対局を終えたアキラは、今日の対局者に深々と頭を下げ、オレも悪かったからと言って聞かないヒカルの謝罪も隣に聞きながら、ありがたいと思った。
一般対局室では人が集まり過ぎてしまうことは目に見えていたので、空いている対局場にお茶と碁盤を持ち込み、今日のアキラの一局を検討する。
そもそもアキラがあんな風にヒカルを呼び止めたのは、この一局を検討したかったからだ。アキラは白石を置きながら、よどみなく黒石を置くヒカルの指先を見つめた。
ヒカルは途中から、この対局を見ていた。アキラの笑いの波が収まってから、ヒカルは倉田に断りを入れ、そしてこの対局を見ていた。
「並べよう」
アキラが碁笥を引き寄せようとすると、ヒカルはその一つに手を掛け、
「両方だと大変じゃん。片方オレが並べるよ」
と蓋を開ける。
「お、黒か、おまえの方だな。オレこっちでいい?」
言いながらも、早速一手目を置いた。
自分が見始めたところまで並べると、この後は一度見ていることもあってヒカルの口数がぐんと増える。
「ホント、あんなに笑うとは、さすがにオレも思わなかったぜ。腹、痛くね?」
「そうだね、お腹より頬かな?痛いのは」
冗談を本気で返すアキラに、ヒカルは呆れ顔だ。
「痛くなるまで笑うなよっ!信じらんねぇ、おまえいっくらなんでも笑い過ぎ!」
「それくらい、いいじゃないか。こちらはもう降参しているんだから」
「なんだよ?それ?」
「キミには敵わないってこと」
「む、“碁以外は”とか付くんだろ、それ」
「察しがいいな」
「むき〜っ!」
他人から見たらほとんどじゃれ合いのようなやり取りが繰り返され、ようやく石を置ききる。それまでの砕けた雰囲気が一変し、二人がそろって居住まいを正すと、張り詰めた空気が震えて、音がするのではないかと思わせた。
「これって昨日の・・・だよな?だからか?」
「そう、どうしても気になって。キミの意見は・・・わからなくはないんだ、けど」
盤面には、昨日アキラが守り、ヒカルがノゾキの方がよいと言った、同じような場面が守りで展開している。しかし、その後の打ちまわしが昨日とは違っていて、自分が納得できる碁で打ち切りたいアキラの気持ちが現れていた。
「どうだろう?昨日見せた対局では、こうだったけれど・・・」
アキラが石を並べなおすのを、ヒカルはじっと黙って見つめているだけで口を開かない。いつもならぽんぽんと飛び出してくる意見や、そうじゃなくてと奪うように並べられた石に感心することも多いアキラだか、今日のヒカルは黙ってただ見ている。
「・・・うん、そうか、昨日のよりいいんじゃないかな・・・」
ようやく開いた口から出てきた言葉はそれだけで、アキラは少なからず落ち込んだ。だがヒカルが続けた言葉にはっとする。
「おまえさ、これ、今日打ってて気付いたの?・・・昨日帰ってから検討した?」
検討は、していなかった。
一人部屋で考えていたのは違うことで、本当に納得できたわけではないのに、ヒカルとの検討を見つめなおす余裕がなかった。
しかも、そのせいで今日はいささか寝不足ぎみで、こんなことは珍しいから余計に思考にうっすら靄がかかっているようで・・・アキラはいたたまれない気持ちになる。
「・・・昨日は、帰ってからは、何もしていない」
「なんかさ、おまえ、今日ちょっと変だぞ?タガがゆるいって言うか、んー、全体的にゆる〜って感じ?」
わかるかなぁ?ゆるゆる〜って感じ。だって馬鹿笑いしたりするし?などとブツブツ言いながら、ヒカルがお茶を差し出した。
「粗茶ですけど」
対局者用のお茶なのだ。来客用ではない。当たり前、というか、その挨拶はこの場ではいらないだろ?アキラはグルグルと回り始めた頭でそんな余計なことを考え、そんな自分にまたグラグラしてしまう。
「粗茶、だけどさ、ちったぁ頭すっきりするぜ?」
いつからだろう?いつから彼はこんな風に大人になったのだろう?
