認する。だが、そんなヒカルの必死の非難めいた声色など、倉田には届かなかったらしい。
「そうだよ。そしたら進藤一人で結構離れた店まで歩いてっただろ?その時はさ、お気に入りの店を知られたくないのかな〜って思ったんだよね。あ、それから塔矢って、対局中って食べないんだってネ。だから大抵打ち掛けの時は休憩室で本を読んでるのに、最近どこへ行ったのかいないって聞いてて、それも心配だぁーって思ってたらさ」
そこで倉田は言葉を切り、まだ体勢を整えられないヒカルと、唇を噛み、膝の上で手をきつく握り締めているアキラをじっと見た。
二人はもう、倉田が何を言いたいのかよくわからなくなっている。いや、今のこの話題の続く先は勿論知っている。倉田は見ていたようだし、自分たちのことなのだから。しかし、倉田の話の落ち着け先がよくわからないのだ。
“わかってる”のなら、もっとさらっと言ってもいいのでは?むしろそうして欲しい。もっとズバッとスパッとはっきりさっぱり。
なんか回りくどくね?とアキラを見やると、何のつもりだろうね?とヒカルに返してくる。倉田は目で会話する二人から視線をそらした。
「・・・来たんだ、塔矢、後から。で、当たり前に進藤の前に座ってさ、一緒に楽しそうに話し始めた・・・」
聞いている者は誰一人口を開かず、空気が張り詰めている。
いいじゃん別に!ライバルだと楽しそうに話しちゃいけない訳?!とはヒカルの心の中の弁。ボクが人と楽しそうに話すのはそんなに珍しいことなのだろうか?と自問するアキラ。ヒカルに聞こえていたら、突込むところが違うだろ?と呆れられていただろう。
そんな二人の心をよそに、倉田はなんだか苦しそうだ。
「しかもさ、戻る時も塔矢が先に出て、五分位かな?後から進藤が帰るんだよ。もうさ、一緒になんていませんでした、って感じで。棋院に付いて顔合わせても無言だし。オレもう辛くてさ」
・・・何?辛い?なんで?何が?この時ばかりは二人全く同じことを考える。大体、どうしてそこで“オレもう辛くてサ”となるわけよ?
「見届けなくちゃって思って、終局後もつけたんだ。ううん、今度は塔矢の方。進藤は先に帰っちゃってて」
ぜんぜん悪びれずにストーカー行為を行ったと告白する倉田に、周りは、そうか・・・、とか、うんわかるよ、とか、二人には信じがたいことに、同意の相槌を返す。
「でも、行き先は塔矢先生の碁会所だったんだ。なんだ、指導碁かって思ったら、一階のエレベータの前で進藤が待ってた。さすがに碁会所じゃ目立って入れないから、その日は諦めて帰ったよ」
ヒカルは、その日は確か、4ヶ月ぶりに元名人の碁会所に行ったんだよな、と思い返していた。だから先に入らず、一緒に行こうと思って待っていたのだ。
「聞いたら、去年の秋、しょっちゅう二人で打ってたって。それに、プロになる前から、小学生の時からの知り合いだし、中学生の時はお互いの学校を訪ねたことだってあるって!塔矢は進藤と打つために中学の囲碁部にまで入ったし、進藤がプロになったのは、やっぱり塔矢を追ってきたんだって!それに今日だって。二人で会う約束してたんだろ?!」
感極まったらしい。倉田は一気に言うと、鼻をすすり上げ、目を瞬いた。
「オレ、応援するよ、進藤!塔矢!碁界はさ、古い世界だから、しきたりとか礼儀とかうるさいし、保守的なところがあるのは否定できないけど。でも、おまえ達なら乗り越えられると思う。ううん、乗り越えさせてやる!癪だけどさ、二人ともこれからの碁界を支えてくトップ棋士になるのは間違いないから。こんな、とっても個人的なことで、棋院にとやかく言われる筋合いはないよ!」
「・・・待て」
「そうか、そうだったのか。知られないように、辛い思いで隠してたんだな。行洋はともかく、桑原先生と緒方君が知っていたのは面白くないが、あの二人のことだ。ばれてしまって仕方なく打ち明けたんだろう?いや、いい、何も言うな。オレは一度面倒を見た人間を、途中で投げ出すような男じゃない。進藤、オレはお前の味方だ!相手に不満はあるが、お前がいいのならそれでいい。いいんだ」
「・・・だから、待てって」
噛み殺していた笑いを堪えきれなくなったのだろう。プッと吹きだした後、派手に笑い出す緒方に、ギョッと皆の視線が集まる。その隣には、いつ戻って来たのか、既に笑いで息が乱れた桑原がいた。
「知らなかったよ、“そういう関係”だったんだ?いや、純粋にライバルなんだと思ってた自分がカワイクて笑ってしまうな。ご存知でしたか?桑原先生」
「こりゃ愉快だわい。こんなことを知ったら、あやつめ発作を起こしそうじゃの」
あやつとは、当然塔矢アキラの父、塔矢行洋のことだ。
「んな訳ねーっての!!」
「馬鹿も休み休み言ってください!冗談じゃない!!」
事情を知っている二人と本人達に否定され、一挙に“二人の仲、後援会”と盛り上がっていたギャラリーは戸惑った。だって、ちゃんと聞いていたのだ。倉田の話は勿論、二人の検討中の会話、全部ちゃんと聞いていたのに!