アキラは 『この道を歩く』 と言うために自分の前に現れた時のヒカルを思い出していた。
追って来いと言ったのは自分だか、一人の人間としては、彼のほうが余程前を歩いているような気がする。もちろん未だに失言は多いし、礼儀を知らない!とその言葉遣いをたしなめられたりもしているが、ふとした拍子にみせる表情は、自分などより余程大人だ。
そう、今も。
「うん、ありがとう。少し寝不足なんだ。そのせい、かな?」
アキラは素直に笑うとお茶を口に含んだ。
こういうときは、自分を飾らないほうがいい。虚勢や見得が必要な時もある、特に勝負師の自分達には。
しかし今はその時ではない。
そして、素の自分をさらけ出す方がよほど勇気のいることなのだと思う。
「昨日は・・・他に気になることがあって、手につかなかった。そのせいか、夜中に目が覚めてしまって。キミが気付くと言うことは、対局にも出ているんだね?今日の対局者には、本当に悪いことをしてしまった」
アキラが落ち着いた様子なのを見て、ヒカルは盤面の石をざっと寄せた。
「検討した割には思いつきっぽいし、本番対局中の閃きにしてはナンカ浅いんだよな。あ、けなしてんじゃないぜ?らしくないって言ってんの」
寄せた石を改めて並べ始める。
「オレはさ、昨日帰ってからも気になって〜。んで、こんなのはどうだろ?」
ヒカルが並べたのは、彼が主張したノゾキからの手ではなく、アキラの守りからの手筋だった。それは今日のアキラの打ちまわしとも違う、もっと洗練されたものだ。アキラは見ていて自分が覚醒していくのがわかった。
「いいね、うん。なんだか非常にボク好みなんだけど?」
「だろ?オレらしくないよな?」
二人は笑い合うと、更にもっと美しい道は無いものか検討を重ねた。
腕時計のアラームが七時半を告げる。
「今日はありがとう。そろそろ片そう」
アキラが石をより分け始めると、ヒカルは一瞬逡巡し、視線を何もない畳の縁に彷徨わせ、深く息を吸うと気になっていたことを問うた。
「あのさ、昨日眠れないほど気になったことって、何?」
訊ねられ目を細めたアキラを見て、いや、あの、べつにイヤなら、ウン、などと口篭もるヒカルの手は、石を片しているのかただ混ぜているのか、なんともよくわからない動きをしている。
「・・・キミが孤独だなんて言うから」
手が、止まった。
「・・・オレは孤独じゃないぜ?」
「キミは・・・時々とても寂しそうな顔をしている。そのまま消えてしまいそうなくらい」
ヒカルは黙ったまま俯いていて、アキラにはその表情を窺うことができない。
本当は言うつもりではなかった言葉に、アキラは後悔した。おそらく見られているとは思っていなかったのだろう。
しばらくうつむいていたヒカルが、そろそろと荷物を引き寄せ、取り出した白い扇子を目の前にかざす。
「進藤?」
扇子に据えていた瞳を閉じ、苦しげに少し眉を寄せると、ヒカルの口から吐息がこぼれた。しかし、再び開かれアキラに向けられた瞳には、寂しさも苦しさも見えない。
深く澄んだ瞳に、アキラは寂しくないのではないと気付いた。
寂しくないのではない。何も、ない。そこには、寂しさも嬉しさも楽しさも・・・そういったもの全てが、ない。
「塔矢、オレは孤独じゃない。でも寂しい時はあるんだ。とても、とても孤独だったヤツを知っているから。オレは・・・そいつの孤独を癒してやることはできなかった。せいぜい寂しさを紛らわせるくらいで。でも、そんなアイツでも、一時だけ孤独から開放された時があったんだ」
― そして、今になると、それが原因なんじゃないかって思える。佐為は、孤独じゃなければいけなかった。対等の相手がいない、二人揃わない孤独に苛まれて、辛くて、寂しくて、だから存在できた。それが癒された時、佐為は・・・逝く運命、だった・・・?でもそれって、神の一手には決して届かない運命ってことじゃないか? ―
目はアキラを見つめたまま、ヒカルは自分の中に落ちていった。
現世に留まったこの千年は、佐為にとって幸せだったのだろうか?
たとえその身がなくとも、碁を打つことができた。
でも、対の相手を得ることはできなくて、神の一手には、決して、届かなくて。この様に断ち切られるのなら、いっそ・・・。そう、思わなかっただろうか?
佐為は何も言わずに逝ってしまった。だからヒカルにはわからない。
自分は、佐為の千年の意味になれただろうか?神の一手には届きませんでしたが、ヒカルに会えましたから、だから、その様なことなど思いませんでしたよ、と佐為に言ってもらえる存在だっただろうか?
「進藤」
ヒカルの目に涙はない。その表情は穏やかに微笑んでいて、でも目には一切の感情がなく、かえって見る者の胸に刺さる。
「オレは孤独なんかじゃない。塔矢アキラがいるから。おまえがいなかったら・・・そもそも碁打ちになんてなってなかった。おまえがいて、石を持つことのできるこの身があって、寂しいけれどアイツと出会えて一緒に過ごせたオレは、すごい幸せ者なんだ。オレは幸せだよ、塔矢」
ヒカルの告白は、わずかだが残っていたアキラの心の鎧をはぎ取った。
「キミの言う“アイツ”が誰かはあえて聞かない。でも、ボクは知っていると思うよ。・・・ボクたちは、それぞれ互いのために決して欠くことができない存在だったのだと思う。誰か一人のためにではなく、互いが、互いのために。・・・違うかな?その人にとって、僕の存在は意味のないものだった?」
その問に、ヒカルはただ首を横に振る。
「キミに出会うまで、ボクは気付いていなかったけれど孤独だったのだと思う。無意識に求めて、得られない苦しさから、もういっそ、それから目をそらしてしまおうと決めた時にキミはあらわれたんだ。辛くて、苦しくて、知らないままでいたかったと思ったことも一度や二度じゃないけれど、それでも忘れることはできなかった。そうして今、キミがココにいる。碁盤を挟んで、ボクの向かいに座ってる。だからボクも幸せだ。そしてキミも幸せなのなら、その人もきっと幸せに違いない。ボクもその人も、とても幸せ者だよ、進藤」
アキラの真摯な言葉に、ヒカルは胸を衝かれた。でもそれは痛みではなく、軽い痺れを伴って体に広がっていく。
そう思ってもいいのかな?佐為?そう、思っていい?オレ。
「幸せ、だったんならいいんだけど」
「間違いない。でなければ、キミがここまで来るはずがない。キミといられて幸せだったはずだよ。さあ、これを運んでしまおう。碁笥を持ってくれないか?」
現実に引き戻され、ヒカルはほとんど石の入っていない碁笥に気が付き慌てた。
残っている黒石を急いで片すヒカルを、アキラは見るともなく見ていたが、石が全て取り除かれると改めて感謝の言葉を口にした。
「進藤、今日は本当にありがとう。なんだかとても充実した一日になった。不思議だね。朝からずっと寝不足で憂鬱だったし、昼には急な取材の話で苛々したし、キミが倉田さんと話し始めたときはヤキモキしたし、キミに叱られた時にはとても落ち込んだし、他にもずいぶんと色々辛い気持ちになったけれど、キミがお茶を入れてくれて、僕らしい手を考えてきてくれて、大切な人の話をしてくれて、ボクがいるから幸せだと言ってくれたから、今日はとても忘れがたい嬉しい一日になったよ」
その言葉に、ヒカルは抱えた碁笥を危うく落としそうになるほどうろたえた。
「な、なんかさ、改めてそんな風に言われると・・・気持ち悪い・・・んだけど」
「なぜ?それに、昨日は好き嫌い言っているからリーグから落ちるんだなんて言われて、反論できなくて辛かったんだ。それなのに、それを言った君がだよ?嬉しいって言ったら変かな?」
「あ〜、あれはさ、んー。オレはぁ、塔矢の打つ碁がスキだから、無理にらしくない手を打たせたい訳じゃないんだ。ただ、それでおまえが負けるのはイヤなんだよ!」
碁盤を運んでいたアキラの足が止まり、後ろからついて来るヒカルを振り返る。
「・・・進藤って・・・」
二の句が継げないアキラに、ヒカルは何?と首を傾げて見せる。すると突然、今は使われていないはずの、二人が使用していた隣の対局場のふすまがパーンと開き、中から倉田を先頭に見たことのある面々、しかも高段者、に続きその他大勢がぞろぞろと出てきた。